BES大山(鳥取)

鳥取県大山周辺に関する日々の情報、お知らせなどを載せています

堰堤は?

2009-10-14 11:42:04 | 歴史・文化
以前、チラッとあった金門の堰堤はいつ出来た?の疑問。
一言で言ってしまうと、時期も年代も不明な堰堤。

記録にある限りでは大正6年(1917)
大山の治山工事はじまる。

・・・とあり、その頃から段階的に砂防堰堤が作られていったのでは?
な雰囲気。大正の初めには金門を大山寺・大神山神社の参道として
使用していた写真が残っているので、堰堤が無かった?

かと思えば、よくよく話しを聞いてみると、
子供の頃(約50年前)は鎖かロープが金門に張ってあって、
それを張って上に登った気がする。と言う話も。
近寄れないため下から近づけて。大正初期の写真と今の状態を比べると、3m以上石が溜まっているように見えます。
今は見えませんが、辛うじて砂(石)に埋まる堰堤の下には水の通り道らしき穴が見えたり。
ちなみに、上の石はいつ落ちて来たかは、近くの人に聞いても普段通る道ではないため分からないとのこと。

金門を抜けた先にある堰堤と、南光河原の
現在工事している堰堤は石の積み方が同じに見えますが、

金門にある一段目の堰堤は石の合わせ方が
それよりも、更に古いもののようにも見えます。

大神山神社の石畳の原型が出来たのが寛政年間(1789~1800)
・・・と言うことは、それまでは、河原(金門の間)を参道として
使用しており、江戸時代後期の絵図からも、
金門は参道として使用されていたのは見て取れます。

堰堤としての技術が日本に伝わり、
近代砂防事業が始まったのが明治30年(1897)

砂防堰堤が作られる理由の一つ。
大きな水害が起きたのは、明治18年、19年、26年、27年、大正3年

阿弥陀川が毎年氾濫し危険なため、と言う記述があるのが明治26年
坊領川が改修されたのが明治27年。

県内で大規模な水害復旧工事が始まったのが明治27年

となると、明治27年頃に作られたと言う可能性や、
それよりももっと古いとも考えられたり。

参道の石は何処から運んだのか、いつ作られたのか、
切り分け門はいつから金門と呼ばれるようになったのか

調べれば、面白いですが、調べれば調べるほど、
謎が増えていったりします。
--------------------------------------------------
今日8時の気温は13度。11時30分現在変わらず。天気は晴→曇。
紅葉は色づき始め。2~3割程度。

堰堤がいつ作られたか分かる方は教えて下さい。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿