先日、フッと思いついて、僕の乗り降りした空港の数を数えてみた。すると、外国だけで、降り立ったりエンバークしたりした空港が、39個浮かんできた。面白いので、記憶しているエピソードと一緒にまとめてみようと考えた。
整理のためにリストアップしてみると、ヨーロッパとアメリカが、断然多い。
<ヨーロッパの空港:RadarVirtuele からの借用>
ヨーロッパ:17
ドイツ:ハンブルグ、シュトウットガルト、フランクフルト
イタリア:リナーテ、マルペンサ
フランス :オルリー、シャルル・ドゴール、モンペリエ、コートダジュール(ニース)
イギリス:ヒースロー、グラスゴー、サザンプトン、
ベネルックス: ブラッセル、スキポール
トランジットのみ:コペンハーゲン、アテネ、シェレメチボ(ロシア)
北アメリカ:15
JFK(ニューヨーク)、
サンノゼ、サンフランシスコ、レークタホ、
ミネアポリス、ロチェスター、デンバー、オースティン、
レキシントン、マイアミ、ローリー、
バンクーバー(カナダ)
トランジットのみ:アンカレッジ、フェアバンクス、 ダラス
オーストラリア:4
シドニー、メルボルン、キャンベラ、ワンガラッタ
その他:4
カイタック(香港)
トランジットのみ:ベイルート、ボンベイ、サイゴン(ホーチミン)
一番回数の多かったのは、リナーテ(ミラノ)、マルペンサ(ミラノ)、オルリー(パリ)、そして、JFK(New York)だろう、正確に数えたことはないが…。
すでに、エッセイにまとめた場所もあるので、その他のまとまった記憶、つまりエピソードがあるものだけを、書いてみることにする。
第一話 羽田からミラノへの初旅
何といっても、1970年1月の羽田から、旅の記憶は始まる。
<羽田飛行場:道楽生活からの借用>
初めての海外赴任で、羽田からミラノまで、初めて飛行機に乗った。その頃はまだ、持ち出せる外貨は500ドルまでで、しかも360円/$の時代だったから、一般の観光の海外への出国は認められていなかった。だから、乗客の数は少なかった。
海外へ行くということは、かなり稀なことで、親、兄弟や友達が空港まで見送りに来てくれた。どこかに、“今生の別れ”のような気持ちが、旅立つ人にも見送る人にもあったのだろう。僕は断ったが、小さな出発のロビーでは、▽〇君、ばんざーいという声も聞こえていたのも思い出す。
そのころの羽田の記憶はあいまいで、1階が出発口になっていて、エスカレーターで2階に上ると、レストラン街があり、飛行機を見る展望デッキが3階に設けられていたと思う。皆が、展望デッキまで見送りに出て、手を振ってくれた。
飛行機は、DC-8だったと思う。飛行機は、アラスカのアンカレッジに向かって、飛び立った。ヨーロッパに行くには、今のようにロシアを飛び越え、北極を飛び、ロシア、西ヨーロッパという飛行はできなかった。世界は冷戦の時代だったからだ。
<アンカレッジ空港>
飛行機は、アンカレッジに給油のために降りることになり、JALも、エアフラも、ルフトも、テクニカル・ランディングという名の着陸が必要だった。もちろん外は寒いし、暗闇で何も見えなかった。不味いうどんを食べさせる店を、日本語を話すおばちゃんたちが、開いていた。
アンカレッジで、一番驚いたのはトイレだった。男性の小便器の位置が恐ろしく高く、身長175cmの僕にも、爪先立たないと届かないような高さだった。実際は、爪先立つ必要はなかったが。あと大便器のある個室の扉の下端が、かなり日本より上で、外からひざから下が丸見えのような感じだった。ああ、アメリカだなあと感じたわけだ。
<まずいうどん屋:「懐かしのうどん屋」by ちきりん より借用>
アンカレッジからの飛行は、ハンブルグまでだった。ハンブルグでは眼下に、日本の蛍光灯の白い光とは違った、ローソクの灯に似た、暖かな街の通りの光が見えた。
ハンブルグからはシュトウットガルト経由で、真っ白なアルプスを超えて、ミラノのリナーテ空港についた。長い、長い旅だった。アンカレッジまで6時間、アンカレッジの待ち合わせ時間が2時間、アンカレッジからハンブルグまで9時間。、リナーテまで1時間で、17~8時間位かかったと思う。
<足元に見えるアルプス>
1月のミラノは、濃い霧の街だった。アリタリアは、リナーテの着陸まで、霧の中を旋回していた。
<ミラノ・リナーテ空港>
ポルタ・ヴェネチアから、ミラノ市街に入った。ホテルに入ると、外国の匂いがした。
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