私は仏像ファンではありませんが、
あるとき、一つの仏像に魅せられました。
それは「ガンダーラ仏」。
「ガンダーラ」という単語は、
50歳代以降の人には「ゴダイゴ」というグループが歌い、
ヒットした曲が思い浮かぶと思いますが、
そう、そのガンダーラです。
現在のパキスタン、ペシャワールがその地であり、
シルクロードに存在した都市です。
三蔵法師も立ち寄りました。
ガンダーラは東西文明の交流地点でもありました。
教科書に出てくる「アレキサンダー大王の東征」の際に、
ギリシャ/ローマ文明がこの地にもたらされることになり、
その影響でそれまで作られてこなかったブッダの像(仏像)が作られるようになりました。
ブッダ入滅後、すでに500年が経過していました。
こういう背景があるため、
初期の仏像はギリシャ/ローマ彫刻のように、
彫の深い西洋人のお顔をしていました。
それがなんとも魅力的なのです。
今風に言えば“イケメン”。
西洋と東洋のエッセンスをまじりあわせて作った、
ハーフのような顔立ち。
日本の仏像は中性的で優しい雰囲気がありますが、
ガンダーラ仏は男性像です。
ガンダーラ仏がシルクロードを介して当方に伝わる際に、
徐々にその土地の文化の影響を受けつつ変化し、
日本にたどり着いたときには現在のお顔になった、
ということですね。
こちらのサイトに初期仏教美術について記載されていたので、
メモ的に抜粋させていただきます;
▢ 仏陀の呼び方
・釈迦、釈迦牟尼、釈尊との呼ばれているが、本名は「ゴータマ・シッダールタ」。
・釈迦は出身部族名からくる通称。
・仏陀は「目覚めた人(悟った人)」を意味する語。
▢ 仏陀の生涯
・インド北部の小国の王子として誕生。
・29歳で出家し、35歳の時に菩提樹の下に座して悟りを得た。
・その後インド諸国を旅して周り、80歳でこの世を去るまで説法に努めた。
・入没は紀元前480年ごろ(諸説あり)。
▢ 初期の仏陀美術
・仏舎利(仏陀の遺骨)を収めた仏塔(ストゥーパ)など仏陀の遺物崇拝と荘厳(しょうごんー装飾)。
(例)インド中部のサーンチーやバールフトに残る仏教遺跡
・仏塔を囲む石造の塔門や、欄楯(らんじゅんー柵)に多くの浮彫がされ、仏伝図(ぶつでんずー仏陀の生涯を描いた図)や本生図(ほんじょうずージャカータ・前世物語)などが彫られている。
▢ 無仏像時代の彫刻
・紀元前3世紀~前1世紀初頭の頃の仏教美術には仏陀の姿は表されておらず、「無仏像時代」と呼ばれている。
・仏陀は人のカタチをとらず、記号のようなものにより存在が示された。
(例)
仏足跡(ぶっそくせきー仏足石)…仏陀の足跡
菩提樹…悟りを得た仏陀を象徴
傘蓋(さんがい)…古代インドの貴人の外出具
仏塔
法輪
台座
三宝標(仏・法・僧と呼ばれる3つの宝物)
・古い経典には「仏陀の体は形象化できず、また測ることもできない」という意味の言葉が記されている。当時の人々にとって、仏陀を生身の人間の姿であらわすことは畏れ多かったためと推測される。
▢ 仏像の起源
・仏陀の死後500~600年後に仏像が造られるようになった。
・最初の仏像はガンダーラ地方(現在のパキスタン北部)でクシャーン朝時代の紀元1世紀頃という説が有力。続いて中インド北部の小都市マトゥラーで2世紀初頭頃に造られた。
・紀元前4世紀にマケドニアのアレキサンダー大王が東征を行い、ガンダーラ地方にも多くのギリシャ系民族が流入し、西方文化が伝えられた。
・前3世紀半ばに仏教信者であるマウリヤ朝のアショーカ王がこの地方まで領土を広げ、寺院や仏塔が建てられた。
・やがてクシャーン朝(1世紀後半~3世紀頃)に入って最初の仏像が生み出された。
▢ ガンダーラの造像
・初期の仏教遺跡であるインドのサーンチーやバールフトでは、紀元前3世紀から前2世紀にかけて、仏陀を象徴表現(仏足跡や菩提樹など)で表した仏陀なき「仏伝図」がつくられていた。
・期限1世紀頃のガンダーラでは、象徴表現ではなく頭光(ずこう)や僧衣をつけた人物像として表現したものが登場し、これが仏像の始まりとされている。
・初期の仏像は仏伝図に描かれた他の人物と同程度の大きさであったが、しだいに大きく目立つように表現されるようになり、これが礼拝の対象となり、ついには「単独の彫像」が造られるようになった。
▢ ガンダーラ仏は西洋人?
・ガンダーラ仏はギリシャ・ローマ美術の影響を受けている。
・人物表現は、彫の深い顔立ちに高い鼻、引き締まった口元にひげを蓄えた顔貌で、東洋人よりは西洋人の特徴を備えている。
・その思索的な表現と写実味あふれる肉体表現は、ガンダーラ美術が東西文明の交流により形成されたヘレニズム美術の影響下に造られたことを物語る。
もう一つの仏像の起源とされてきたマトゥラーについても記述されていますので、
こちらも引用・抜粋されていただきます:
▢ マトゥラーという都市
・仏像の起源をめぐって北西インドのガンダーラと長年論争の的になってきた地であり、中インド北部のジャムナー川とガンジス川が合流する地点にある。
・水路によりインド全域と交流があり、通商路の交差点として栄えてきた。
・宗教に関する造形活動も行われ、土俗神の石像や大型のストゥーパ(仏塔)、寺院建築など、紀元前2世紀ごろにまでさかのぼる造形技術の長い伝統を有していた。
・ガンダーラ地方でヘレニズム美術の影響による造像が始まったのと同時期に、マトゥラーではインド独自の様式を持った仏像が造られ始めた。
▢ マトゥラーでの造像の発生
・マトゥラーに仏像が出現したのは、クシャーン朝時代の紀元2世紀初め頃で、仏教庇護者であったカニシカ王の時代(2世紀半ば頃)に最盛期を迎えた。
・マトゥラーにおける仏像の政策は、ガンダーラと同様ストゥーパ(仏塔)の装飾として彫刻された仏伝図からはじまり、しだいに礼拝用の単独像が造られるようになった。
・ガンダーラの仏像は西洋文化の影響を強く受けた彫りの深い顔立ちや、写実的な衣文(えもんー絵画や彫刻に描かれる衣装類のシワ)を特徴としていたが、マトゥラーの仏像は力強く生気があふれる表情をしており、肉付きのよい豊満な体と、強く張り出した両肩と体に密着したごく薄い衣文、小ぶりにあらわされた巻貝の肉髻(にっけい) などが特徴。
▢ マトゥラー仏の衰退と復活
・3世紀半ば頃にはクシャーン朝が終わりを告げ、同時に仏像づくりも陰りが見え始めた。
・北インドの仏教芸術が再度活発になったのは、4世紀のグプタ朝時代で、古典復興の機運に乗り、マトゥラー彫刻の伝統を踏まえた新たな造像が始まった。
・伝統的な造形に加え、写実性が増し、顔の表情にも微妙な表現が付与されるなど、精神性を加味した優美な様式に変化していった。
・仏教美術は東南アジア諸国や西域、中国にも伝播し、影響を及ぼしていった。