かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 378 中欧③ 

2023-11-07 10:27:41 | 短歌の鑑賞
 2023年度版 馬場あき子の外国詠52(2012年5月実施)
    【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P100~
     参加者:I・K、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放


378 くらしの時間はすみやかに何かを忘れしめ孤独なり老いて静かに肥ゆる

     (レポート)
 「くらしの時間」とは、日常の何気ない生活のことだろう。日常性に埋没するということか。サルトル流に言えば、「自由と不安から目をそらしながら生きている自己欺瞞」。こういった生活の中では、政治や思想、社会との関わりなどが忘れ去られ、「モノ」的存在として孤に還る。作者の当時の感慨であろうが、ハンガリーの人々の思いも重ねているのだろう。(鈴木)


       (当日発言)
★この歌もサルトルとからめて考えないと読めないだろう。(鈴木)
★「老いて静かに肥ゆる」の主体はむしろハンガリーの人だろう。欧米の人はアジア人
 に比べて老いて肥満になる人々が多いように思われる。以前の歌にあったハンガリー
 動乱も彼方となって虹を見ていたおばあさんも太った人のイメージ。人は忘却しない
 と生きていけないから〈日常性への埋没〉は致し方が無いが、サルトルはそこを踏み
 とどまってアンガージュマンすることを説いた。ハンガリー動乱の当事者は革命や愛
 する人の死を忘れ果てて生きているわけではないが、日常の表面からはうすらいでい
 るであろう。そして時折、忘れていることの罪の思いがきりきりと胸を刺すのだ。老
 い、肥えて孤独であることにハンガリーの人も、それを見る作者も胸の奥に痛みをし
 まっているように感じられる。(鹿取)


     (後日意見)
   母たちは巨鯨 娘はガレの蝶 あした西班牙の陽にひかりあふ
 上記の歌は中欧より先に馬場が訪れたスペインを詠んだ歌の中にある。娘達はガレの描いた蝶のようにきゃしゃだが、母達は巨鯨のようだという。当地に行っての馬場の実感だったのだろう。 (鹿取)


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