NHKでも特集として「ひきこもりクライシス〜100万人のサバイバル」として「8050問題」が取り上げられた。8050問題とは、80歳の親が50歳の子どもを養っている問題である。なぜか、それは子が引きこもりで、働けないからである。80歳になれば、さすがの親でも先が長くないことがわかる。順番から言えば、子が後に残されるわけで、どうやって子どもが生きていくのだろうか、生き残れるかどうか、まさに生存が問題化されているのだ。
これは8050でも、また6030でも同じである。私には何件かの気にかかることがあった。今から20年から30年前になるが、不登校が社会の注目を浴び、社会もその家庭も「無理して登校させることはない」に結論づいた。その結果、家庭は「学校なんか行かなくてもいいよ」と不登校を受容するようになり、学校側もそういうことなら、無理に登校を促さなくてもいいと、煩雑に訪問や学友に頼んで登校や遊びに本人を外に連れ出す試みをしなくなった。担任であった私たちは、1日の仕事を終えてさらに家庭訪問などを繰り返していたが、正直、非常に楽になった。しかしその多くは放任放擲であったのに、だ。
その後、現場の私たちが直面したのは、就学の権利としての児童生徒と、就学の義務を負っているはずの保護者への対応だった。子どもを学校に通わせないのなら、保護者は義務として我が子に学校教育に準じる教育を与え受けさせなければならない。インターナショナルスクール、ホームスクーリングなども許容されることになった。
※ホームスクーリングでもChea Japan(チアニッポン)のようなきちんとしたカリキュラムを各家庭で実践し、定期的に地方地方で集会を開き、集団性を満たしているものなら良いが、そうではなく全くの家庭任せでは、私の知る限り、その多くは放任、無教育で義務を放棄している家庭が多かった。無教育の分水嶺は『引きこもり』かどうかにかかっていると私は思っている。
明らかに引きこもりの様子がある場合は、保護者が早めに相談機関に訴え、精神などを含め医学的な対応が必要が可能かどうか、アドバイスを受けられ、真剣に早期に回復の見立てを得られますように。逆に「いつか直る」「我が子を信じる」が、あっという間に時を経て、8050問題となっているわけだから。
最近引きこもりの51歳の男性、また息子を殺めてしまった父のニュースを聞くにつけ、元教師としてのかなりの責任と、あの当時の不登校を受容するとした社会の風潮と対応に憤りを覚える。
また牧師として、児童生徒に、「(どんな悪いことをも)すべてを感謝する」クリスチャンとしての信仰があったなら、こんな8050問題は決して起きなかったことを確信する。
ケパ