かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 216 中国⑧

2023-04-01 10:10:42 | 短歌の鑑賞
2023年版  馬場あき子の旅の歌29(2010年6月実施)
    【李将軍の杏】『飛天の道』(2000年刊)175頁
     参加者:Y・I、T・K、曽我亮子、T・H、
         藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:T・H 司会とまとめ:鹿取 未放

     
216 鳴沙山を静かに上る秋の月砂のみを照らし来しおそろしさもつ

       (レポート)
 鳴沙山は、莫高窟がある背後の砂山である。時は秋。なぜ「砂のみを照らし来し」月は「おそろしさ」をもつのであろうか。鳴沙山は全山細かい砂でできていて、その砂は、止まるところを知らず、四六時中、さらさらと莫高窟に降り注いでいるそうだ。「鳴沙山を静かに上」ってきた月は、莫高窟をも隈無く照らしていたであろうに…先生は「砂のみを照らし来し」月と言われる。そしてそれが「おそろしさもつ」とは、どういうことなのだろうか。天体はこの地球に生命をもたらすものである筈。しかし今、この敦煌で見る秋の月は、植物一つ無い砂山である鳴沙山を照らしてきた。そこには命は感じられない。そこに「おそろしさもつ」の意味があるのか。(T・H)


      (当日発言)
★恐怖ではなく、畏敬の念を伴った恐ろしさ。(T・H)
★孤独に耐える強さをもった月(曽我)


     (まとめ)
 厳密に言えば、もちろん月は地球全てを照らしているのであるが、そして砂漠にもオアシスがあり、建物もあるのだが、鳴沙山のふもとに立つ旅行者の気分としては沙漠すなわち「砂のみ」を照らし来しという感じなのだろう。戦争の絶え間ない荒涼とした沙漠の月をうたった漢詩も古来作られているが、この歌、もっと殺伐としている。大自然の深淵にコミットした精神が感じたおそろしさなのだろう。(鹿取)

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