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松原城(神戸市北区)に関するお話 その3 松原城の歴史

2021年09月07日 05時00分18秒 | 神戸情報

「蒲公英(たんぽぽ)城」、「道場川原城」、「道場城」とも呼ばれる松原城は、

南北朝時代の14世紀後半に赤松氏が三田城の支城として築いたとされ、赤松氏の

流れをくむ松原氏が代々城主を務めた。三木合戦で別所方で秀吉軍と戦った松原貞利は

敗戦し松原城は落城した。織田信長の三田城攻めでは、織田方の付城として改変され、

補給基地の役割を果たしたと考えられています。

松原城に関しては過去に下記のブログを書いています。

第1回 松原城に関わる伝説「タンポポ城と鶴の松」 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

第2回 松原城跡(神戸市北区)の発掘調査結果の概要 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

第1回でも松原城に関しての歴史について少し書きましたが

今回(第3回)年譜形式で詳しい歴史を書いていくこととしました。

 

14世紀後半 三田城の付城として赤松円心則村の四男弾正少弼氏範(赤松氏範:1327-1383)の子氏春が居城として築城

永徳3年(1383)赤松氏範と赤松氏春は播磨の清水寺で討死

応仁元年(1467) 松原城の城主、松原越前守貞基(赤松政則の家臣)は赤松氏春の旧領、蒲公英城の他に有野荘、生野荘、岩屋も兼領(この人が松原家の始祖)この時点で蒲公英城から松原城となった。

明応9年(1500) この頃、道場に城下町ができる

永正5年(1508) 松原城主、松原義貞が舟岡山で細川右馬助と合戦して討死

享禄3年(1530) 松原城主、松原家久が飾磨郡在城主の浦上村宗と合戦し討死

天文8年(1539) 松原城主、松原家長が尼子晴久と播州で合戦の折、武功

天文18年(1549) 松原家長、摂州三宅城の合戦で武功

弘治元年(1555) 松原右近太夫貞利、大沢日西原城攻略

弘治3年(1557) 松原城主、松原貞友死去。奥方は仏門に入って天ケ谷殿を設ける

永禄元年(1558)荒木村重、松原城を陥し天満神社の領地を没収

永禄3年(1560) 松原家長死去。松原山城守義富が城主となる。蒲公英城の城下武家屋敷の松に鶴が巣をかけ二羽の雛が育ち、鶴の松と呼ぶようになった。

天正元年(1573) 松原義富が荒木村重と合戦(3月)。義富は三木城主の別所長治に協力

天正2年(1574) 松原右近太夫貞利は山崎左馬助と合戦する

天正5年(1577) 松原貞富、父松原義富と共に三木城に籠城する

天正6年(1578) 松原右近太夫貞利は別所・魚住両氏と共に野口城主の長井利盛に加勢して秀吉と戦う(1,500騎の大将)

天正7年(1579) 松原右近太夫貞利の松原城は羽柴秀吉のため落城。松原貞利は天ケ谷の御殿で切腹。

         松原貞利の子は帰農。羽柴秀吉及び仙石権兵衛が諸役免除環往を令達

         三田城主、伊田氏が滅亡

天正8年(1580) 三木城が落城・滅亡

 

  以上は西本信一著「北摂道場の史話」より抜粋

 

これまで写真の添付がなかったのでしゃしんを何枚か添付しておきます。

上の写真は松原城跡の全体配置図

曲輪1は本丸跡、曲輪2が西の丸、曲輪3が東の丸に相当しています。

 

上の写真は宿場町道場河原 左手上の方に古城跡(松原城跡)が描かれています。

慶応2年(1866)時点の道場河原村の様子を描いたもの

出典:道場町の歴史を学ぶ会編「道場の歴史」No.1(1996.2)Page19

 

上の写真は戦国時代における代表的な城の構造図

出典:兵庫県立考古博物館編 県政150周年記念事業 特別展「兵庫山城探訪」(2018)

 

 


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