月の岩戸

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プロキオン・4

2013-07-23 03:46:32 | 詩集・瑠璃の籠

海が見える
はてしない海だ
きつい潮のにおいがする

海の色は青というよりは
薄い藍色だ
波の音など聞こえないのに
たいそう荒れている
わたしは海辺を歩いていて
時々波をかぶるのだが
そのたびに
波が湯のように暖かいのに
はっとして
ようやく気付くのだった
ああ なんだ
これはプレアデスのお風呂だ

目を開けると
わたしはまた
小部屋の文机の上に顔をおいて眠っていた
机の上に置いてある
蛸の形の文鎮が
一瞬猫のような声をあげるのを聞いた

ああ また眠っていたか
この頃わたしはよく眠る
眠ってばかりいる
わたしはぼんやりとした頭で
机の上においてある筆立てから
一本のペンをとり
さきほどまで見ていた夢のことなど
詩に書こうと思って
紙を出した
プロキオンが ちると鳴いた
ちる ちる ちる

詩を書こうなどと思いながら
ぼんやりとしているうちに
わたしはまた 眠ってしまったらしい
ふと気づくと 文机の上に顔をおいて
ぼんやりとしている自分がいる
やれ よく眠るものだ
せっかく詩を書こうと思ったのに
夢をすっかり忘れてしまった
わたしは文机から顔を起こした
左手の鈴が ころりと鳴る
一瞬わたしは 暖かな潮騒を全身にかぶったような気がしたが
それもまた しびれて動かない
感情の壁の向こうに 吸い込まれて
すぐに忘れてしまう

ふと 気配を感じて
小窓を振り向いた
するとそこに星がいた
あまりにも悲しそうな顔で
今にも涙をこぼしそうに震えながら
わたしを見降ろしている
瑠璃の籠の中にプロキオンの姿がなかった
それでわたしは この星が
プロキオンであることがわかった

わたしは少々驚いた
プロキオンは まるで少女のような
やさしい顔立ちをしているのに
その体躯ときたら
今まで見たどんな星よりも大きかったからだ
まあ こんな大きな星が
小さな白い鸚哥のようになって
わたしのそばにいてくれたのか

わたしがただ驚いて 呆然と
美しいプロキオンの姿を見上げていると
プロキオンは たまらぬという顔をして
わたしに近寄ってきた
そしてわたしを胸に抱き締めて
言うのだった

帰りましょう
もう帰りましょう
これ以上苦しんではなりません

わたしは プロキオンに抱かれて
自分がまことに小さいということを感じながらも
言ったのだった
いいえ 苦しくなどありませんよ
わたしは

すると プロキオンは
わたしを抱く腕を一層強めた
わたしは 暖かい彼の腕の中で
安らぎを感じざるを得なかった
なんとやさしい人だろう

するとプロキオンは
わたしの考えていることを
見透かしたように 言うのだった

お願いですから
そう自虐的になるのをやめてください
あなたはいつもそれだ
人を愛するために
自分の命をごみのように捨てる
どのように侮辱されても
自分は馬鹿だからといって
すべてを愛のためにやる
あまりにも高いことを
やっていながら
だれの愛も求めず
ひとりで満足して消えてゆく
もう少し 傲慢になってください
請求書の一枚でも 書いてください

ああ それは
とても 難しそうだ
と わたしが言うと
プロキオンは一層体を震わせて
わたしを強く抱くのだった

そのようにして 何分かが過ぎた
わたしはプロキオンのやさしい愛に抱かれて
とても幸せだった
ほんとうに父に抱かれているようだ
こんな幸せをもらって
いいのだろうかと 考えていると
プロキオンはまたそれに気づいたらしく
突然わたしを軽々と持ち上げて
小部屋の扉を開けた
わたしを抱いて和室を巡りながら
プロキオンは言った

あなたは 昔は
そういう人ではなかった
そんなに かわいい人では
もっと誇り高かった
激しい威厳があった
それなのに今のあなたは まるで
見捨てられた幼女のように小さい
なぜそんなことになったか わかるでしょう
どんなに愛しても 愛しても
人々はあなたを愛そうとしなかった
それゆえに あなたは深く傷つき
まるで自分に自信が持てない
愛するだけ愛して
自分は何もいらないといって
消えてゆく
なぜこんなことになったのか
わかるでしょう
あなたは 人々が侮辱しつくして
殺した愛の心そのものなのです

ああ そのとおりです
わたしはきつく抱きしめられて
何も言えなかった
反論するエネルギイもない

プロキオンはわたしを抱きながら 
ふすまを次々と開けていった
そしていつしか わたしたちは
ベテルギウスの守る 紺のふすまにたどりついた
わたしは そのふすまを見て
ああ とつぶやいた
彼はわたしに
もう死ねと言っているのか

プロキオンはそのとおりだと言うように言った
いきましょう 
あなたはもう二度と
人々を愛さなくていい

プロキオンは左手にわたしを抱き
右手で紺のふすまを開けようとした
わたしは目を閉じた
死ぬのは怖くはなかった
今死ぬのも よいかもしれない
故郷に帰れば 友が迎えてくれるだろう
だが 死の川に眠ろうとすると
突然 わたしの心に
四人の子供の顔が浮かぶ

わたしは ああ と痛い声をあげた
その途端 プロキオンの動作がとまった

彼の腕がふるえている
ベテルギウスは悲しそうな目でわたしたちを見ていた
プロキオンはふすまに手をかけていたが
それを一ミリも開けてはいなかった
その姿勢のまま 凍りついたように
彼は動かない

やがて彼は 山が崩れるように
紺のふすまの前に座り込んだ
それと同時に わたしを抱いている腕をほどいた
わたしは自由になって そこに座り込むと
まるで父のように大きい
プロキオンを見上げた

そんなに哀しまないでください
わたしのために 
わたしは 苦しくはないですから
わたしが言うと プロキオンは
かすかに笑い かぶりを振りながら
また言うのだった

お願いですから
そんなに小さくならないでください
あなたが かわいらしいと
わたしたちは苦しい
もっと傲慢になってください

言われてわたしは
謝らねばならないと思ったのだが
そうするとまるで傲慢ではないので
彼をまた苦しめると思って なにも言えなかった
わたしと プロキオンは
しばし見詰め合ったまま 動かなかった

やがてプロキオンは
再びわたしを抱き上げて 和室を巡り
もとの小部屋に戻った
そしてわたしを文机の前に下ろすと
すぐに鸚哥のように小さくなって
瑠璃の籠に入っていった

プロキオンが鳴く
ちるちると鳴く
わたしは彼に 何かの愛のことばを
かけねばならないと思った
だが何かを言う前に
鈴が まるで怒りを閉じ込めているかのように重く
ころりと 鳴った
そこでわたしは さっきまであったことを
みな忘れてしまった

ふと気づくと 文机の上に顔をおいて
眠っている自分がいた
ああ 最近はよく眠る
眠ってばかりいる と思いながら
顔をあげると 瑠璃の籠の中の
プロキオンが 
ち と
悲しげに 鳴いた



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絵の解説 (てんこ)
2013-07-23 03:50:59
ギュスターヴ・モロー、「夕べと悲しみ」、19世紀フランス、象徴主義。
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