馬場あき子の外国詠52まとめ(2012年5月実施)
【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P100~
参加者:I・K、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放
375 歴史動く時の決断にカダールは敵でなきものは味方と言ひき
(レポート)
ハンガリー動乱を革命とみるか反革命とみるか、カダールという人物に対する評価によってこの一首の読みは変わってくる。以下08年発刊の『ハンガリー革命1956』より要約。
※ハンガリー動乱は、1956年にナジ政権の樹立とソ連軍撤退を要求して、ハンガリーの民衆が蜂起した十二日間の闘い。このときカダール(1912~89)は、ナジ革命政府に参加しながら、途中で裏切り、ソ連と手を結び、反乱鎮圧後、ソ連からハンガリー最高指導者に任命され、実質的に88年まで続いた。62年「われわれに反対しない人たちは、われわれの味方だ」と言い、武装蜂起して逮捕され投獄された人々への恩赦を約束し、ほぼ全員が釈放された。ただ反乱鎮圧後、死刑になったナジ等に対する罪の意識を後に告白。ハンガリー動乱をめぐる評価については、ハンガリーでも89年に、動乱の評価を修正し、反革命という表記を改め、民族独立運動とみなす。同年、社会主義を捨て、人民共和国を建国し、ヨーロッパへ回帰する。(なお、動乱当時、日本の社会党、共産党はともに、「反革命」との立場をとっていた)(鈴木)*下線は、レポーター
(当日発言)
★一首では分かりにくい。ハンガリー動乱時、カダールがソ連軍を招き入れた時、「敵でなきもの
は味方」と言ったのか。作者はそのことを良いと思ったのか、反対だったのか。しかし『ハンガ
リー革命1956』にあるように62年のことばだとすると、武装蜂起で投獄されていた人たち
を釈放したことだから同国人のことで、この言葉は大したことがないように思える。(鈴木)
★ハンガリー動乱時、ラジオでずっと実況していて、子供心にソ連や共産主義というものを怖い
と思っていた。(藤本)
★「敵でなきものは味方」はレポーターの説明を聞いていると、弱い。こじつけとまでは言わな
いが。(崎尾)
★作者の立場はどうなのか?作者の意見が分からない。(藤本)
★作者はソ連軍導入時に発せられた言葉だと思って、こう歌ったのかも知れない。62年の事柄だ
とすると「歴史動く時の決断」と緊密に結びつかなくなる。歌とは直接関係ないが、いじめなど
の場合は、はっきりと自分に味方してくれない者は、みんな敵というのが通常の考え方だが、カ
ダールはその逆を言っている。ある意味、苦しい言い訳のようにも聞こえる。(鹿取)
★この時点でカダールはナジが裏切ったように見えて、処刑にしたのか。(曽我)
★結果的にはそうだろう。ナジはアメリカに助けを求めたが、アメリカは動かなかったらしい。
それにしても、この言葉を詠む意義は何だったのか?大戦中中立で敵ではないと思っていたソ
連が突如敵になったことへの何かか?この歌は馬場先生はいつ歌われたのか。(鈴木)
*中欧への旅は1999年。(後日、鹿取記)
★もっと細かく歌わないと分かりにくい。私たちの歌とすると注文がつきそうだ。カダールは最初
は民衆を裏切ったのだから。(藤本)
★そうかなあ、私はこれで歌えていると思うけど。(鹿取)
★「敵でなきものは味方」という言葉の裏にある複雑さを先生は見ているのかもしれない。
(崎尾)
(まとめ)
「敵でなきものは味方」については、きちんとした文献を調べないといけないのだが、とりあえずWikipediaによると、動乱の1956年、
ソ連の戦車は革命を潰すため、11月4日の夜明けにブダペストに向かって動き出した。
同日、カーダールを長とした、いわゆる「臨時労農革命政府」(Provisional Revolutionary
Government of Workers and Peasants)の樹立宣言がソルノクから放送された。(中略)
カーダールはまた「敵対しない者は誰もが我らと共に」あり、「普通の人々は、弾圧はも
とより監視さえも恐れる必要なく、その経済活動を続け、演説し、読み、書くための正当
な自由を得る」と付言した。これは、自らに従わない者はすべて敵とみなしたスターリン
主義独裁者ラーコシによる支配とは特筆すべき対照をなした。(Wikipediaより)
と書かれている。この「敵対しない者は誰もが我らと共に」が馬場の歌の「敵でなきものは味方」のことなら革命当時(当日)の発言である。これで「歴史動く時の決断」と緊密に結びつく。この決断を馬場は評価しているのだろう。また後日、かつて敵として戦った思想の違う同国人を恩赦した、そのことをも評価しているのだろう。
ところで、レポートにカダールがその処刑に罪の意識を持っていたと書かれたナジは、53年ハンガリー勤労者党の首相に就任。国民の生活改善をはかり、農業集団化制度や宗教を緩和し、強制収容所を廃止した。それがスターリン主義者達との対立を招き、55年首相を退陣、勤労者党からも除名された。ところが、徐々に民主化の声が高まり、56年に党に復帰し、同年ハンガリー動乱が勃発すると首相に復職。その後ソ連軍に拘束され、2年後の58年KGBによる秘密裁判で、絞首刑に処された。満62歳。一方カダールはソビエト連邦に支援され新しい共産主義政府を組織し、56年以降ハンガリーを統治。88年までハンガリーの権力の座にあったが、経済悪化と病気を理由に書記長を辞任し、翌89年7月77歳で病没。それから2ヶ月余り後、ハンガリー動乱33年後の同月同日に当たる1989年10月23日、社会主義独裁を放棄しハンガリー共和国が建国された。この年、ナジは名誉を回復している。(鹿取)
【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P100~
参加者:I・K、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放
375 歴史動く時の決断にカダールは敵でなきものは味方と言ひき
(レポート)
ハンガリー動乱を革命とみるか反革命とみるか、カダールという人物に対する評価によってこの一首の読みは変わってくる。以下08年発刊の『ハンガリー革命1956』より要約。
※ハンガリー動乱は、1956年にナジ政権の樹立とソ連軍撤退を要求して、ハンガリーの民衆が蜂起した十二日間の闘い。このときカダール(1912~89)は、ナジ革命政府に参加しながら、途中で裏切り、ソ連と手を結び、反乱鎮圧後、ソ連からハンガリー最高指導者に任命され、実質的に88年まで続いた。62年「われわれに反対しない人たちは、われわれの味方だ」と言い、武装蜂起して逮捕され投獄された人々への恩赦を約束し、ほぼ全員が釈放された。ただ反乱鎮圧後、死刑になったナジ等に対する罪の意識を後に告白。ハンガリー動乱をめぐる評価については、ハンガリーでも89年に、動乱の評価を修正し、反革命という表記を改め、民族独立運動とみなす。同年、社会主義を捨て、人民共和国を建国し、ヨーロッパへ回帰する。(なお、動乱当時、日本の社会党、共産党はともに、「反革命」との立場をとっていた)(鈴木)*下線は、レポーター
(当日発言)
★一首では分かりにくい。ハンガリー動乱時、カダールがソ連軍を招き入れた時、「敵でなきもの
は味方」と言ったのか。作者はそのことを良いと思ったのか、反対だったのか。しかし『ハンガ
リー革命1956』にあるように62年のことばだとすると、武装蜂起で投獄されていた人たち
を釈放したことだから同国人のことで、この言葉は大したことがないように思える。(鈴木)
★ハンガリー動乱時、ラジオでずっと実況していて、子供心にソ連や共産主義というものを怖い
と思っていた。(藤本)
★「敵でなきものは味方」はレポーターの説明を聞いていると、弱い。こじつけとまでは言わな
いが。(崎尾)
★作者の立場はどうなのか?作者の意見が分からない。(藤本)
★作者はソ連軍導入時に発せられた言葉だと思って、こう歌ったのかも知れない。62年の事柄だ
とすると「歴史動く時の決断」と緊密に結びつかなくなる。歌とは直接関係ないが、いじめなど
の場合は、はっきりと自分に味方してくれない者は、みんな敵というのが通常の考え方だが、カ
ダールはその逆を言っている。ある意味、苦しい言い訳のようにも聞こえる。(鹿取)
★この時点でカダールはナジが裏切ったように見えて、処刑にしたのか。(曽我)
★結果的にはそうだろう。ナジはアメリカに助けを求めたが、アメリカは動かなかったらしい。
それにしても、この言葉を詠む意義は何だったのか?大戦中中立で敵ではないと思っていたソ
連が突如敵になったことへの何かか?この歌は馬場先生はいつ歌われたのか。(鈴木)
*中欧への旅は1999年。(後日、鹿取記)
★もっと細かく歌わないと分かりにくい。私たちの歌とすると注文がつきそうだ。カダールは最初
は民衆を裏切ったのだから。(藤本)
★そうかなあ、私はこれで歌えていると思うけど。(鹿取)
★「敵でなきものは味方」という言葉の裏にある複雑さを先生は見ているのかもしれない。
(崎尾)
(まとめ)
「敵でなきものは味方」については、きちんとした文献を調べないといけないのだが、とりあえずWikipediaによると、動乱の1956年、
ソ連の戦車は革命を潰すため、11月4日の夜明けにブダペストに向かって動き出した。
同日、カーダールを長とした、いわゆる「臨時労農革命政府」(Provisional Revolutionary
Government of Workers and Peasants)の樹立宣言がソルノクから放送された。(中略)
カーダールはまた「敵対しない者は誰もが我らと共に」あり、「普通の人々は、弾圧はも
とより監視さえも恐れる必要なく、その経済活動を続け、演説し、読み、書くための正当
な自由を得る」と付言した。これは、自らに従わない者はすべて敵とみなしたスターリン
主義独裁者ラーコシによる支配とは特筆すべき対照をなした。(Wikipediaより)
と書かれている。この「敵対しない者は誰もが我らと共に」が馬場の歌の「敵でなきものは味方」のことなら革命当時(当日)の発言である。これで「歴史動く時の決断」と緊密に結びつく。この決断を馬場は評価しているのだろう。また後日、かつて敵として戦った思想の違う同国人を恩赦した、そのことをも評価しているのだろう。
ところで、レポートにカダールがその処刑に罪の意識を持っていたと書かれたナジは、53年ハンガリー勤労者党の首相に就任。国民の生活改善をはかり、農業集団化制度や宗教を緩和し、強制収容所を廃止した。それがスターリン主義者達との対立を招き、55年首相を退陣、勤労者党からも除名された。ところが、徐々に民主化の声が高まり、56年に党に復帰し、同年ハンガリー動乱が勃発すると首相に復職。その後ソ連軍に拘束され、2年後の58年KGBによる秘密裁判で、絞首刑に処された。満62歳。一方カダールはソビエト連邦に支援され新しい共産主義政府を組織し、56年以降ハンガリーを統治。88年までハンガリーの権力の座にあったが、経済悪化と病気を理由に書記長を辞任し、翌89年7月77歳で病没。それから2ヶ月余り後、ハンガリー動乱33年後の同月同日に当たる1989年10月23日、社会主義独裁を放棄しハンガリー共和国が建国された。この年、ナジは名誉を回復している。(鹿取)
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