かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 405 中欧⑦

2024-01-01 10:24:00 | 短歌の鑑賞
 2023年度版 馬場あき子の外国詠56(2012年9月)
     【中欧を行く カレル橋】『世紀』(2001年刊)P116~
      参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:N・I(欠席、レポートのみ)
     司会と記録:鹿取 未放


405 人体はなまなまとして苦しげなりカレル橋いつ雪に埋もれむ 

     (レポート)
 カレル橋は城下町と旧市街地を結ぶために造られた石橋。両側の欄干には30もの聖者の像があり、多くの戦いを経験した橋故の聖者とはいえ生々しい人間くささを感じたのではないか。せめて清浄な雪が降って一刻でも苦しさを消したい願望なのではないでしょうか。(N・I)


      (当日発言)
★人体とは橋を渡っている人のこと。それはカレル橋でもあるがもっと抽象的な頭の中
 に存在する橋でもよい。お能の橋がかりのようなことも考えられたのじゃないか。そ
 して人体は何となまなましいんだろうと。良い歌だ。(慧子) 
★慧子さんがいうまでは聖像のことだと思っていた。服をまとってはいるが通る人に見
 られてなまなまと苦しそうだと。(崎尾)
★人間か聖像か迷ったが、下の句の関連からすると聖像。また「苦しげ」という言いま
 わしは観察者のもの。人間の内面をリアルに表した結果、苦悩を背負った多くの像が
 カレル橋には建つことになった。「いつ雪に埋もれむ」は直訳すれば「いつ雪に埋も
 れるのだろう」だけど、苦しげな像たちを雪で覆ってやりたいっと思ったのではない
 か。(鹿取)
★前の歌(聖なるもの観光として見ることに疲れゐつ荘厳(しやうごん)のビート聖
 堂)からの関連で読むと当然聖像。たとえばザビエルひとりとっても苦しい生き様
 だったわけだから。(藤本)
★なまなまを活かすと歴史を負った苦しみというのは違う感じ。(崎尾)
★私も藤本さんも歴史を負った苦しみとは言っていないです。人間の内面をリアルに
 彫った結果、聖像といえどもなまなまとした苦しげな様子で建っている、というの
 です。(鹿取)
★聖像だったらなまなましいとは書かないのではないか。(曽我)
★生々しいのはやはり歩いている人だと思う。頭の中には別の抽象的な橋があって、そ
 こにも人が歩いている。現実のカレル橋を渡る人と、想像上の橋を渡る人とその両方
 の上に雪が降って包んでくれないかなあと思っている。(慧子)
★慧子さんの解釈はよく分からない。なぜ抽象的な橋が出てくるのか。雪に埋もれさ
 せるのは、聖像でしかありえない。(藤本)
★では、両方の意見があったということを書いておきましょう。なまなまとしているの
 は人体でももちろん解釈できるけれど、想像上の橋は持ってこない方が良くて、30
 の彫像が建つ橋を渡っている人間が彫像に比べてなまなましいとリアルに取る方が面
 白い。(鹿取)
コメント
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