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神戸海洋気象台の設置と日本気象学の父・岡田武松

2018年07月01日 04時33分32秒 | 神戸情報
2018年6月28日の20:00からNHKのBSプレミアム「英雄たちの選択」
「昭和の選択▽戦争の時代 天気予報は誰のものか?日本気象学の父・岡田武松の葛藤」
を視聴しました。

この中で神戸海洋気象台の開設に関することが写真とともに紹介されていました。
その内容について簡単に記します。




上の2枚の写真は大正9年(1920)8月26日に開設された神戸海洋気象台。

当時の職員数は55名で岡田武松が初代台長に就任した。

大正3年(1914)から第1次世界大戦が始まり各国、各地の気象情報が入手し難い状況
にあった。気象の予報をする上で出来る限り西の気象観測の拠点が必要とされていました。
また当時、海洋気象の情報(特に台風)に乏しく海難事故も多発していました。
当時中央気象台第一課長(予報課長)であった岡田武松は海洋調査や観測機器の研究も行う
海洋気象台の設置を中央気象台長の中村精男に進言し了解を得た。当時、気象台を管轄
していた文部省もその必要性は認めていたものの予算がないとのことで快諾は得られなかった。

そこで岡田武松は建設費は船成金の業者による寄付で賄うので運営費のみ文部省で負担という
条件で設置の許可をとった。

当時の文部大臣は岡田良平は兵庫県知事の清野長太郎に善処を依頼した。
清野知事は公邸に船会社の代表を招き海洋気象台の建設に協力を求めた。

日本郵船、大阪商船、三井船舶部、三菱商事船舶部の四社がそれぞれ1万5千円を寄付。
37社で23万3千500円が集まった。これによって大正8年4月、竹中組が宇治野山の敷地に
着工し、鉄筋コンクリート三階建て、タイル張りのシャレた本館が翌大正9年4月に
建てられて海洋気象台が完成。

気象台のモデルは当時世界一といわれたハンブルグの海洋気象台。
天体望遠鏡など、いずれも当時の最高を行く観測設備だった。

大正11年(1922)には、神戸、大阪の有志によって別途14万3,800円の寄付が集められ
海洋気象台の無線電信設備が完備され、12月4日、航行中の船舶に対して気象状況、
暴風警報を伝える気象無線通報が始まった。
この世界初の無線通報は、航海の安全に寄与したことはもちろん、全国測候所における
予報作業に大きく貢献した。

ここで、岡田武松氏の略歴をWikipediaより引用紹介します。
岡田 武松(おかだ たけまつ、1874年(明治7年)8月17日 - 1956年(昭和31年)9月2日)
は、千葉県東葛飾郡布佐町(現・我孫子市)生まれの気象学者。
第4代中央気象台長を多年に亘り務めた。

千葉県葛飾郡布佐町(現在の我孫子市)の海産物を扱う商家に生まれる。
6歳で布佐初等小学校に入学、課外に和算を学ぶ。
14歳で上京し、東京府立尋常中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)に入学し、
19歳で卒業し、第一高等中学校に入学。
物理学を中村清二らに学ぶ。同級に桑木或雄(あやお)らがいる。
このころ利根川の水害が多発したこともあり、防災科学や気象学に関心を寄せる。
1899年、26歳で東京帝国大学物理学科卒業し、ただちに中央気象台(現・気象庁)
に勤務。技手として予報課に勤務する。

上の写真は入所当時の岡田武松
大日本気象学会編(後に日本気象学会)『気象集誌』に論文を発表する。
翌1900年(明治33年)、各測候所の勤務者対象とする気象観測練習会で、
気象学の講義を受け持った。.
1905年には予報課長として日本海海戦当時の天気予報を出す。
この予報「天気晴朗ナルモ浪高カルベシ」は、連合艦隊から大本営宛に打電された有名な電報
「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃沈滅セントス。
本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」の原典といわれる。
1911年、『梅雨論』で理学博士となり、1919年、東北帝国大学教授兼任、
1920年、神戸海洋気象台の創設と同時に初代台長に就任。
1923年には第4代中央気象台長(現在の気象庁長官)となり、以後1941年、68歳までその職にあった。
1942年から1944年に1927年刊『気象学』の姉妹編『理論気象学』全三巻を刊行する。
中央気象台附属測候技術館養成所での講義案に新規の資料を付け加えた気象学基礎理論でもある。
在任中は世界に先駆けた海上船舶の無線通信(1910年)や地震観測網の整備・海洋観測船「凌風丸」
の新造・全国気象官署の国営移管など、気象事業の発展に尽くしたほか、
1925年に創刊された『理科年表』には、気象部の監修者として名を連ねている。
一方、研究者としても『気象学講話』『雨』『気象学』などの数多くの研究書・入門書の執筆や
後進の育成にあたり、藤原咲平とともに藤原・岡田学派の総帥として活躍した。
1924年、イギリス王立気象学会よりサイモンズ金牌を贈られ、1931年、帝国学士院会員。
1949年、76歳の時、文化勲章受章。
フェーン現象に風炎の字を当てたことでも知られる。
中央気象台は1956年(昭和31)7月に気象庁に昇格したが、その2カ月後、83歳で没した。



関連ブログ:
 海洋気象観測船 啓風丸見学記 on 2017-7-22

天気予報関連の出来事
明治8年(1875)神戸港長の英人J.マーシャルが港務所で気象観測
明治8年(1875)6月御雇外人ジョイネルが一人で担当して1日3回の気象観測を実施
 
上の写真は後の中央気象台の略図ですが、この場所で観測が始まった。

明治16年(1883)ドイツ人船員のクニッピングが日本で最初の天気図

明治17年(1884)6月1日 東京気象台で毎日3回全国の天気予報を発表(天気予報の開始)



開設当時の神戸海洋気象台の業務内容
-海洋気象及び地球磁力の観測と調査、それに必要な天体現象と地動の観測
-海流、潮汐その他海洋における物理的現象の観測と調査
-天気図と磁気偏角図の発行
-気象器機及び時辰儀、時計、羅針盤その他の航海機器の研究と検定
-洋上船舶に対する暴風警報


その後の神戸海洋気象台
大正12年(1923)9月1日の関東大震災で海洋気象台は中央気象台の代役
昭和20年(1945)3月6日、神戸大空襲で被災
平成7年(1995)1月17日、阪神淡路大震災で被害甚大
        「神戸コレクション」のデジタル化(2006年終了公開)
平成25年(2013)10月1日 神戸地方気象台に改編改称

上の写真は2016年に整地中の神戸海洋気象台

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