自ら快感原則に反して生きて、口を開けば「生きづらい、生きづらい。」と独りごちて、老母や妹を苦しめていた私は、なんという愚か者なのだろう?
快感原則に反して生きると言うことは、苦痛原則に生きることなのだから、そんな人生を続けていれば、そりゃ、苦痛に満ちた人生になっていくのが当たり前で、それは必然である。
現実原則というのは、未来に快感という果実を得るために、今、快感を得ることを断念することである。
平たく言えば、ひまわりの種が100粒あったとする。
それを今、全部食ってしまえば、腹は膨れる。
しかし、九十粒食べて、残り十粒は畑にまいて、一粒万倍だから、十万粒のひまわりの種に化けるまで、一年待とうという考えを実行することである。
しかしИкэмотоのやっていることは、100粒を100粒、みんな食べずに我慢して、「腹が減った、腹が減った。」と苦しんでいるのだから、これは愚か者の所行である。
これは大げさな例だが、現実原則というものはそういうものであって、むやみに禁欲すればいいというものではない。
むやみに禁欲するのは、釈迦が「悟りの因にあらず。」と喝破した、苦行の類である。
さて、イエスという男は快楽主義者で、バイブルによれば、地元の人に「大食漢の大酒飲み。」だと言われたことが書いてある。
うそだと思うなら、バイブルの福音書を読んでみるといい。
ただしИкэмотоは、誰の福音書かは、さっぱり忘れてしまったが。