conparu blog

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中世の乱パターン

2008-12-17 01:48:00 | 歴史

歴史に記された動乱期を、再確認する意味でGoogleやOCNの検索を使ってみた。書き手にもよるが中世の争乱は、読んでいて絵巻物を見るように華やかでドラマチックであった。

古代においても、大きな転換期であった大化の改新は、蘇我氏を滅亡させた後のスケールの大きな展開で、額田王と天智、天武、両帝のロマンスを絡んだ万葉の世界が小説化している。
私には物語としての歴史イベントと言う感じが強い。

華やかな中世の乱では、何と言っても源平の戦いが際立って壮絶であり、輝かしいものだけれど、この戦いは以前からの争乱の終章に位置していると思う。

大雑把にしか記せないけど、源氏と平氏の関係は、臣籍に降りて東国に下ったときから始まっていたわけだけれども、最初から仲が悪かったわけじゃない。

平直方が婿となって源頼義となったし、その子義家は武士の棟梁といわれ、前九年後三年の役で自腹を切って褒賞を与えたことで、関東の結束を高める基を作った。東国は源氏、西国は平氏、の住み分け勢力圏はあったものの、まだ剣呑な状態にはなっていなかった。

対立の構図が芽生えてくるのは、保元の乱からであろうか。天皇継承位に絡んだトラブルに摂関家の家督争いがリンクして、武家の武力を双方の勢力に巻き込んで起こった、大争乱がそもそもの壇ノ浦の序章となった。

つまり、崇徳上皇方には藤原頼長、武家源為義、為朝、その他一族、平忠正ら・・・一方、後白河天皇方には関白忠通、源義朝、平清盛となっているが、双方が一族二分しての骨肉の争いが繰り広げられた。

教科書通り崇徳上皇が負けて、上皇は讃岐にながされ、為義以下の源氏と平忠正は処刑された。
後白河天皇、関白忠通についた清盛と義朝が、いやが上にも歴史の舞台に立つことになった。

いやでも覇権を競う武家の対立を包含していた。そして平治の乱に移行する状況が生まれてきたのである。

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