2018年5月20日に武井報效会 百耕資料館を訪問し2018年春季企画展の展示解説
を聞いてきましたので記憶のあるうちにメモ書きしておきます。
尚、館内の写真撮影が不可の為、ポスター以外の写真はありません。
まず、武井報效会 百耕資料館について簡単に紹介しておきます。
武井報效会 百耕資料館の基本情報
住所:神戸市須磨区板宿町2丁目2-1 (育英幼稚園内) TEL:078-733-2381
常設展の休館日:毎週月、火、水曜日(いずれか祝・休日の場合は木曜日)盆期と年末年始
企画展の休館日:毎週月曜日(祝・休日の場合はその翌日)盆期と年末年始
入館料金:大人 300円(250円) 大高中生 200円(150円)( )は団体料金
開館時間:10:00~16:00
公式サイト:http://www.ikuei.ac.jp/~hyakko/index.html
百耕資料館は、板宿の旧家名門である武井家に伝わる約1万2千点にも及ぶ
歴史資料を一般に公開されています。昭和62年(1987)10月に開館。
平成22年(2010)7月10日に平成16年春以来、約6年ぶりにリニューアルオープンされ
板宿の歴史をテーマに古代から近現代まで解説とともに公開されています。
次に企画展の内容について簡単に記述しておきます。
企画展の題目:兵庫県第三区~明治初期兵庫県の地方行政と住民~
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/3b/05bee114dc1dc8f69e946f0a36344e8c.jpg)
上の写真は企画展のポスター
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/6a/9ba6e8c01e57b89ff0a4f60c1d2434c9.jpg)
上の写真は1階の展示室の企画展ポスター拡大版
会期は5月27日(日)までです。
Ⅰ 江戸時代の幕領組合村
幕末に板宿村庄屋、下灘組惣代庄屋を勤めた伊右衛門の説明
伊右衛門は旧八部郡内の村々(旧幕府領下灘組)のまとめ役として活躍
まとめ役の惣代(総代)庄屋は明治2年10月に廃止されています。
幕末期は幕領で谷町代官所の管轄の収量は約8万石であった。
惣代(総代)庄屋宅は代官が裁定を行う部屋も用意されていた。
惣代庄屋は大庄屋とも呼称。
代官所の絵図の展示。
旧八部郡内の村々の戸数や石高のデータ。
嘉永元年(1848) 八部郡中諸勧化取締り掛札 神戸文書館蔵
&慶応3年(1857) 御用触状之写 神戸市文書館蔵
八部郡内に入った浪人などがお金をせびりに来た時に神戸村の庄屋が一括対応
庄屋のところには毎日のように浪人などが立ち寄りお金をせびっているのが常態化
Ⅱ 組合村から第三区へ
第1次兵庫県から第3次兵庫県の経緯を説明したパネル
他の資料から同じ内容の説明をします。
第1次兵庫県(慶応4年・明治元年(1868)~明治4年(1871))
慶応4年5月23日(新暦換算1968年7月12日に1次兵庫県が成立しています。
発足当時の兵庫県は兵庫(神戸)港を中心とした摂津国武庫郡以西の4郡及び播磨国
の7郡に散在する旧幕府直轄地で村の数は211、石高は6万6千石でした。
初代県令は伊藤博文で「兵庫論」と呼ばれる藩廃止の意見書を朝廷に提出
したことから長州藩の反感を買い知事を辞職します。
伊藤博文は初代の兵庫県知事で知事であった期間は下記のとおりです。
自:慶応4年5月23日 新暦換算では1868年7月12日
至:明治2年4月10日 新暦換算では1869年5月21日
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/eb/5b03d5bfc0803fa44b3c6563051378c0.jpg)
明治元年5月の兵庫県の領域は濃い橙色で摂津の兵庫津など瀬戸内沿岸などと
播磨地域に散在しています。
明治4年(1871)4月には緑色の領域が兵庫県に編入
明治3年5月13日(新暦換算1870年6月11日)の庚午事変(稲田騒動)により淡路島の
北部が兵庫県に編入 明治3年10月から明治4年
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/f4/652d80db7958b4e36df1976ad3413aad.jpg)
上の写真はパネルの説明書き部分を拡大したものです
第1次兵庫県の初代県庁は兵庫勤番所(旧兵庫城)に置かれました。
現在、最初の兵庫県庁の地 の石碑が新川運河キャナルブロムナードに建っています。
(下の写真)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/64/8b60856918d18bc74ab647dce73d1a63.jpg)
第2次兵庫県(明治4年(1871)~明治9年(1876))
明治4年7月の廃藩置県により従来の大名領がそのまま県になりました。
これまでの尼崎藩は尼崎県、姫路藩は姫路県、出石藩は出石県になり大名に代わり
県令が置かれた。しかし、これでは全国の県の数が多く統一した政治を行うのに不適当
であった為、明治4年11月には3府302県をすべて廃止し、3府72県に再編成された。
現在の兵庫県域は西摂の5郡の兵庫県と播磨の飾磨県、但馬・丹後・丹波の3郡を豊岡県
淡路は四国の阿波・讃岐と一緒に名東県の4つの県となりました。下の写真を参照。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/ce/161b413355ef66e9b39198a2c14a59ad.jpg)
兵庫県は町村数609 人口14万8千人の県となりました。
このころ県知事となった神田孝平(蘭学者)は先駆的な施策を実行し「経済」という
言葉を初めて使用しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/b3/a4813c36ef57618fc70346a4f50dd178.jpg)
上の写真は第2次兵庫県の範囲
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/40/e22c8ff2210bc41dfa1319434e651647.jpg)
上の写真は第2次兵庫県の説明
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/36/c7a8b40200ec23d30e0f98094e96cd71.jpg)
上の写真は明治6年(1873)頃の兵庫県庁
第3次兵庫県(明治9年(1876)~明治22年((1889))
ほぼ現在の兵庫県の県域となった。
明治9年に明治政府は3府35県としました。
この年の8月に兵庫県は播磨県及び但馬全域と丹波の氷上・多紀の2郡名東県の
淡路を併合してほぼ現在の兵庫県に近い形となりました。
人口は134万5千人となりました。当時は東京府、大阪府をしのいでいました。
兵庫県の併合の過程で櫻井勉翁の米寿賀集の資料が貴重なものです。
この中に豊岡県と鳥取県を兵庫県に併合する案もあったことが記載されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/01/fb7e60fe5c8c5efb2b508cae33cc1579.jpg)
第1次兵庫県から第3次兵庫県の県域の変遷については兵庫県のHPで解説されています。
ホーム > 県政情報・統計(県政情報) > 情報公開 > 歴史資料 > 県域の変遷
明治維新後に板宿村戸長、第1次兵庫県第十一区戸長となった伊右衛門。
維新後は武井善左衛門に改名。
第2次兵庫県では第三区区長などを勤めた。
兵庫県(第2次)では、明治5年6月から9月にかけて区画・制度の大改正を行い、
旧来の戸籍作成のための区画(戸籍区)2、3区程度を1区として県下を19区に区分した
(19区制)。旧板宿村、東須磨村、西須摩村、野田村、駒ヶ林村、長田村、尻池村、
池田村などが第3区となった。
武井善左衛門の肖像画
南禅寺の官長筆による武井善左衛門を顕彰する文章
ここには生島四郎太夫とともに勝海舟と交流があり援助もしたと記載
Ⅲ 第三区の組織・制度と運営
19区を構成する村の名前が記載された表
第三区を構成する村々の人口などのデータ
武井善左衛門を継いだ武井伊右衛門(百耕)は入札(選挙)により第三区区長となった。
入札の実物展示
第三区の会議所の平面図(下の写真)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/bc/52ffbba9671003903e2236892194e6d9.jpg)
この会議所は実際に存在していたかどうか?所在地は?など不明
武井伊右衛門(百耕)の写真
第7代の兵庫県令(知事)の神田孝平と武井伊右衛門の交流を綴った文書
神田孝平(たかひら)の写真と簡単な解説
神田孝平からもらった書の扁額
明治6年(1873)頃の兵庫県庁の写真と関連資料
最後に展示の内容ではありませんが武井伊右衛門(百耕)の銅像と百耕資料館の写真を添付して
筆を置きます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/93/9986719d608b9d769cfee70018bddeed.jpg)
上の写真は武井伊右衛門(百耕)の銅像。銅像の説明書きに部分加筆。
武井伊右衛門は弘化2年(1845)2月14日に板宿村生まれ、幼名は久太郎明治に
なってから伊右衛門と名を改めました。さらに百耕と号す。日頃より書画を愛好し、
漢詩を嗜み多くの郷友諸士と交友を結ぶ。
明治5年(1872)兵庫県第三区長の父を補佐し 明治14年(1881)兵庫県の県会議員に当選
明治16年(1883)公職を退いて邸内に秋錦園(菊園)、魁春園(梅園)の二園を開き
一般に開放す。
八部郡郡長、同年有馬郡郡長となる。大正6年(1917)3月8日73歳で没。
墓は武井家歴代の墓とおともに禅昌寺にあります。明治21年4月には有馬郡長を病気
のため辞任してからは漢学の素養から多くの詩を作り明治43年(1910)漢詩結社
隋鴎吟社の正社員となった。また、かって画を学んだ岡田広章からは画稿を譲り受けた。
特に円山、四条派の粉本に関しては2,000点の一大コレクションを誇っている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/e4/846fb9307b3d203461c71ec234d9b567.jpg)
上の写真は武井報效会 百耕資料館 の建物外観
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/17/4a729c315cd7ac9dcb98ec92e380b14d.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/20/ea826f2d2368478119da46b652c92a80.jpg)
上の2枚の写真は資料館敷地内の昔の消防設備と説明板
を聞いてきましたので記憶のあるうちにメモ書きしておきます。
尚、館内の写真撮影が不可の為、ポスター以外の写真はありません。
まず、武井報效会 百耕資料館について簡単に紹介しておきます。
武井報效会 百耕資料館の基本情報
住所:神戸市須磨区板宿町2丁目2-1 (育英幼稚園内) TEL:078-733-2381
常設展の休館日:毎週月、火、水曜日(いずれか祝・休日の場合は木曜日)盆期と年末年始
企画展の休館日:毎週月曜日(祝・休日の場合はその翌日)盆期と年末年始
入館料金:大人 300円(250円) 大高中生 200円(150円)( )は団体料金
開館時間:10:00~16:00
公式サイト:http://www.ikuei.ac.jp/~hyakko/index.html
百耕資料館は、板宿の旧家名門である武井家に伝わる約1万2千点にも及ぶ
歴史資料を一般に公開されています。昭和62年(1987)10月に開館。
平成22年(2010)7月10日に平成16年春以来、約6年ぶりにリニューアルオープンされ
板宿の歴史をテーマに古代から近現代まで解説とともに公開されています。
次に企画展の内容について簡単に記述しておきます。
企画展の題目:兵庫県第三区~明治初期兵庫県の地方行政と住民~
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/3b/05bee114dc1dc8f69e946f0a36344e8c.jpg)
上の写真は企画展のポスター
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/6a/9ba6e8c01e57b89ff0a4f60c1d2434c9.jpg)
上の写真は1階の展示室の企画展ポスター拡大版
会期は5月27日(日)までです。
Ⅰ 江戸時代の幕領組合村
幕末に板宿村庄屋、下灘組惣代庄屋を勤めた伊右衛門の説明
伊右衛門は旧八部郡内の村々(旧幕府領下灘組)のまとめ役として活躍
まとめ役の惣代(総代)庄屋は明治2年10月に廃止されています。
幕末期は幕領で谷町代官所の管轄の収量は約8万石であった。
惣代(総代)庄屋宅は代官が裁定を行う部屋も用意されていた。
惣代庄屋は大庄屋とも呼称。
代官所の絵図の展示。
旧八部郡内の村々の戸数や石高のデータ。
嘉永元年(1848) 八部郡中諸勧化取締り掛札 神戸文書館蔵
&慶応3年(1857) 御用触状之写 神戸市文書館蔵
八部郡内に入った浪人などがお金をせびりに来た時に神戸村の庄屋が一括対応
庄屋のところには毎日のように浪人などが立ち寄りお金をせびっているのが常態化
Ⅱ 組合村から第三区へ
第1次兵庫県から第3次兵庫県の経緯を説明したパネル
他の資料から同じ内容の説明をします。
第1次兵庫県(慶応4年・明治元年(1868)~明治4年(1871))
慶応4年5月23日(新暦換算1968年7月12日に1次兵庫県が成立しています。
発足当時の兵庫県は兵庫(神戸)港を中心とした摂津国武庫郡以西の4郡及び播磨国
の7郡に散在する旧幕府直轄地で村の数は211、石高は6万6千石でした。
初代県令は伊藤博文で「兵庫論」と呼ばれる藩廃止の意見書を朝廷に提出
したことから長州藩の反感を買い知事を辞職します。
伊藤博文は初代の兵庫県知事で知事であった期間は下記のとおりです。
自:慶応4年5月23日 新暦換算では1868年7月12日
至:明治2年4月10日 新暦換算では1869年5月21日
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/eb/5b03d5bfc0803fa44b3c6563051378c0.jpg)
明治元年5月の兵庫県の領域は濃い橙色で摂津の兵庫津など瀬戸内沿岸などと
播磨地域に散在しています。
明治4年(1871)4月には緑色の領域が兵庫県に編入
明治3年5月13日(新暦換算1870年6月11日)の庚午事変(稲田騒動)により淡路島の
北部が兵庫県に編入 明治3年10月から明治4年
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/f4/652d80db7958b4e36df1976ad3413aad.jpg)
上の写真はパネルの説明書き部分を拡大したものです
第1次兵庫県の初代県庁は兵庫勤番所(旧兵庫城)に置かれました。
現在、最初の兵庫県庁の地 の石碑が新川運河キャナルブロムナードに建っています。
(下の写真)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/64/8b60856918d18bc74ab647dce73d1a63.jpg)
第2次兵庫県(明治4年(1871)~明治9年(1876))
明治4年7月の廃藩置県により従来の大名領がそのまま県になりました。
これまでの尼崎藩は尼崎県、姫路藩は姫路県、出石藩は出石県になり大名に代わり
県令が置かれた。しかし、これでは全国の県の数が多く統一した政治を行うのに不適当
であった為、明治4年11月には3府302県をすべて廃止し、3府72県に再編成された。
現在の兵庫県域は西摂の5郡の兵庫県と播磨の飾磨県、但馬・丹後・丹波の3郡を豊岡県
淡路は四国の阿波・讃岐と一緒に名東県の4つの県となりました。下の写真を参照。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/ce/161b413355ef66e9b39198a2c14a59ad.jpg)
兵庫県は町村数609 人口14万8千人の県となりました。
このころ県知事となった神田孝平(蘭学者)は先駆的な施策を実行し「経済」という
言葉を初めて使用しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/b3/a4813c36ef57618fc70346a4f50dd178.jpg)
上の写真は第2次兵庫県の範囲
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/40/e22c8ff2210bc41dfa1319434e651647.jpg)
上の写真は第2次兵庫県の説明
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/36/c7a8b40200ec23d30e0f98094e96cd71.jpg)
上の写真は明治6年(1873)頃の兵庫県庁
第3次兵庫県(明治9年(1876)~明治22年((1889))
ほぼ現在の兵庫県の県域となった。
明治9年に明治政府は3府35県としました。
この年の8月に兵庫県は播磨県及び但馬全域と丹波の氷上・多紀の2郡名東県の
淡路を併合してほぼ現在の兵庫県に近い形となりました。
人口は134万5千人となりました。当時は東京府、大阪府をしのいでいました。
兵庫県の併合の過程で櫻井勉翁の米寿賀集の資料が貴重なものです。
この中に豊岡県と鳥取県を兵庫県に併合する案もあったことが記載されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/01/fb7e60fe5c8c5efb2b508cae33cc1579.jpg)
第1次兵庫県から第3次兵庫県の県域の変遷については兵庫県のHPで解説されています。
ホーム > 県政情報・統計(県政情報) > 情報公開 > 歴史資料 > 県域の変遷
明治維新後に板宿村戸長、第1次兵庫県第十一区戸長となった伊右衛門。
維新後は武井善左衛門に改名。
第2次兵庫県では第三区区長などを勤めた。
兵庫県(第2次)では、明治5年6月から9月にかけて区画・制度の大改正を行い、
旧来の戸籍作成のための区画(戸籍区)2、3区程度を1区として県下を19区に区分した
(19区制)。旧板宿村、東須磨村、西須摩村、野田村、駒ヶ林村、長田村、尻池村、
池田村などが第3区となった。
武井善左衛門の肖像画
南禅寺の官長筆による武井善左衛門を顕彰する文章
ここには生島四郎太夫とともに勝海舟と交流があり援助もしたと記載
Ⅲ 第三区の組織・制度と運営
19区を構成する村の名前が記載された表
第三区を構成する村々の人口などのデータ
武井善左衛門を継いだ武井伊右衛門(百耕)は入札(選挙)により第三区区長となった。
入札の実物展示
第三区の会議所の平面図(下の写真)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/bc/52ffbba9671003903e2236892194e6d9.jpg)
この会議所は実際に存在していたかどうか?所在地は?など不明
武井伊右衛門(百耕)の写真
第7代の兵庫県令(知事)の神田孝平と武井伊右衛門の交流を綴った文書
神田孝平(たかひら)の写真と簡単な解説
神田孝平からもらった書の扁額
明治6年(1873)頃の兵庫県庁の写真と関連資料
最後に展示の内容ではありませんが武井伊右衛門(百耕)の銅像と百耕資料館の写真を添付して
筆を置きます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/93/9986719d608b9d769cfee70018bddeed.jpg)
上の写真は武井伊右衛門(百耕)の銅像。銅像の説明書きに部分加筆。
武井伊右衛門は弘化2年(1845)2月14日に板宿村生まれ、幼名は久太郎明治に
なってから伊右衛門と名を改めました。さらに百耕と号す。日頃より書画を愛好し、
漢詩を嗜み多くの郷友諸士と交友を結ぶ。
明治5年(1872)兵庫県第三区長の父を補佐し 明治14年(1881)兵庫県の県会議員に当選
明治16年(1883)公職を退いて邸内に秋錦園(菊園)、魁春園(梅園)の二園を開き
一般に開放す。
八部郡郡長、同年有馬郡郡長となる。大正6年(1917)3月8日73歳で没。
墓は武井家歴代の墓とおともに禅昌寺にあります。明治21年4月には有馬郡長を病気
のため辞任してからは漢学の素養から多くの詩を作り明治43年(1910)漢詩結社
隋鴎吟社の正社員となった。また、かって画を学んだ岡田広章からは画稿を譲り受けた。
特に円山、四条派の粉本に関しては2,000点の一大コレクションを誇っている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/e4/846fb9307b3d203461c71ec234d9b567.jpg)
上の写真は武井報效会 百耕資料館 の建物外観
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/17/4a729c315cd7ac9dcb98ec92e380b14d.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/20/ea826f2d2368478119da46b652c92a80.jpg)
上の2枚の写真は資料館敷地内の昔の消防設備と説明板
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