成田山大阪別院明王院 寝屋川市成田西町10番1号 初めての参拝
千葉県成田市にある成田山新勝寺の別院である。本尊が不動明王であり成田山不動尊という通称で呼ばれている。創建は1934年(昭和9年)。また近畿36不動尊霊場の第28番となっている。鬼門よけや交通安全祈願のご利益があるとされる。
祈祷殿
祈祷殿
山門
山門
手水舎
本堂
内陣
笑魂塚
吉祥閣
大師堂
大師堂内部
位牌
曼陀羅
弘法大師
成田山大阪別院明王院 寝屋川市成田西町10番1号 初めての参拝
千葉県成田市にある成田山新勝寺の別院である。本尊が不動明王であり成田山不動尊という通称で呼ばれている。創建は1934年(昭和9年)。また近畿36不動尊霊場の第28番となっている。鬼門よけや交通安全祈願のご利益があるとされる。
祈祷殿
祈祷殿
山門
山門
手水舎
本堂
内陣
笑魂塚
吉祥閣
大師堂
大師堂内部
位牌
曼陀羅
弘法大師
瀧安寺(りゅうあんじ) 箕面 箕面市箕面公園2-23
寺伝によれば658年に役小角が箕面滝の下に堂を建設し、本尊の弁財天像を安置し、「箕面寺」と命名したのが始まりである 富くじは、このお寺が発祥と伝わっている
箕面瀧安寺の富興行 当つても減る銭金の富でなしみのおひさきを守る神札ぞ
山門
五所明神社
護摩壇
役行者
妙音天・弁財天は、『大日経』で妙音天、美音天と呼ばれる
行者堂
役行者
白龍大明神
箕面山神社
熊野権現社
開運出世地蔵
大黒天堂
絵馬
弁天堂
弁天堂
内部
ニャン
観音堂
内部
寺務所
鳳凰閣
大山祇神社(おおやまづみじんじゃ) 愛媛県今治市大三島町宮浦3327
日本総鎮守と呼ばれ、全国に一万社あまりの分社を持つ神社。境内中央には樹齢約2,600年の神木である大楠が鎮座しており、神社内の楠群は日本最古の原始林社叢の楠群として、昭和26年に国の天然記念物に指定されている。社号標(大日本総鎮守大山祇神社)の社号石は、初代内閣総理大臣の伊藤博文が明治42年3月22日参拝記念に書いたもの。その昔は水軍の武将たちの信仰も集め、大山祇神社の神紋「折敷に三文字」を河野氏や来島村上氏が家紋にしている。
入口
楼門
扁額
社紋
御桟敷殿
総門
祖霊社
斎館
姫子邑神社
阿奈波神社
御鉾神社
十七神社
能因法師 雨乞いの楠 天然記念物 1066年の大干ばつの際、能因法師がこの木に幣帛を掛け雨乞いを行ったことに由来する
社務所
伊予国総社・祓殿神社・葛城神社
乎千命御手植の楠 樹齢2600年 乎知命は大山祇神社の祭神大山積神(おおやまつみのかみ)の子孫とされ、神武東征の先駆として瀬戸内海の治安を司る際、大三島に祖神を勧請したとされている。
拝殿 重文
拝殿
本殿
本殿
宝篋印塔 中央は、一遍上人参拝の折に奉納されたと伝わるが、文保2年(1318年)12月9日、一遍上人の30回忌に建てられたとも言われる。一遍は、河野一族であり、その氏神である大山祇神社へは、少なくとも2回参拝している。
圓成寺 奈良市忍辱山町1273
756年聖武天皇の御願により、唐僧虚朧和尚の開基と伝える
(1153):仁和寺寛遍上人が入山。伽藍整備と密法の流布に努める。世に忍辱山流と云う。多宝塔は寛遍の計画として着工され、その死後五年(示寂は仁安元年<1166>)のちに、落成。
多宝塔大日如来、僧形像(文永7年・旧食堂安置)、木造四天王像(建保5年)などがこの当時の仏像として現存。当時は、真言堂、多宝塔、本堂、経蔵、楼門等の堂宇が知られ、鎌倉期も隆盛であったと伝える。寺領235石を有し、坊舎23坊があったとされる
本堂
内陣
楼門・重文
多宝塔
大日如来・運慶 国宝
春日堂(左)白山堂(右) 国宝
宇賀神本殿・重文
源氏三代の墓
大阪府羽曳野市通法寺
河内国の壺井(現在の羽曳野市)は、源頼信、源頼義、源義家の三代が本拠とした地であることから「河内源氏発祥の地」と呼ばれている。
源頼信は、河内源氏の祖。清和源氏二代目の源満仲の子。藤原道兼や道長に仕え、1028年(長元元年)に平忠常の乱を鎮圧したことで知られる。 乱後、坂東武士たちと主従関係を結び、後の東国支配の礎を築く。古市郡壺井里を本拠地とし、子の頼義とともに観音堂を創建し氏寺とした(通寺)。1048年(永承3年)没(81歳)
隆光の墓
源頼義の墓 頼信の嫡男。1028年(長元元年)の平忠常の乱で活躍し、平直方から鎌倉の地を寄進され東国支配の拠点とした。1051年(永承5年)から始まった前九年の役では、石清水八幡宮に祈願して戦功をあげることができたことから、凱旋後、石清水八幡宮を勧請して壺井八幡宮を創建。1075年(承保2年)7月13日没(83歳)。遺言により通法寺の本堂下に葬られた。
義家の墓 源義家は、頼義の嫡男。 前九年の役を父頼義とともに平定。1063年(永保3年)から始まった後三年の役を鎮圧し、武神と呼ばれる。1098年(永徳2年)には院昇殿を許されたが、1101年(康和3年)、次男の義親が反乱を起こし、さらに1106年(嘉承元年)、別の子の義国が事件を起こして中央官界での地位が危うくなる中、同年7月15日に没した(68歳)
通法寺跡 羽曳野市通法寺41番地12
羽曳野市壺井は河内源氏発祥の地として知られているが、この壺井通法寺は、長久4年(1043年)に、河内国司であった源頼信の子源頼義が猟の際に焼けた草堂を見つけ、その跡から等身大の千手観音の霊像を得て、これを本尊とする堂を壺井郷に建立し、壺井堂と称し、新たに金色の阿弥陀如来像をも合わせて本尊とする通法寺を建立した
河内源氏
山門
山門
頼義 墓
源頼義の墓
鐘楼跡
礎石跡
境内跡
歴代住職墓
溝咋神社 みぞくいじんじゃ 茨木市五十鈴町9-21
主祭神は、玉櫛媛とその娘の媛蹈鞴五十鈴媛古事記』では大物主が玉櫛姫を見そめて、媛蹈鞴五十鈴媛命が生まれることになっている。当社の祭神は『日本書紀』の神々に該当する。ここ三島地方の豪族であった溝咋一族と進出して来た葛城の鴨族との結合があり、その勢力は淀川北岸に根付いていたのであろう。溝咋から水田に水を誘導する溝の側の杭とする説明や、鴨と喰いとで、稲田の中に鴨を放つ農法など諸説がある
鳥居
扁額
境内入口
神門
参道
手水
神橋
二の鳥居
拝殿
拝殿
拝殿
青い建物が本殿
本殿縁に居る木製神殿狛犬
上宮跡碑
厳島神社鳥居 厳島神社社殿
木花開耶姫をお守りする随神
事代主神社入口に立つ明神鳥居と拝殿.
事代主神社の狛犬
天照皇大神社・保食神社入口に立つ木製鳥居
保食神社 拝殿
保食神社 拝殿
天照皇大神社本殿
保食神社 本殿
神楽殿・絵馬殿
梅林寺 茨木市片桐町1番3号 御朱印はなし
浄土宗知恩院末寺で、本尊は阿弥陀如来像。梅林寺の前身とされる安養寺は真言宗寺院で寺町といわれた現府立茨木高校の敷地にあったが、1521年眠誉上人が茨木神社の北側に移し、浄土宗の寺院 として梅林寺を開山したといわれている
山門
本堂
庫裏
清秀公墓 案内板
清秀公墓
秀吉の書状
大正天皇が皇太子の時にお泊りになられた記念碑
中川清秀
鎮守堂
天石門別神社 茨木神社本殿の(北側)に建つ
摂社になっている天石門別神社は摂津国嶋下郡の式内社である。
社伝には坂上田村麻呂が、平安時代初めの(807年)に茨木の里をつくった時に鎮座とする。 『摂津名所図会』によれば、住民が当神社の名前が難しいので、言い慣れた八幡宮とか稲荷、春日とよんでいたそうである。 そこへ、織田信長の神社仏閣破壊の嵐の中で、信長の崇敬した天照大神、祇園牛頭天王などの神名は破壊を免れたとしている
扁額
社殿前に酒樽が奉納されているが、社殿床下に“赤井”と称する名水があるというから、酒造に必要な名水を求めての奉納かもしれない
拝所
本殿
改修工事
石碑
天石門別神社 茨木神社本殿の(北側)に建つ
摂社になっている天石門別神社は摂津国嶋下郡の式内社である。
社伝には坂上田村麻呂が、平安時代初めの(807年)に茨木の里をつくった時に鎮座とする。 『摂津名所図会』によれば、住民が当神社の名前が難しいので、言い慣れた八幡宮とか稲荷、春日とよんでいたそうである。 そこへ、織田信長の神社仏閣破壊の嵐の中で、信長の崇敬した天照大神、祇園牛頭天王などの神名は破壊を免れたとしている
扁額
社殿前に酒樽が奉納されているが、社殿床下に“赤井”と称する名水があるというから、酒造に必要な名水を求めての奉納かもしれない
拝所
本殿
改修工事
石碑