日本の謙譲文化に育つと、育たない人格のパーツとして、
誇大的自己と反撃的自己がある。
上級国民と一般国民のセンスの違いとして、大いに特徴付けられるのが、この誇大的自己である。
誇大的自己とは、言い方を変えれば健全な自己愛で、門地や能力に関係のない自尊感情と言い換えても、あながち間違いではないような気がする。
逆に門地や能力に左右される自尊感情というのは、属性による自尊感情であるから、それが偽りの場合、もろくも彼らの自尊感情は失われる。
次に反撃的自己。
いけもとは小生意気なカウンセラーや精神科医に縁があった。
こいつら、よく考えれば挑発療法によって私を激怒させ、反撃的自己を呼び覚まさせようと画策してるのか、悪く考えれば病院でトラブルを起こさせ、受診拒否に持ち込もうとしているのか、散々苦しんだ時期があった。
そんなに俺を見るのがいやなら、ほかのカウンセラーや医者に変わればいいのにね。
それが患者ファーストであります。
閑話休題。
いじめられっ子たちに 必要なのは、この反撃的自己である。
考えてみれば、いじめという反社会行動をしている連中の学ぶ権利は保障され、なぜその被害者が、不当もに学ぶ権利を侵害されて耐えなければならないのか、理解に苦しむ。
大体、加害者が有形無形の暴力を行使するのであれば、警察力比例の原則によって、逆に被害者が同程度の暴力を行使してもよいのではないか?
この場合、保護されるべき法益は、加害者の法益では全くなく、被害者の法益だからである。
暴を以て暴を制することも必要だったのが、戦国時代なのである。
以上、管内東高井戸でいけもと。