愛をさがす毎日

ADHD・アスペルガー・離人症・うつ病な私の自己満足ブログ

お葬式

2006-11-30 11:34:14 | 人生
(11)これは私が何年生の時の事だったか、よく覚えてないのですが…多分2年生ぐらいだったと思います。
 私の小さかった頃はまだ親戚付き合いもちょくちょくありました。私は叔父さん(父の弟)のうちに遊びに行くのが好きでした。叔父さんの家は市営住宅で、そんなに大きくもありませんでしたが、うちのボロ長屋に比べたら鉄筋だし、その当時にしたら近代的でした。
 私はこの叔父さんの事が好きでした。叔父さんのところには女の子が居なかったし、私のことを「〇〇ちゃん、〇〇ちゃん」と呼んで可愛がってくれました。
 父と血が繋がっている割に、父とは違い社交性もあり背も高くて、どことなくダンディでした。
 トヨタ系企業の重役さんのお抱え運転手をしてました。結構、重役さんからの評判も良く、大事にされていたそうです。
 叔父さんのうちには私よりひとつ下の男の子と、その下にもう1人保育園児の男の子がいました。年が近かったせいか良く遊びました。特に下の男の子は素直で可愛らしくて天使みたいな子でした。
 でもそれからすぐに交通事故に遭い亡くなりました。園からの帰宅途中に母親が他の主婦と話し込んでるスキに道路に飛び出してしまい、タクシーに轢かれました。

 私達家族はお通夜の後、叔父さんの家に泊まりました。翌朝、目が覚めて父と従弟を起こしに行くと、死んだ男の子のお兄ちゃん(小1従弟)が、まだ弟が死んだ事を理解できてないのか、弟はどうしたのか?弟は何処へ行ってしまったのか?私たちに聞きながら、弟を探しだそうとするのです…。それを見て、私はショックで一瞬気が遠くなりました。
 この時の従弟の喪失感が私にも波のように押し寄せてきました。
 お葬式には保育園のお友達も参列していました。一番哀れだったのは叔母でした。小さな棺に倒れ混む様に覆いかぶさり死んだ息子の名前を叫びながら震えていました。その姿が今も目に焼き付いています。

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よろしく

2006-11-30 09:23:10 | 人生
 突然 自分史を始めてしまいました。
 そもそも“自分史を書く”事がブログの目的なので、今後も続けていくつもりです。
 まだまだ延々と続きはあるので、気合入れて行きます。
 よろしくお願いします…。
 (お断り…今 送ってる幼少期の記事は、今まで心療内科の先生に参考として読んでもらっていたり、ストックしてあったものです。)
 
 
 
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2年生になって

2006-11-29 20:05:16 | 人生
(10)2年生の時の担任の先生はちょっと冷たそうな感じの中年の女の人でした。2年生の時はこんな記憶があります。
 私は自分のお気に入りの限られたマンガの絵だったら、描くのは大好きなのですが、学校の図画の時間に“指定されたテーマの絵”となるとさっぱり何も描けませんでした。それに家ではサラサラと描いているような絵でも、場所が違うと途端に描けなくなるのです。恥ずかしいのもあるし、気が散って集中できなくて描けないのもあります。
 それでも、私の得意のお人形さんの絵をたまに学校で描いたりするとクラスメイトから「絵、描くの上手だねぇ」って褒められたりするのですが、それもあまり嬉しいとも感じませんでした。
 ある図画の時間に“休日に過ごした様子”とかよくあるテーマの絵を描かされました。やはり私はなかなか描けませんでした。
 授業の残り時間あとちょっとと、ギリギリになってから漸く私の手は動きます。描くのは小さな絵だったり、ぼやけた淋しい絵だったりです。
 その時は当時うちで飼っていた白いスピッツに私と兄が餌をあげてる絵でした。でもその絵は、真っ白な画用紙に真っ白な犬が中心の絵でした。しかも私は輪郭というものを知りませんでした。何とか適当に仕上げて「どうかこんなもんでお許し下さい~」と自信なさゲにその絵を先生に提出したら、呆れた様子で「輪郭を描きなさい」とそっけなく言われました。しかし、その「輪郭」という言葉さえ知らないほど出来の悪い生徒だという事を、その先生は知らなかったようで…、私も私で、その場で直接先生に「輪郭って何ですか?」って聞き返す事も出来ないような情けない子供でした。

また体育の時間にフォークダンスの練習をした時の話です。
 オクラホマミキサーか何かだったと思います。踊りの指導ではアタリマエのように右とか左とかで説明しますが、これがまた私には判らなかった。
 右側・左側の意味は解っているのです。それはみんながお箸を持つ方、みんながお茶碗を持つ方という概念としては解っているのですが、それが言葉としての“右”と“左”になると、そのどちらに当てはまるのかが分からなくなるのです。意味は解ってはいるけど、言葉に置き換える事が出来なかった…という事になります。
 しかし、それは言い訳に過ぎませんね…何だかんだ言っても結局は「右も左も分からない単なる馬鹿!」でしかありませんでした。

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帰り道

2006-11-29 11:36:19 | 人生
(9)保育園に入園してからというもの“人生とはままならぬもの”と体得しながら育っていった様な気がします。
 小学校に上がっても上手く自己表現ができず、周りから「なんか喋りなさいよ」と強要されても、それが出来れば自分でも苦労はありませんでした。
 私にとって学校はストレス以外の何ものでもありませんでした。だから朝の登校時はいつも憂鬱でした。
 分団の集合場所に行っても、みんなは朝早くから集まってゴム跳びとか石蹴りとかを楽しそうにやってるのに私は仲間に入らず、いつも脇でみんなの遊んでいる様子をボーッと眺めているだけでした。
 学校にいるだけで心理的にパニック状態でした。拒絶の意思表示として離人していたのだと思います。記憶も自分にとって衝撃的な事だけ断片的に残ってる程度です。とにかく目に見えない膜の様な物に自分が包まれていて、その半透明な膜越しにしか現実と触れ合うことが出来ないといった感じでした。だから現実感が薄く、自分と周りの世界にワンクッション(障害物)あり、なかなかスムーズに現実と関わる事が出来ない…自分でもそんな歯がゆさを感じていました。この膜の様な障害物をどうにか取り外す事はできないものかと成長するにつれ思いました。
 そんな中、私にとって唯一安らげたのは学校が終わりホッと出来る“帰り道”でした。帰り道だけが私をやさしく受け止めてくれました。道端の雑草、振り向いた時に見えた吸い込まれそうなくらいの大きな入道雲、柵に絡み付いていた赤い実のなる木、私を見るとシッポを振って出迎えてくれたノラ犬…人間の友達はいなかったけれど、それでも私は目に見えない“何か”にずっと見守られて、ここまで成長できたのだと思います。今思えば決して1人ぼっちなんかじゃなかったと思います。

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小学1年の頃

2006-11-29 11:25:44 | 人生
(8)小学1年の時の担任の先生は30代前半ぐらいの綺麗で優しい「S先生」という女の人でした。
 意外にも私はこの先生の事が好きでした。子供って不思議と心の優しい人を直感で見抜くもので、多分それだったと思います。それほど美人でもなかったかも知れませんが服のセンスとか、どこか上品で清潔な雰囲気が美しく見えました。
 私はそのS先生にすごく母性を感じ、私が一方的にその先生に懐いてしまったのです。
 入学して間もない慣らし授業の期間で、給食もまだ始まってない頃だったと思いますが、学校が終わっても私はなかなか帰ろうとせず、S先生のそばに居たかったのです。
 先生に気に入られたい一心だったのか、他の生徒が帰った後にまだ雑務が残ってるS先生のお手伝いがしたかったのです。きっと反って邪魔になっていたかも知れませんが、先生はそんな私を受け入れてくれて可愛がってくれました。私にとってS先生は憧れの人でした。でも先生はあくまで生徒を評価する存在なんですよね…、1年生も月日が経つにつれ、自分の欠点を隠す事が出来なくなり、私はやはり劣等生の部類に落ち着きました。
 学校はやはり私にとって居心地のいい場所ではありませんでした。そうなってくると、私にとって先生の存在もだんだん遠くなっていきました。抑圧された私の心は沈んで行き、言葉も益々無くなっていきました。
 そんな中どういった状況だったのか、よく覚えてないのですが“お漏らし”をしてしまいました。私は無断で学校を抜け出して自宅に帰ってしまいました。着替えを済まし、再び学校に向かう足取りはとてつもなく重く、見慣れた景色がいつもと違って見えました。
 その日以来、私は先生の顔をマトモに見られなくなりました。

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小学1年生の頃

2006-11-28 14:02:08 | 人生
(7)今も、子供の頃と大して変わりませんが、小学校に上がっても私は頼りなくて赤ちゃんみたいでした。校庭で写生の時、自分の画用紙が風で飛んでいってしまい水溜まりに落ちた時もボーッとしてるだけでした。クラスメイトの子が取りに行ってくれ、他の子からは「なんでアンタが取りに行かないんだ!」と怒られました。自分から何もしないし、言わないし、ただ困るとメソメソ泣くくらいで、かなり周りの人達をイライラさせていたと思います。低学年の頃はきっと、泣く事だけが唯一の表現方法だったと思います。また、いじめっ子の男の子に「〇〇〇(名前)泣け!」って言われただけで咄嗟に泣いてしまう程で、からかわれたりしました。
あと、聴覚過敏もあったと思います。昔よくあったソノシートのレコード盤でアニメの主題歌とかを兄達と一緒に聴いていた時、私の苦手な音が不意に流れると、私は血の気が引くほど驚きその場から飛び退いてしまうのでした。私のその姿が滑稽だったのか兄に面白がられて何度もその音を聞かされました。

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小学1年の頃

2006-11-28 13:20:21 | 人生
(6)私は外に出るのが怖かったです。
 私には祖母と次兄と飼い猫と可愛がってたノラ犬さえ居れば幸せでした。友達なんて何の為に必要なんだろうと思ってました。でも小学校に上がる頃になると周りの大人は一方的に「友達は何がなんでも作るべき」という価値観を押し付けてきます。一度、母に地元のお祭りに無理やり参加させられた時、同い年の「口蓋裂」の手術をした女の子と遊んだ事があります。そういったハンデがあるにも拘らず気丈な子で私は子分にされました。でも向こうに嫌われたのか友達付きあいは続きませんでした。
小学校に上がり最初に困った事は、私は遊具で遊べなかった事です。普通の子ども達は元気良く運動場にある遊具に突進して行くのに、私ときたら一度試しに…と滑り台の上まで昇ってみたのですが滑る段になって怖くなってしまい滑れず、しょうがなく階段を降りようとしたら、順番待ちの子ども達がたくさん居て、またしても降りられず、みんなにブーブー言われた末、見兼ねた優しい子が一緒に滑ってくれたと思います。
 ジャングルジムも怖くて昇れないし、ブランコさえ漕げませんでした。
 こういうのも一つの挫折体験ですよね…。

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小学校1年の時…

2006-11-28 11:04:31 | 人生
(5)保育園では不登園気味の陰気な幽霊みたいな子供でしたから、自分なりにも、また家族の要望にも少なからず応えなければと意識し、小学校入学を機に少しでも「明るく元気な子供にならなきゃ…」という、きっとあの秋田の児童殺害の畠山鈴香被告も抱いたであろう“変身願望”を私も子供心に持っていました。
 今思うと、とても切ないです。
 何故なら、私ぐらいの年代と言えば物心つく頃には既にテレビがあり、テレビの中で繰り広げられる仮想空間にどれだけ幼い心は蝕まれていた事でしょうか…、アニメやドラマの主人公は必ず「元気で明るい正義のヒーロー」ばかりだったからです。また当時『チャコとケンちゃん』とかのチャコちゃんシリーズの懐かしいドラマもありましたが、何を隠そう父はあのドラマが気に入っていたようで(私が生まれた年にあのドラマが放映されていたかは知りませんが)あのドラマの中の、あの元気一杯のお転婆「チャコちゃん」にあやかって私の名前を付けたという話を、まことしやかにチラリと父が漏らした事があるのです。父は当時、自分がアスペルガー症候群であるとは知る由も無く、暗い陰気な人生を嘆きながら生きてきたのは明白です。自分の叶わない願望を娘に託したとも取れる命名に私は耳を疑いました。6歳にして私は重い十字架を背負わされました。
 しかし私はどうしてこんなに陰気で回りの子供よりも劣っているのか?
 その謎に翻弄されっぱなしの約40年間でした。

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小学1年の頃…

2006-11-28 10:21:37 | 人生
私には大嫌いな写真があります。私の小学校の入学記念で写真店で撮った写真です。
 入学式に着た一張羅のアンサンブルのワンピース、学校指定の黄色の帽子をかぶり、ランドセルを背負い、手にはパーマンの絵の付いた赤い上履き入れを持たされ、私1人で写っている写真。もう一枚、母と兄2人と写ってるのもあります。でも2枚とも私は全くと言っていい程、同じ表情で写ってます。その表情というのが…まるで怒りを溜め込んでいるかの様に鋭い視線でじっとカメラを睨み付けているのです。
 母が写っている方の写真の母の顔が心なしか引きつっています…。きっと写真屋さんは私をなんとか笑わせようと色々と気を使ってくれたのにも拘らず、手の施しようがないくらい私はカチカチに固まっていたのでしょうね…。さぞかし気まずかった事と思います。

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名前について

2006-11-28 08:11:51 | 人生
私は自分の名前が嫌いでした。子供の頃、学用品とかに記名をする時(…余談ですが私の母はひらがなさえマトモに書けない程、教養の無い人で…実際記名をするのは祖母《父方の祖母、同居でした》か父でした)。
 母から「なんでお父ちゃんは、こんな変な名前付けたんだろうねぇ『まゆみ』とか『ゆうこ』とか可愛い名前は他に一杯あるのに、よりによって『〇〇〇』なんて変わった名前つけちゃってさぁ…」と事あるごとに私に言ってました。
 だんだん自分の名前に自信が無くなっていきました。
 保育園に入ってから(私は1年保育でした)保育士さんが出欠を取る時に、私は自分の名前を呼ばれても自分の名前が嫌で恥ずかしくて、たった一言「ハイ」と返事するだけなのに、ためらい…返事すらマトモに出来ない子供でした。
私の名前を付けたのは父ですが、父いわく「特に意味は無く可愛いと思って付けた」のだそうです。しかし44年前の当時として、こんなマイナーな名前を付けるところに、やはり普通にはない“こだわり”を感じてしまいます。父はやはりアスペルガー症候群に間違いないです!
でも今になって考えてみると、母が私の名前について文句を言うのはオカシな話です。私が産まれた直後に父に「そんな名前やめて!」と言えた筈です。
 実は…私は以前、叔母にこんな話を聞いたんです。私の母はお産が始まりかけ一旦産院に入ったのですが、何故か無断で産院から抜け出し自宅に戻って来てしまい急きょ自宅分娩に変わったというのです。私は何故そんな事になったのか理由を直接母に聞くことは怖くて出来ませんが、不思議な話です。
 産院で産まれると思っていたのが突如自宅分娩になってしまい、祖母はさすがに取り乱した事と思います。父の弟の嫁(叔母)を手伝いに呼んだそうです。叔母が駆け付けた時には、もう私は産まれていて、すごく小ちゃな赤ちゃんが真綿にくるまれていたそうです。
 きっと母には何か気まずい思いがあったのでしょうね…。

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保育園時代

2006-11-27 21:38:04 | 人生
祖父のお葬式は狭い自宅で執り行われました。
 まだ小さかった私ははしゃいでいました。従姉のお姉さんが手持ち無沙汰だったせいか遊んでくれたからです。でもこのお姉さんが私と遊んでくれた記憶は後にも先にもこの時だけでした。私は保育園に入る前でした。

経済的な理由だったのか私は一年保育でした。地元の公立の保育園に入園しました。あまり覚えていませんが園に入って初めて同年の子供達と関わりを持ったと思います。一年保育で早生まれの私は喋れないし、無理やり異世界に連れ込まれたといった感じで頭の中が真っ白で抜け殻状態でした。当時から離人の感覚がありました。自分の回りにバリアーがある感じです。回りの子供たちを遠巻きに見ながら、他の園児と自分との違いを冷静に観察していました。みんなは私よりあんなに元気がいいのは何故だろう…。とか私は左利きなのに他のみんなは全員右利きだ…、とか回りの園児達との違いに凄く敏感だった記憶があります。
 最初、私は転校生扱いでした。でも、うまく溶け込めなくてフワフワ漂いながらそこに居るといった感じでした…誰かに指示されないとどうしていいのか判らないという感じ…存在感の薄い子供でした。しかし自分で言うのはなんですが内面は非常に感受性が強い子供でした。ただ自分から働きかけを一切しないし言葉もほとんど無いので、回りの人間は誰も気を使ってくれない。むしろ嫌われる、という悪循環で益々手に余る子供、扱いに困る子供として排斥
の対象になってしまったのだと思います。でも一番辛く、悲しい思いをしているのは当の本人です。自分でもどうしたらいいのか判らない。どうしたらみんなと同じに出来るのか、自分でも焦りを覚えました。私は左利きだからかな…?とか思ったりして、左利きを隠して、無理に右手で描いてみたり、はさみを使ったり…作業時間は倍以上かかるし切った断面はギザギザにしか切れなくて悲しくて泣いたりしました。でも理由を自分で表現できませんから保母さんからは変な子だと呆られていました。結局…たぶん3分の1ぐらいは登園しなかったと思います。でも、まだこの頃はあまり母に咎められたりはしませんでした。
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私の育った家

2006-11-27 21:10:49 | 人生
私の育った家は、今では懐かしい借家の長屋でした。
うちの左隣りのおうちはお座敷犬(コリーの雑種)を飼ってた初老の後家さんが1人で住んでました。
 右隣りは何故か駄菓子屋さんでした。あまり記憶が定かではないのですが、そのまた右隣りが確か養鶏所かなんかで、そこが大家さんだったと思います。
 敷地が広くてうちの裏側、両隣りも全面そこの養鶏所のおうちでした。そこの庭からはみ出た木の枝から毎年秋にはどんぐりが落ちてきて私は喜んでよく拾ったものです。
 うちのお向かいの家は在日韓国(もしくは朝鮮…?)の方の家族が住んで見えました。そこの奥さんはいつも怒っているような話し方をするので、なんだか私は怖くて近寄った事がありませんでした。うちより小さな子供がいました。
 その、いつも荒っぽい粗野なオバさんが、そのおうちでお葬式があった時、真っ白なチマチョゴリをいつもとは考えられないくらい、しおらしく着ていたのを見てびっくりした記憶があります。
 その在日の一家の左隣りは、いつもお世話になってた薬屋さんで、そこは文房具とかも扱っていて、絵を描くのが好きだった私はいつも「藁半紙10枚ください…」って三日おきぐらいに買いに行ってました。
そこのオジさんもオバさんも優しい人で、娘さんと息子さんは私立の高校に通っていました。
 在日の一家の右隣りはアパートでした。
私のうちは一家7人(祖父母と両親と兄2人)で狭い長屋で暮らしていました。
 祖父は大工でした。それを継いで父も大工になったらしいのですが…祖父も今から思うと不思議な人でした。お酒が好きな人でした。おとなしい人で私の記憶では祖母にいつも怒られていました。でも私が5歳くらいの時、雨が降る日にどこかでお酒を飲みつけて銭湯に行ったらしく、銭湯の湯船の中で脳卒中を起こして亡くなりました。
 祖父が湯船で死んだお陰でそこの銭湯は夕方、店仕舞いをするハメになったそうです。
 祖母が青ざめた様子で出掛ける支度をしていたのをぼんやり覚えています。

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親子で悩む

2006-11-27 13:27:47 | 家族
 ラジオのニッポン放送でやってる「人生相談」が好きで、たまに聞くのですが、 
 今日は加藤諦三先生と大原敬子先生のゴールデンコンビでした。
 またまた…容赦の無い大原節が炸裂してました…。
 効く~効く~まさに効く…大原先生のカウンセリングの奥義が魂に響き渡る。
 (…って私だけでしょうか?)
 
 今日は、中2の娘の不登校で悩む父親からの相談でした。
 大原先生いわく、子供の不登校の多くの原因は、「子供」じゃなくその「親」にそもそも問題があるそうです。私自身とっても腑に落ちます。
 親が自分のだらしなさを摩り替えて、子供に責任転嫁をしてるだけのことです。
 親子双方でカウンセリングを受けた方がいいと思います。

 自分の事を棚に上げていては いけませんよね…、
 
 うちの次男も…実は「私のために不登校をしてくれている」
 って言った方がいいのかも知れません…。
 
 「このうちって何か変だね~改善した方がいいよね~」って次男の無言の叫びが不登校という形で現れているにすぎないんです。

 解ってはいながら…もつれにもつれ、こんがらがった現実を私一人で直すことが出来なくて、結局…次男も巻き込んでしまったというのが実情です。
 
 大人は自分が子供だった頃の記憶を封印しながら生きています。だけど時々、自分の子供時代の寂しい記憶がよみがえり どうしようもなくなる瞬間があります。
 そんな辛さから逃れるため、時に自分を傷つける変わりに 自分の子供を傷つけてしまうことがあります。
 
 自分が自分らしく生きる…そんなことさえ難しいのが現実ではないでしょうか…?
 
 
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人志松本すべらない話

2006-11-27 10:22:45 | テレビ番組
 私自身、テレビはあまり見ないのですが、次男がテレビ好きで その付き合いで、いつも次男の好きなテレビ番組は見させられてます。
 そんな中、昨夜見た「人志松本のすべらない話」は面白かった!
 
 お笑い番組とか、バラエティー番組もちょくちょく見てますが、なんかキワモノっぽく後味が悪いものが多い中、「すべらない話」は地味でラジオ番組っぽさはあるものの、逆にシンプルな中にセンスが光っていて、大人のお笑い番組として成功してると思います。
 何しろゴールデンタイムのお笑い番組は インパクト狙いに走りすぎてて、ハッキリ言ってクド過ぎる。見終わった後、疲労感さえ残る。
 …やっぱり松本人志に才能を感じる。

 昨夜 見た中で特に印象に残った話は、松本人志の「おかんの話」でした。
 子供達が皆 成人してしまい、いわば「空の巣症候群」の状態に陥りかけていたようで…
 もう一人子供が欲しい…と言い出し、ある日その「おかん」が、本物の赤ちゃんサイズの人形を買ってきて、
 「今日からこの子が新しい子供や~名前も付けてんねん~
 『あきら』いうねん。なあ~『あきら~』」と、いとおしそうに人形に話しかけるようになり、数日続いた…という話でした。
 
 わかるわかる~その話わかり過ぎるくらいに解ります…。
 現に私の母親がそうだし、明らかに私も予備軍です。
 でもこれは、母性の強さの現れでもあります。
 
 育児ってノイローゼにすらなるものの、子離れの際にも、こんなに精神的に不安定になるものなんですね…。ある種「喪失感」です。
 だけど松本の「おかん」は大丈夫だったことでしょう。
 明るく笑って乗り越えられます。
 何しろ女ってギャ-ギャ-騒ぐ割に 強いですからね。

 
 
 
  

 
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“悩み”について

2006-11-26 13:12:07 | 雑感
 心療内科に初めて掛かったのは、長男が幼稚園に入る直前でした。
 元々子育てに自信が無く、旦那とも何故かコミュニケーションが上手く取れず…
 また、集合住宅に住んでいたことも要因の一つでした。
 結婚前から、人間関係が不器用でずっと悩んできたし、育児ノイローゼで一気に拍車が掛かり、精神的に耐え切れなくなりました。
 
 …最初飛び込んだのは町内の精神病院。
 でもそこは重度の精神疾患の方 専門だったようで診てもらえませんでした。
 しかし、運良くその頃 雨後のタケノコのように「メンタルクリニック」があちこち開業され出し、ドクターショッピングが始まりました。
 
 本当に自分の悩みを書き出したら止まりません。
 (だから、ブログを書き始めました)
 
 今さら悩んだところで、何にもならないでしょうが、悩む事しか能がないので、いっそ 悩みを書く事に全力を傾けてみようと思いました。
 
 長年悩んできて、自分もいい年になってきたこともあり、それなりに人生哲学みたいなものが頭をもたげてきました。
 
 現在も悩みは継続中ですが、ここまで来ると、諦めの境地に入ってきたようで、
 ほとんど修行僧の心意気になってきました。
 
 悩んでる時ほど、焦っていろんな事に手を出してしまうけど、
 ジタバタすると 返って悩みは膨らむばかりで
 本来の悩みが何だったかさえ 解らなくなってしまいます。

 悩んでいる時ほど、身を慎んでストイックなくらいの方が良さそうです…。
 
 
 
 
 
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