2005年4月26日付けで下記のブログ記事をアップしています。
由宇町は玖珂郡であったが2006年3月20日に岩国市に編入され岩国市由宇町となっています。
このようなこともあり同じ題目で新たな項目や写真を追記してブログを書くことにしました。
由宇船主の中で頭角を現した嶋谷徳右衛門(嶋谷汽船創始者)は
若くして船主兼米問屋の中尾家に奉公して廻船業務と米の売買を習得
その才知と能力はすばらしく、その為主家に認められ明治10年(1877)
徳右衛門40歳の時に中尾本家の持船2隻・昌栄丸(900石)と昌宝丸
(700石)を譲り受け更に生家の父親所有船若宮丸を継承して
所有船3隻の船主となって独立した。
しかし明治22年 6 月28日享年52歳にして逝去となり嗣子嶋谷徳三郎が
弱冠22歳で二代目として家業を継承し家督を相続した。
徳三郎は慶応 3 年 (1867) 11月 7 日の生まれで若年より
父に鍛えられ20歳前既に米穀の取り引きや米相場船舶の配船業務などに
精通する優秀な人であった。
由宇の和船を 使った海運業者(北前船廻船業者)が鉄道の開通や電信電話
の発達で廃業に追い込まれる状況下でも嶋谷汽船(当時は嶋屋)
明治29年(1896)イギリス製の浦門丸(528t)を購入し踏みとどまった。
その後明治34年(1901)から40年(1907)にかけて大和型帆船や木造汽船
を処分し堅実第一主義の経営に徹底したと言われている。
日露戦争後の明治43年(1910) 5 月に至り 2 隻の海外船を買船 翌44年
更に 2 隻計 4 隻の千トン級鋼製汽船を購入して従来の九州航路と
北前船航路の運航を継続し充実した海運業を謳歌した。
大正元年(1912)の保有船は大成丸など5隻4350tonであった。
大正3年(1915)7月28日勃発した第一次世界大戦の影響で海運界は
未曾有の好況を迎え大正6年(1918)嶋谷汽船株式会社と改組した。
大正12年(1923)には営業の拠点を神戸明石町に移転した。
上記ブログのサイトへのリンク
https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/ed519bca24daeaaa40ba53a536e5587a
上記の内容とダブル部分もあるが嶋谷汽船の歴史について概略記載します。
上の写真は嶋谷汽船本社跡---岩国市由宇町
出典:Googleストリートビュー 2013年5月
江戸時代末期から明治初期にかけて盛んであった由宇の廻船業は鉄道の開通や電信電話の
発達で北前船が採用していた買い積み形式の営業が不利となり明治30年代(1897-1906)
には転廃業を余儀なくされた。
嶋谷汽船は元々「嶋屋」という屋号で廻船業を営んでいました。
その持ち船は昌平丸(900石)、昌栄丸(700石)でした。
ここで岩国市由宇歴史民俗資料館のリーフレットより当時の北前船の絵馬や嶋屋の船旗
仕切証を添付しておきます。(下の3枚の写真)
上の写真は嶋谷家屋号 「やまじょう」のマークです。
嶋屋は上述のように北前船の船主でしたが明治29年(1896)イギリス製の鋼鉄船の
浦門丸(528t)を購入し、なんとか海運業に踏みとどまった。
次第に持ち船を増やして大正元年(1912)の保有船は大成丸など5隻、合計4,350トン
嶋谷徳三郎が明治28年(1895)より経営した個人営業の嶋谷汽船の組織は大正6年
(1917)5月、資本金50万円で株式会社化に改組し新たな創業となった。
順調に発展し、大正7年(1918)2月に資本金を倍額に増資。同年8月には200万円に
大正15年(1926)6月には300万円、大正12年(1923)には営業の拠点を由宇村から
神戸市明石町に移転した。
さらに昭和8年(1933)7月には500万円に増資。
昭和9年(1934)嶋谷商船株式会社(本社・小樽市)を合併し資本金600万円となって
います。昭和11年の所有汽船は18隻 49,452トンになっています。
主な汽船は太平丸(10,000トン)、昌平丸(10,000トン)、海平丸3,500トンなど
上の写真は太平丸。
主な定期航路: 朝鮮・北海道・大連航路 4回/月
(昭和11年当時) 北海道・北朝鮮航路 2回/月
小樽・稚内航路 6回/月
伏木・根室航路 4回/月
昭和18年(1943)国策により三井船舶と合併。戦争によって壊滅的な被害を受けたが
戦後も存続したが昭和46年(1971)頃から経営が悪化、昭和53年(1978)に自主廃業。
昭和26年(1951)に三井船舶会社から独立して再興した嶋谷汽船であったが27年間の
活動で廃業することになりました。
なお、嶋谷汽船の社主は代々、郷里の由宇を大事にされる方で由宇小学校に多額の
寄付をされています。
参照サイト:
https://www.zensenkyo.com/_bk/kaiho/94kaiho/nihonshousen/nihonshousen48.htm
http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~shkky/wakumon/no-28/01matsuura.pdf
http://jpnships.g.dgdg.jp/company/prof_shimatanikisen.htm
最後に岩国市由宇歴史民俗資料館のしゃしんを添付して筆を置きます
出典:Googleストリートビュー 2013年5月
由宇町は玖珂郡であったが2006年3月20日に岩国市に編入され岩国市由宇町となっています。
このようなこともあり同じ題目で新たな項目や写真を追記してブログを書くことにしました。
由宇船主の中で頭角を現した嶋谷徳右衛門(嶋谷汽船創始者)は
若くして船主兼米問屋の中尾家に奉公して廻船業務と米の売買を習得
その才知と能力はすばらしく、その為主家に認められ明治10年(1877)
徳右衛門40歳の時に中尾本家の持船2隻・昌栄丸(900石)と昌宝丸
(700石)を譲り受け更に生家の父親所有船若宮丸を継承して
所有船3隻の船主となって独立した。
しかし明治22年 6 月28日享年52歳にして逝去となり嗣子嶋谷徳三郎が
弱冠22歳で二代目として家業を継承し家督を相続した。
徳三郎は慶応 3 年 (1867) 11月 7 日の生まれで若年より
父に鍛えられ20歳前既に米穀の取り引きや米相場船舶の配船業務などに
精通する優秀な人であった。
由宇の和船を 使った海運業者(北前船廻船業者)が鉄道の開通や電信電話
の発達で廃業に追い込まれる状況下でも嶋谷汽船(当時は嶋屋)
明治29年(1896)イギリス製の浦門丸(528t)を購入し踏みとどまった。
その後明治34年(1901)から40年(1907)にかけて大和型帆船や木造汽船
を処分し堅実第一主義の経営に徹底したと言われている。
日露戦争後の明治43年(1910) 5 月に至り 2 隻の海外船を買船 翌44年
更に 2 隻計 4 隻の千トン級鋼製汽船を購入して従来の九州航路と
北前船航路の運航を継続し充実した海運業を謳歌した。
大正元年(1912)の保有船は大成丸など5隻4350tonであった。
大正3年(1915)7月28日勃発した第一次世界大戦の影響で海運界は
未曾有の好況を迎え大正6年(1918)嶋谷汽船株式会社と改組した。
大正12年(1923)には営業の拠点を神戸明石町に移転した。
上記ブログのサイトへのリンク
https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/ed519bca24daeaaa40ba53a536e5587a
上記の内容とダブル部分もあるが嶋谷汽船の歴史について概略記載します。
上の写真は嶋谷汽船本社跡---岩国市由宇町
出典:Googleストリートビュー 2013年5月
江戸時代末期から明治初期にかけて盛んであった由宇の廻船業は鉄道の開通や電信電話の
発達で北前船が採用していた買い積み形式の営業が不利となり明治30年代(1897-1906)
には転廃業を余儀なくされた。
嶋谷汽船は元々「嶋屋」という屋号で廻船業を営んでいました。
その持ち船は昌平丸(900石)、昌栄丸(700石)でした。
ここで岩国市由宇歴史民俗資料館のリーフレットより当時の北前船の絵馬や嶋屋の船旗
仕切証を添付しておきます。(下の3枚の写真)
上の写真は嶋谷家屋号 「やまじょう」のマークです。
嶋屋は上述のように北前船の船主でしたが明治29年(1896)イギリス製の鋼鉄船の
浦門丸(528t)を購入し、なんとか海運業に踏みとどまった。
次第に持ち船を増やして大正元年(1912)の保有船は大成丸など5隻、合計4,350トン
嶋谷徳三郎が明治28年(1895)より経営した個人営業の嶋谷汽船の組織は大正6年
(1917)5月、資本金50万円で株式会社化に改組し新たな創業となった。
順調に発展し、大正7年(1918)2月に資本金を倍額に増資。同年8月には200万円に
大正15年(1926)6月には300万円、大正12年(1923)には営業の拠点を由宇村から
神戸市明石町に移転した。
さらに昭和8年(1933)7月には500万円に増資。
昭和9年(1934)嶋谷商船株式会社(本社・小樽市)を合併し資本金600万円となって
います。昭和11年の所有汽船は18隻 49,452トンになっています。
主な汽船は太平丸(10,000トン)、昌平丸(10,000トン)、海平丸3,500トンなど
上の写真は太平丸。
主な定期航路: 朝鮮・北海道・大連航路 4回/月
(昭和11年当時) 北海道・北朝鮮航路 2回/月
小樽・稚内航路 6回/月
伏木・根室航路 4回/月
昭和18年(1943)国策により三井船舶と合併。戦争によって壊滅的な被害を受けたが
戦後も存続したが昭和46年(1971)頃から経営が悪化、昭和53年(1978)に自主廃業。
昭和26年(1951)に三井船舶会社から独立して再興した嶋谷汽船であったが27年間の
活動で廃業することになりました。
なお、嶋谷汽船の社主は代々、郷里の由宇を大事にされる方で由宇小学校に多額の
寄付をされています。
参照サイト:
https://www.zensenkyo.com/_bk/kaiho/94kaiho/nihonshousen/nihonshousen48.htm
http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~shkky/wakumon/no-28/01matsuura.pdf
http://jpnships.g.dgdg.jp/company/prof_shimatanikisen.htm
最後に岩国市由宇歴史民俗資料館のしゃしんを添付して筆を置きます
出典:Googleストリートビュー 2013年5月
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