かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 157

2021-02-10 17:02:59 | 短歌の鑑賞
 ブログ版 渡辺松男研究 2014年9月 
   【夢解き師】『寒気氾濫』(1997年)67頁~
   参加者:石井彩子、泉可奈、泉真帆、崎尾廣子、鈴木良明、
       曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取 未放
                       

157 身はじょじょに眠りにむかい重くなり犀となりしとき水月浮かぶ

        (レポート)
 眠りに落ちようとするわれの体がしだいに重くなって行き、ついには犀になってしまった。犀のわたしの目には水面に映っている月が見えている。あるいは、犀のわたしは水中にいて水の中から水面に映る月を見ているのかもしれない。
 作者はいろいろなものへ成り代わるが、ここではなぜ「犀」なのだろうかと思った。この後に続く158〜161番のうたも連作として繰返し鑑賞しているうちに、なんだか「犀の角のようにただ独り歩め」というブッダのことばが重ねられているのだろうかと思うようになった。(真帆)


         (意見)
★犀というものは重いものじゃないですか、だからあまりブッダとか背景を考えなくともいいんじ
 ゃない。水月というのは幻という意味もあるので幻の月を見たのかもしれないなと。(曽我)
★そうですね、ブッダのこの言葉は有名だから当然松男さんの頭にもあって、そこから来た言葉か
 も知れないですね。松男さんの句集にも「犀といふすごい秋思がやつてきた」と犀が詠まれて
 いますけど、この歌はこの句のような精神的意味合いはあまり考えなくていいのじゃないかな
 あ。眠くなった時の感覚が犀の鈍重さとか重さに重なる。朦朧として犀になったときに意識に
 水月が浮かんだ、あるいは犀になった〈われ〉が水の中にいて水面に浮かぶ月を見上げているイ
 メージでもいいけど。(鹿取)
★犀となった時は自覚的なのじゃないかな。その時になってやっと海の中が見えた。(慧子)
★そうすると慧子さんの読みでは、犀になった時、悟りとかそういう宗教的なものが宿った事にな
 るんですか?(鹿取)
★そういう匂いがちょっとします。(慧子)
★私は身が重くなって犀になってますます混沌として、そこに夢まぼろしのように水月がゆらめ
  いていたととっていましたけど。(鹿取)
★悟りとかとは全く違って眠りに入るときの状況そのものかなあと。でも眠りに入ってからはもや
 もやではなくすっきりしてはっきりと水月が浮かぶ、そういう感じ。もやもや感だと何かをまだ
 引き摺っているんだけど眠りに入ったら逆に眠りに集中してすっきりしているんじゃないかなあ。
   (鈴木)
★私も眠りの心地よさを表しているのかなあと。(崎尾)


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