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2019年明石城築城400周年 オープニング式典 on 2019-3-23

2019年03月24日 04時15分02秒 | 神戸市以外の兵庫県
2019年3月23日(土)、2019年明石城築城400周年 オープニング式典が行われました。
当日の様子を写真紹介します。


上の写真は明石城築城400周年の記念イベント(2019年3月23日~11月30日)の看板

JR西日本は「ちょこっと関西 歴史たび」というキャンペーンを2013年から実施
されています。毎年、春、夏、秋、冬の4回。関西の由緒ある史跡を選び、期間限定の
特別公開や特別講座、ガイド付きウォークなど魅力的な企画です。

2019年1月12日(土)から3月22日(金)までは明石城のキャンペーンです。
このキャンペーンの後のイベントとして今回のイベントが企画され、3月23日は
その初日となる為、オープニング式典が行われた次第です。

2019年明石城築城400周年のイベント内容全体は下記ブログで書いています。
 明石市市制施行100周年イベント予定 目玉は11月23日-24日開催予定のB-1グランプリ


上の写真は3月23日(土)のイベント内容です。




上の2枚の写真は城下町グルメフェスタと名付けたイベントの内容です。
明石城築城400年を祝い、県内の城下町(伊丹、姫路、たつの、赤穂、佐用、丹波篠山、
洲本)や地元明石周辺の名物グルメが西芝生広場に集結しました。


上の写真は佐用町(右)、淡路・洲本(左)のブース


上の写真は姫路(右)、伊丹(左)のブース


上の写真は伊丹のブース


上の写真は伊丹(右)と赤穂(左)のブース


上の写真はたつの(右)と丹波篠山(左)のブース


上の写真は高砂(右)と加古川(左)のブース










上の5枚の写真は明石のブース

開会式典


上の写真は「ときうち太鼓」の音を合図で開幕された開会式典
この時間帯には坤櫓の3階におり実際には写真を撮れなかった為、サンテレビの放映
影像を添付しました。


上の写真は坤櫓の3階より撮った開会式典の様子(10時20分)




上の2枚の写真は開会式典会場(9時30分頃)

「史跡明石城跡」石碑除幕式









上の写真は5枚の写真は「史跡明石城跡」石碑除幕式の様子です。




上の2枚の写真は除幕式を盛り上げてくれた子供達の記念写真

小笠原忠真公のパネル

上の写真は太鼓門付近の小笠原忠真(おがさわら ただざね)公のパネル(記念写真用)

明石城の概要説明を明石城パンフレット(一部加筆)より引用紹介します。

「元和三年(1617)、小笠原忠真(おがさわら ただざね)が信州松本より
明石に国替えとなり、現在の明石城より南西約1km程の所にあった船上
(ふなげ)城に入ったことから明石藩が生まれた。
現在の明石城は、元和四年(1618)徳川二代将軍秀忠が、西国諸藩に対する
備えとして、藩主忠真に新城の築城を命じたことに始まる。
徳川秀忠は姫路城主であった本多忠政の指導を受けるように命じ、3ヶ所の
築城候補地をあげ、現在の地が選ばれた。幕府は普請費用として銀壱千貫目
(時価31億円程度)を与え、3名の普請奉行を派遣している。
この頃、姫路藩本多忠政に仕官していた宮本武蔵が町割り図を作った。

石垣の普請(=現在の土木工事)は元和五年(1619)の正月に始められ、
工事は町人請負で行われたとされる。本丸、二の丸等の城郭中心の石垣、
三の丸の石垣、土塁及び周辺の堀の普請が同年八月中旬に終わり
、幕府より
派遣の普請奉行はその任を終え江戸へ帰参している。
幕府直営工事は本丸、二の丸、三の丸までで、その他の郭の石垣・土塁工事は
幕府と小笠原氏の共同工事で行われている。

普請を終え、同年九月から藩主忠真により櫓、御殿、城門、塀などの作事
(=現在の建築工事)が始められ、その用材は幕府の一国一城令により廃城と
なった伏見城及び同国の三木城などの資材を用いて建てたとされている。
創建当初の坤櫓については次の資料があり、伏見城の建物を幕府からもらい受け
移築されたことを示している。
「坤ノ櫓ハ伏見御城ノ櫓ナリシヲ此度公儀ヨリ公エ下サレコレヲ建ル」
                          『小笠原忠真年譜』
「幕府から伏見御城の三重櫓一つ下され、御本丸未申の角に立候也」
                           『笠系大成附録』
各建物の建築は翌元和六年(1620)四月に完了した。

築城当初の明石城は、本丸に三層の御殿を築き、四隅に三重の櫓を配したが、
天守台の石垣は築かれたものの、天守は建てられなかった。」



上の写真はCGで再現された明石城 手前は居屋敷部、奥は本丸
寛永8年(1631)三の丸下屋敷から出火した火災で本丸にあった本丸御殿は
消失してしまいました。


上の写真は昔の明石城を示したもです。
現在は無い外堀や外堀の門、居屋敷の周囲に設けられていた内堀、さらに現在は一部
埋め立てられた中堀のかっての姿がわかります。
出典:郷土の城ものがたり 東播磨編 兵庫県学校厚生会(1973)Page14


上の写真は1月12日(土)18:30からのテレビ大阪の番組「おとな旅あるき旅 
兵庫・明石へ!冬に食べたい瀬戸内の幸と明石名物を堪能」よりジオラマに主要な
名称を記載したものです。


上の写真は明治19年(1886)測量の大日本帝国参謀本部陸軍部測量局が作成した地図に
掘、川、海、池など水に関する場所と西国街道を色付けしたものです。
外堀や藩主の居舘のあった内堀が正確に描かれているので江戸時代後期の姿に近いものが
推定できる地図でもあります。
また中堀でも現在は埋め立てられて見られない部分の以前の状態が判る。
出典:明石城関連絵図資料集Ⅱ 明石葵会 平成29年(2017)3月発行 Page44


上の写真は小笠原忠政(のちの忠真)の関係系図です。
徳川家との関係が深いことが判ります。


上の写真は明治26年(1893)に出版された「明治新撰 播磨名所図絵」(中谷興助著 
大阪工新図匠舘) 昭和50年(1975)全復刻版に掲載の明石神社の図です。
明石城の本丸のかっての姿が描かれています。
本丸の4隅に3重の櫓が描かれています。廃城後の明治14年(1881)に取り壊された
北東の艮櫓(うしとらやぐら)や北西の乾(いぬい)櫓もかってはこんな位置に
あったことが判る絵です。
明石神社は明治19年(1886)に建立された当時の姿です。
下の方に明治21年(1888)に開通した山陽鉄道(後に国鉄、JR)の軌道と汽車も
描かれています。

明石城の恩人とも言える旧明石藩士の石巻清忠について書いた小生のブログ記事にリンク
して筆を置きます。
 廃藩置県後の明石城と2つの櫓を守った石巻清忠

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