週一寺社めぐり

原則として週一回 神社仏閣を訪れる

水無瀬神宮 2017.12.28

2017年12月29日 | 神社仏閣

今年最後の神さん詣で                                 水無瀬神宮 大阪府三島郡島本町広瀬3丁目10-2                   水無瀬神宮は、後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇を祭る神社です。特に後鳥羽天皇はこの水無瀬の地を好んでいたらしく、配流された隠岐にあっても 水無瀬山わがふるさとは あれぬらん まがきは野らと 人もかよわで軒あれて誰か水無瀬の 宿の月 すみこみしままの色やさびしき というように水無瀬をしのんだ歌を残しています                     承久の変により、後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡、土御門上皇は土佐(後に阿波)に遷御、それゞの地で崩御。  

 

   

後鳥羽天皇

    後鳥羽天皇宸翰御手印置文・国宝

 瓦・菊の紋

神門

手水舎 大阪府下で唯一環境庁認定の「全国名水百選」 水を汲む人

本殿・拝殿 

      

客殿 に向かって左側にあります。建てられた時期は不明ですが、豊臣秀吉からの寄進で、造営奉行は福島正則と伝えられています。一時は社務所、または江戸時代には広間や宸殿と呼ばれていました。桁行六間、梁間五間の入母屋造桟瓦。全体の形式手法は書院形式で、規模、形式ともに標準的で比較的簡素な造りになっている。

左から春日神社、柿本神社、星阪神社

稲荷神社社務所都忘れの菊

石川五右衛門

 

 

 

 

                      

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

暗峠の石碑 2017.12.23

2017年12月28日 | 神社仏閣

「観音寺」を通り過ぎ、急な坂の右側に朱色の鳥居が見える。鳥居の後ろには2体の灯篭と大小様々な石仏が並んでいる。

由緒等は不明 いったい誰が建てたのか                                                                     お玉大神、お初大神、玉市大神、秋葉明神、熊鷹大神】東大阪市東豊浦町

 

 

石碑の向かい 不動

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

観音寺 2017.12.23

2017年12月27日 | 神社仏閣

観音寺 東大阪市東豊浦町1219
東大阪市から奈良県生駒市を通る国道308号線沿いにあり、この道の県境にある峠を「暗峠」、そしてこの道を「暗越奈良街道」といい、数ある奈良街道の一つで「日本の道百選」にも選定されています。またこの道は、松尾芭蕉が1694年(元禄7年)に大坂へ向かう途中に通り、「菊の香に くらがり登る 節句哉」という句を詠んでいます。当寺の境内には豊浦川が流れ、平行して旧奈良街道があります

 土地の由縁    不動明王 

  鎮宅霊符神は陰陽道に於ける神で、神道では天御中主神と習合、本地仏として北辰妙見菩薩

   

庫裏内  

   手水

本堂

不動堂

  

     七福神像

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石仏寺 2017.12.23

2017年12月26日 | 神社仏閣

石仏寺 生駒市藤尾町96                            融通念仏宗 本尊阿弥陀如来坐像 沿革は不明、藤尾の檀那寺として信仰を集めてきた。本尊阿弥陀如来三尊像は秘仏だが永仁2年、石工伊行氏の作。境内には鎌倉期の五輪塔、石仏がある  住職不在 朱印もらえず

 

 

本堂

    

五輪塔・高224.5cm  塔高204.5cm  石造  鎌倉

 

阿弥陀如来坐像・鎌倉 生駒市Home page

地蔵菩薩 鎌倉 生駒市Home page

阿弥陀如来 鎌倉 生駒市Home page

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

慈光寺 その2 2017.12.23

2017年12月25日 | 神社仏閣

十三仏板碑(天正十九年)

パンフ 不動

二尊佛 板碑

六十六部供養・本堂前付近

宝篋印塔

墓地

  鐘楼 

下る途中の標識

高安大神

暗峠の南無妙法蓮華経 塚

一般国道の表示

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

慈光寺(暗峠にある) その1 2017.12.23

2017年12月24日 | 神社仏閣

慈光寺 東大阪市東豊浦町1823    枚岡、額田から東へ2.5kmだが、上りの連続で大変キツイので 東生駒からは下りなので楽。                 当山の創建は、今から約1300年前、天智天皇の御世(661~72年)、役行者の開基になると伝わる。当時生駒山中に鬼賊が住み、人畜を殺傷していたので、役行者は彼らを捕らえ、その髪を切り弟子とし、慈光寺建立の使役とされた。行者は慈光寺建立の後も彼等を、義学、義賢と名づけて常随を許した。その由緒をもって髪切山(こぎりさん)と号し、修験道の道場として栄えた

    

遠望

 

山門

  銅鐘・鎌倉

講堂

本堂

一眼地蔵尊

  内陣

本堂の横に三笠饅頭をどうぞ、四国以外のお寺では初めて

赤不動

開山堂

   

弁財天

弁財天

野鳥塚  

手水 墓地

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

推古天皇陵 2011.04.10 Archives

2017年12月22日 | 神社仏閣

推古天皇陵 太子町山田
推古天皇は、西暦593年、日本最古の女帝として即位。死後、その遺言によって、先に亡くなられた御子、竹田皇子と一緒に葬られたとされている。現在、推古天皇陵と伝えられる御陵は、太子町山田の南端にある東西59メートル、南北55メートルの大方墳です。

 

推古天皇陵への道

 

小野妹子の墓

科長神社南側の小高い丘の上に、古くから小野妹子の墓と伝えられる小さな塚がある。妹子は、推古天皇の時代に遣隋使として、当時中国大陸にあった隋という大国に派遣された人物。 妹子が聖徳太子の守り本尊の如意輪観音の守護を託され、坊を建て、朝夕に仏前に花を供えたのが、池坊流の起こりになったとされることから、現在、塚は池坊によって管理されている。

小野妹子の墓

 

科長神社 南河内郡太子町山田3778
太子町で唯一の式内社。伊弉諾尊の子、級長津彦命(しながつひこのみこと)と級長津姫命(しながつひめのみこと)を合祀している。この二神に加えて天照大神ほか六神を祀ることから、俗に八社大明神と呼ばれている

科長神社 本殿

 

 

鹿谷寺跡 南河内郡太子町山田
奈良時代に二上山山麓に造られた鹿谷寺跡は、凝灰岩の岩盤を掘り込んで作られた大陸風の石窟寺院です。中国大陸には敦煌や龍門石窟など、数多くの石窟寺院が見られますが、奈良時代にまでさかのぼる本格的な石窟寺院は、我が国では二上山山麓以外には知られていません。寺跡の中心部には、十三重の石塔と岩窟に彫りこまれた線刻の三尊仏坐像が遺されており、かつてこの周辺から日本最古の貨幣といわれる、和同開珎が出土しています。

鹿谷寺跡石窟如来三尊仏(国史跡

舎利孔

舎利孔

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋篠寺 2011.05.04 Archives

2017年12月21日 | 神社仏閣

秋篠寺 奈良市秋篠町757
本尊は薬師如来。開基は奈良時代の法相宗の僧・善珠とされている。山号はなし。宗派はもと法相宗と真言宗を兼学し、浄土宗に属した時期もあるが、現在は単立である。伎芸天像と国宝の本堂で知られる。奈良市街地の北西、西大寺の北方に位置する。

 

本堂・国宝

「諸々のみ佛の中の伎芸天何のえにしぞわれを見たまう」川田 順

香水閣

役行者

 八所御霊神社 (崇道天皇、伊豫親王、藤原吉子、橘逸勢、文屋宮田麻呂、藤原広嗣、吉備大臣、火雷神)

かみなり石金堂跡  石組石塔霊水

東塔礎石

以下図録より

伎芸天立像・重文

梵天愛染明王十一面観音

月光菩薩日光菩薩 救脱菩薩(左)と梵天

大元帥明王像地蔵菩薩帝釈天

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西方院(太子町) 2011.03.22 Archives

2017年12月20日 | 神社仏閣

西方院 南河内郡太子町太子1663 
当院の由来は寺伝によると、622年(推古天皇30年)に聖徳太子が亡くなったあと、太子の乳母であった月姫(蘇我馬子の娘)・日姫(小野妹子の娘)・玉照姫(物部守屋の娘)の三姫は剃髪し、その名も善信・禅蔵・恵善と称し、太子御廟の前に一宇を建立して、太子の遺髪と太子自作の阿弥陀如来尊像を安置したのが濫觴と伝わる。日本で1番最初の尼寺であるとされる

 

  

隔夜堂

阿弥陀石仏

赤門

阿弥陀如来

十一面観世音菩薩

 

扁額

鐘楼堂

鐘楼堂内部

西方院 三尼公(恵善、善信、禅蔵)御廟所   

                          三尼公尊像

御廟所

三基の多層塔

馬子の塚 馬子大臣塚 西方院壱町計東の方 民家の前にあり・河内名所図絵

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

叡福寺 その2 御廟 2012.03.10 Arghives

2017年12月19日 | 神社仏閣

 

御廟 三骨一廟 

 釈迦三尊  正面、扉の上には木彫りの額阿弥陀三尊のご来迎をあらわした木彫りの額

中央の石棺に穴穂部間人皇女(母)が葬られ、東と西の乾漆棺(麻布を漆で貼り固めた棺)には東に聖徳太子、西に膳部菩岐々美郎女(妻)が葬られているとされる。

石室 模型

太子御廟図

叡福寺は聖武天皇の勅願によって724年に創建されたとされている だが、聖武天皇が創立に関与したという記録は正史にはない。考古学的にも、境内でこれまで採集されている瓦から判断して、実際の創建は平安後期を遡らないと考えられている

『日本書紀』は聖徳太子の薨去を次のように記している。「推古29年(621)春2月5日、夜半、聖徳太子は斑鳩宮(いかるがのみや)で薨去された。(中略)この月、太子を磯長(しなが)陵に葬った」                          

推古天皇30年(622年)、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に没し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は亡くなった。 死因については、天然痘、暗殺説 等

  

廟窟偈碑(びょうくつげひ)・一度参詣すれば迷いを離れ 必ず極楽に往生できる 御廟窟内の西に、皇太子自ら彫刻した霊碑の二十句を埋納したと云われている石碑を、享保年間(1716~36)に、願主が廟前の東にその模刻をしたものを建立した。

良忍 墓

結界石 内側の結界石は弘法大師・空海が一夜にして築いたものという伝承が残されている。空海も、太子を慕って叡福寺に参拝していた、ほかにも、親鸞や日蓮、一遍などが叡福寺に参拝している

円墳の外周は、墓石が隙間なく2重に取り囲んでいる 

頂上への道

五字が峰 宝篋印塔・お経が納めてある

墓所

地蔵菩薩石仏(室町時代)

層塔 平安後期

曼荼羅板碑

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする