ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

されどイス

2019年06月27日 | 示されたこと
船橋聖会の事は、既にお伝えしましたが、
その時、用意したこのディレクターチェア
 
翌週から今週にあった全国の聖会では、
講師のために用意される椅子が、ブログを通してチラチラと見えました。
沖縄での会場で
今週は九州聖会でしたが、鹿児島で
この会場でも
熊本
長崎
各地では講師をされるP牧師の腰痛が、少しでも軽減されるのならと、座り良い椅子を用意します。
 
このディレクターチェアを持ち運び、5月の横浜聖会で使用したのを、聖会blogで見つけ聞いて来られた地方教会牧師がありました‥‥
 
この椅子は軽くて座り良さそう。何処でもすぐ用意出来からと。何処で購入できるの?と
さらに、その椅子を用意する必要がなくなることを願い祈りながら、です。
このように、愛の行動される教会を、主に感謝しました。気づきを感謝しました。
 
この椅子はケパさんが、知人から譲り受けた物でしたが、椅子の座り心地が良い事を自身で知っていたケパさんは、それを会場に持ち運びました。
その時、私はそこまでするの?と言う思いを持っことを恥じました。貧しい心を悔い改め、主に感謝したのでした。
 
いつも愛を持って主に祈る、それが主が喜ばれる事をすると言うことね。
そして示されたならそれを行う。それが
聞き従うと言うことね。
その事が分かりさらに私は、喜んでいます。
ハレルヤ〜
 
 
ドルカス
 
 
 
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聖書と信仰

2019年06月27日 | 信仰
私は二十歳から30年近く、福音派と呼ばれる教会に属していた。それは濃淡があっても、いずれも聖書中心主義であった。特に最も長く居た教会は特に聖書をよく学んでいた。例えば日曜日も朝十時から全年齢対象対象の年齢別聖書教室があり、幼児から老人まで全員が45分間、聖書を学ぶ。次に全員が移動して十一時から礼拝堂で一時間余りの礼拝をしていた。だから学校のような立派な校舎が、教会堂に隣接して建っていた。
 
私といえばさらに聖書好きで、ほとんど成人科教師としてあるいは校長として過ごしたが、CS校長とは牧師に次ぐ立場だった。
この長い時代を通して実は感じ続けていた一つの大きな疑問があった。それは【自分たちに、なぜ(信仰の)力が無いのか?】と言う疑問であった。まるで濡れた紙を壁に貼っているようで、貼っても貼っても、紙は落ちて行き、徒労感だけが蓄積したことだった。
 
三位一体を信じるほとんどの正統的なプロテスタント信仰の教会は、聖書中心主義である。それは何の異存もない。問題は力がないことである。どうしてか? 聖書を知的理解に留めてしまい、人間の有限な知を超えた、神の言葉の力を封じ込めてしまったからではないか。
なおも言えば、聖書を信じると言いながら、聖書を自分たちの知的な理解可能な範囲内で受け入れることだ。聖書に明確に書かれ、その力である力、奇跡、癒やし、異言や預言などの賜物を否定するのである。これは第1コリントやその他の書にも明確に記されているが、これらは初期の時代のもので、今は聖書が完成したから終わったとするのだ。しかし「終わった」なんて、聖書のどこにも書いてないのだ。自分たち被造物である人間に過ぎない存在なのに、神の言葉を判定するのだ。
この聖書の霊的な力の核心部分(これを信仰と言っても言い過ぎではないかも知れない)の拒否は、三位一体を信じると言いながら、その一つを否定するに等しいものだ。つまり神のことばを骨抜きにし、立派なお飾りの書に棚上げするのには十分であった。
 
私の体験上から言えることは、聖霊によって書かれた霊的な書である聖書を読むのに、その聖霊様に頼らなくてどうしてちゃんと読めて理解できるのだろうか? またその言葉の力を見るのだろうか? これが実は疑問に思っていた「力が無かった」原因なのだ。
驕りを悔い改め、人間の知恵という混ざりものなしに、み言葉をすべて信じよう。
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