conparu blog

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  心象風景 その1  邂逅

2016-01-18 21:39:32 | 小説的随想

過去を振り返ることは無意味なことではない。そこから反転して未来を展望する糧にもなり得るからである。過去を顧みて鏡面反射のように未来を予測するのは難しいが、経験から学ぶことは多い。
もし誰かに過去未来を透視する力が与えられているとしたら、人間の霊的な原始世界を覗くことも可能かもしれない。心の中を洞察することも可能となる筈だが、人間の領域を超えてしまう。

透視という特殊能力を持つゆえに、人の願いに沿って助言をし、人生の伴走者となる奇特な人もいる。ある人の家系が遥か遠い先祖から系譜的に見えてくるとしたら、常識的には「嘘だろう」「あり得ない」と一蹴されてしまうに違いない。「先祖は立派だったが親の代でだめになった」とか、「君は長男ではないが家を再興する役目を負っている」などと遺伝子レベルの情報を告げられたら、荒唐無稽だとして聞き捨てられるだろうか。その中に少しでも信じる内容があったなら、信じる人にとっては有意義な生きる処方となるかも知れない。要するにガンジガラメの状態に追いやられている人に対して、現状から這い上がる突破口を与えてくれる灯明の存在であるこのような人を、「霊能者」と言うのだろう。

遠い祖先からの霊脈を受け継ぐ選別された人のみが受け継ぐ特殊な能力者、霊能者と言われる方が二十世紀にはいた。自分なりにそのような人を『死者の眼を持つ人』と定義づけている。

この特殊霊能力と云う判然としない能力は、後天的に備えた経験に基づく推察や、先人の知恵の蓄積に依存するといった現世的なものではない。生まれる前の胎内で、遺伝子の流れを潜って着床したものらしく、神秘の世界から降下してきたのでは?と思わせる異次元のものだった。

心身を鍛錬して宗教家のような洗い清める所作を経て、おそらくは長い修練を積んだ結果なのだろうが、目の前に静かに座っている方から放出される見えない力の霊的感応をひしと受け止めながら、静謐な気の授受を執り行う。魂の浄化に他ならないのだが、再び生まれ変わることが仮にもあるとするならば否定する理由は何もない。
巷には占いをして衆人を惑わす人もいるけれど、占う人を選別するか避けるのが無難のようである。どのような人にも祖先との関わりがあり、『死者』は近い存在だと思えるのだ。
清二は占いと云うものを信じていないが、特殊な領域に身を置いている方の霊能者の力は信じている。

「先生!私の霊を見てください」これが全ての発端であった。
海の見える高台の一室で、先生はじーっと清二の眼の奥を手繰るように覗きこんでから、ホッと軽く息を継いで言った。
「剛ちゃんは、もとは京都にあった〇〇の〇〇で直系だ。武家〇系の公方さんのあと、大名~~~代官そして最後が庄屋だった」――代を追うごとに先祖の下降運を覗かれてしまったが、すんなりとその言葉が理解できた。そのことは一部に未知の部分があったものの、清二の内に秘めていた既知の事実であったからである。

「先生を知ったキッカケは、美系専門学校に入学した時に後ろの席にいた少年が話しかけてきたことに始まる。彼と付き合うようになってから、彼の口から先生の存在を知るようになったのである。少年の名は「清明」と言った。清明もまた霊感の強い人だった。歳の割には大人びた物言いや見方をして、自分の中の霊的な存在を信じて疑わなかった。断言的なところはあったが少年にありがちな純な心情も持ち合わせていた。
彼は清二のDNAの中にある霊性に興味を持ったらしく、清二の先祖について聞きたいと云う素振りが見えた。そのためか、その前に清明の母親の家系を話してきた。

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