
御廟 三骨一廟
釈迦三尊 正面、扉の上には木彫りの額阿弥陀三尊のご来迎をあらわした木彫りの額
中央の石棺に穴穂部間人皇女(母)が葬られ、東と西の乾漆棺(麻布を漆で貼り固めた棺)には東に聖徳太子、西に膳部菩岐々美郎女(妻)が葬られているとされる。
石室 模型
太子御廟図
叡福寺は聖武天皇の勅願によって724年に創建されたとされている だが、聖武天皇が創立に関与したという記録は正史にはない。考古学的にも、境内でこれまで採集されている瓦から判断して、実際の創建は平安後期を遡らないと考えられている
『日本書紀』は聖徳太子の薨去を次のように記している。「推古29年(621)春2月5日、夜半、聖徳太子は斑鳩宮(いかるがのみや)で薨去された。(中略)この月、太子を磯長(しなが)陵に葬った」
推古天皇30年(622年)、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に没し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は亡くなった。 死因については、天然痘、暗殺説 等
廟窟偈碑(びょうくつげひ)・一度参詣すれば迷いを離れ 必ず極楽に往生できる 御廟窟内の西に、皇太子自ら彫刻した霊碑の二十句を埋納したと云われている石碑を、享保年間(1716~36)に、願主が廟前の東にその模刻をしたものを建立した。
良忍 墓
結界石 内側の結界石は弘法大師・空海が一夜にして築いたものという伝承が残されている。空海も、太子を慕って叡福寺に参拝していた、ほかにも、親鸞や日蓮、一遍などが叡福寺に参拝している
円墳の外周は、墓石が隙間なく2重に取り囲んでいる
五字が峰 宝篋印塔・お経が納めてある
墓所
地蔵菩薩石仏(室町時代)
層塔 平安後期
曼荼羅板碑
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