月の岩戸

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桜月夜・2

2013-09-01 05:35:09 | 月夜の考古学

 クロジは、その名のとおり、全身黒っぽい毛皮をしていました。前足が長くて、肩の位置が高く、しっぽが細めなので、どことなく犬に似ています。キツネの目で見ると、クロジはどう見ても美しい部類ではありません。瞳の輝きが、素直な賢さのようなものを、何となく感じさせはしますが、全体の感じは、どうしても、もっさりとやぼったく見えました。
「あの……、あたし……」
 すみれはめまいを覚えながら、消え入るような声で言いました。頭の中に、「ことわろうと思って……」という言葉が浮かびましたが、声にはなりませんでした。
「ねえ、こ、こっちに来て、座らないかい?」
 クロジは、すみれをおおばば桜の木の下へと、誘いました。
「え……?」
「さ、桜が、きれいなんだよ……」
 すみれは、とまどいつつも、何だかクロジがあまりにも一生懸命なので、しかたなく、クロジの後に従いました。月夜にけむるようなおおばば桜の花の下に入ると、夢のような香りが辺りをつつみ、すみれは、どこからかやさしい気持ちがわいてきて、まあ、少しぐらいならいいわと、思いました。
 クロジはおおばば桜の太い幹のそばに、腰を下ろしました。すみれは、遠慮がちに、少し離れて座りました。と、クロジの毛皮の匂いが、まわりの空気の中に、濃く漂いました。すみれは思わず顔を背けました。クロジの方に近い肩のあたりが、じりじりと熱く感じられました。涙が出そうになるのは、どうしてでしょう?
 時が過ぎました。ふたりは、何も言葉をかわさないまま、じっと座っていました。クロジは、落ち着かなげに、何度も頭をかいたり、きょろきょろと辺りを見回したりしていました。すみれは、ただ、じっと、うつむいていました。
「ねえ、そこらを歩いてみないか?」
 やがて、しびれをきらしたように、クロジが言いました。すみれは、はっと顔をあげて、思わず「え、ええ」と、答えてしまいました。
 クロジは、ぴょんと立ち上がると、さあ、おいでよ、と言うように、すみれを振り返りました。すみれは、おずおずと笑いながら、立ち上がりました。
 ふたりはしばらくの間、無言で歩きました。クロジが少し先を歩き、すみれは体ひとつ遅れて、従いました。時々、本当についてきているかどうか確かめるように、クロジがすみれを振り向きました。
 歩きながら、すみれはふと考えました。少しよろけて、クロジに肩をぶつけてみようか。それとも、振り向かれたとき、にっこりと笑いかけてみようか。すると、すみれは何だか、急におかしくなりました。それらのことが、みんな、子供じみたばかばかしい考えのように思えました。
(あたし、このひとのこと、好きなのかしら……)
 すみれは、考えました。今こうして、ただいっしょに歩いているだけで、何だか胸がいっぱいで、苦しいくらいです。恋というのは、こういうものなのでしょうか? 自分は、このひとの妻になるのでしょうか? でも、考えようとすると、つまづいてひっくりかえった拍子に、突然目が空にほうり込まれた時のように、頭の中がどこか知らない虚空へ飛んで、真っ白になるのです。もとより、クロジは、自分のことを、どう思っているんでしょう。結婚を申し込んでくれた時の気持ちは、今も変わっていないのでしょうか?
 クロジは、すみれにあわせて、ゆっくりと前を歩いてくれます。一度、クロジが暗い茂みの中に踏み込んだとき、すみれは一瞬、妙なことをされるのではないかと思って、体を硬くしました。でも、クロジは黙々と歩くばかりで、何も起こりませんでした。
 愛していてくれるのかしら? それとも、興味はないってことなのかしら? 暗い森を歩きながら、もやもやとした悩みにからみつかれて、すみれは何だかひどく疲れたように感じました。
 ふと、家に帰りたいという思いが、すみれの頭をよぎりました。母親の顔が目に浮かび、懐かしさに涙があふれそうになりました。こんなに母親から遠く離れてしまったのは、初めてです。母親の元に帰れば、こんな不安な気持ちからは、逃れられるでしょう……。すみれは胸の中で、繰り返しました。帰りたい……帰りたい……でも……
 眼窩に涙の玉がふくれ、すみれは地面に目を落としました。ぼやけた視界が、ぽたぽたとしたたり落ちたと思ったら、ふと白く光る月のようなものが、すみれの足元に現れました。目をパチパチさせてよく見ると、それは小さな桜の花びらでした。黒い地面に、白い花びらが一つ、落ちているのです。
「ごらん! すみれ!」
 やがて、ふと、前を行くクロジが、言いました。すみれは、思わず、顔を上げました。瞬間、まるで、眼前で音もなく光が爆発したかのように、すみれの目は、真っ白なものの中へ、吸い込まれました。
「あ……」
えもいわれぬ香りが、息苦しいほどに辺りに満ちました。光は、徐々に収束して、やがて、一枚の透明な幕をひらりとはぐように、その正体を現しました。天をつく大きな桜の木が、その薄紅の樹冠を、空いっぱいに広げているのでした。
(これは、なに……?)
 無数の枝々に、無数の花々が灯り、それは天から差し出され、見るものをつつみこもうとする、光る無数の手のようでした。それはまた、色と香りとかすかな触感をまぜて作った、これ以上精密に描きようのない、みごとな花の点描でした。今を咲き誇る薄紅の花々には、どの花にも、小さな声を発する灯火が宿っていて、それぞれに微妙に違う、無数の色と光を束ねながら、桜は、まるで燃えさかるように、全身で叫んでいました。
 まるで、時間の外を泳いでいる何者かに、魂をかすみとられてしまったかのように、すみれは、しばし息をするのも忘れて、桜を見上げていました。心臓が、ぶるぶると震えました。
(なんて、きれい……、なんて……)
 みずみずと澄んだ空気が、風景のすみずみまで満ち……忘れていた何かが、音もなく歌い始めて、その切ない声が、この耳のひだに今、ひたひたと、おしよせて、くるような……
すみれの目に、新たな涙が灯りました。ふと、彼女は、我に戻りました。隣を見ると、クロジが口を開けて、ほうけたように桜を見上げています。すみれは、ぼんやりと、辺りを見回しました。見たことのないところのような気がしていましたが、桜の根元に目をやると、さっきクロジといっしょに座った太い根の膨らみが見えました。ふたりは、森を一回りして、もう一度、おおばば桜のところへ帰ってきたのです。
 すみれは、急に、どうしようもない寂しさを感じて、再び桜を見上げました。さきほど感じた美しさは、みじんも変わってはいません。でも、今、この胸の奥から吹き上げてくる悲しみは何なのでしょう?
 すみれは目を閉じました。そして、胸の奥からきしるような叫びが聞こえてくるのを、感じました。涙が滂沱と流れました。すみれは、桜を見ているうちに、その美しさ、大きさと、自分が、まるで無縁のもののように思え、どうしようもなくちっぽけなもののように思え、打ちひしがれたのでした。
 彼女は、もう一度隣のクロジを見ました。そばにいるクロジのかすかな体温が、ちくちくと、すみれの皮膚にささりました。自分と同じようなちっぽけな命が、彼の中にもあることを感じました。それは寒い夜の小さな灯火のように頼りないものでした。涙がひっきりなしに流れ、そうして、すみれは理解しました。切ないほど、理解しました。自分が、無力であることを。だれかとともにいなければ、生きていけないほど、無力であることを。
 すみれの口から、押えていた嗚咽が、もれました。すると、クロジがびっくりしたように、振り向きました。
「ど、どうしたの? おれ、なにか……」
 たずねても、すみれは、ただかぶりをふるばかりでした。クロジは途方にくれて、おろおろとすみれの前を行き来しました。
 ふと、クロジは、おおばば桜の黒い幹の中ほどに、ほんの小さな小枝が突き出ていて、それに小さな花が二つ三つ、こぼれるように咲いているのを、見つけました。
「そうだ。ちょっと待って。おれ、あれを戸ってきてあげる」
 言うが早いか、クロジはぽんと地面を蹴って、飛び上がりました。でも、小枝は思ったよりも高いところにあって、少し飛び上がったくらいでは届きませんでした。クロジは、一旦地面に降り立つと、ぼんやりとこっちを見ているすみれの涙顔に、ちらりと照れ笑いを送ってから、もう一度、おおばば桜を見上げました。
 今度は、ちゃんと位置と高さを確かめ、助走距離もたっぷりとりました。しかし、もう少しのところで届かず、クロジは鼻先に小さな痛みが走るのを感じました。
「あ……」
 すみれが声をあげました。見ると、クロジの鼻に少し血がにじんでいます。さっき飛び上がったとき、小枝の下に突き出ていた古枝に、ひっかけてしまったのです。でも、クロジはあきらめません。何度も、助走距離をとって、あの桜の枝をとろうと、飛び上がります。
「もういいわ、やめて」
「なあに、大丈夫さ」
 クロジは、無理に平気を装って、言いました。振り向くと、すみれの心配顔が自分を見つめています。クロジはかすかに笑いました。やっかいな古枝に何度も鼻面をかまれ、クロジの口のまわりは血に染まっていました。しかし、ここまできたら、あきらめることは、許されません。クロジはすみれから目をそらすと、一旦下を向いて、地面に大きな息を吐きました。土をつかむ足の爪が、じりじりと燃えるようでした。そしてしばらく目を閉じて、息を整えてから、ゆっくりと顔を上げ、桜の枝を見ました。夜の片隅で、それは、この世にたとえようもないほど、美しく見えました。
 クロジは、走りました。時間が、長く伸びました。クロジは一瞬、走っている自分の隣に、もうひとりの走っている自分がいるような錯覚を覚えました。しかし、次の瞬間には、ずんと、音をたてるように、ふたりの自分がぴたりと重なったような気がしました。何か、不思議な熱いものが、体の中を走りました。そして、花が、急に目の前に大きく迫ってきたと思ったら、クロジは空を飛んでいました。足が、吸いつくように幹にとまりました。すると、まるで待っていたかのように、口の中に桜の枝が入ってきました。
 クロジは、機を逃さず、あごに思い切り力をこめて、枝を食いちぎりました。そしてそのまま体を翻して、地面に降り立ちました。まだ、まわりの世界がぐるぐる回っているようなめまいの中で、すみれが駆け寄ってくるのが、見えました。
 すみれは息を荒くしているクロジに近寄ると、夢中で、その血がにじんだ鼻をなめました。クロジは、何が何だかわからない様子で、ちょっとつらそうな顔をしましたが、やがて、桜の枝を、ぽとりとすみれの足元において、言いました。
「よかった。泣き止んだね」
「クロジ……」
 すみれは心配そうに、クロジの傷を見ています。クロジは、ぜえぜえと息をしながら、恥ずかしそうに、上を見上げました。少し傾いた月が、桜の梢から抜け出して、夜空にぽろりとこぼれていました。
「ああ、月があんなところに。もう遅いね。すみれ、おくっていこうか」
 クロジが言うと、すみれは、少しはにかんだように、顔を背けました。そのほほ笑んだ横顔に、白い花びらが一枚、落ちていました。何だか、すみれが、さっきまでとずいぶん変わったように見えて、クロジはどきりとしました。
 やがて、すみれは、小声で言いました。
「もう少し、ここにいたいわ……」
 振り向いたすみれの瞳に、クロジの顔が映りました。クロジは言葉を失って、すみれの顔を見つめました。
 風が、桜の梢をゆらしました。花びらが、星をまくように、降りました。
 やがて、夜の底に、寄り添うように座ったふたりを、月が静かに、見下ろしていました。

     (おわり)



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