二日前の前回、「教会とは?」で教会とは建物では無く、神に呼ばれ、集められた人々のことを指す、と書いた。
建物である会堂は単なるその入れ物なのだが、今日はそのことと、教会とのことを考えてみたい。
私は15歳から求道生活、20歳でバプテスマを受けた者で、38年以上はずっと福音派と呼ばれる教会で生きてきた。その終わりの20年ぐらい、ずっと教会の役員(執事)に選ばれ続け、教会の執事及び、牧師に次ぐ立場であるCS(子どもから成人まですべての人が学ぶ)校長として、教会の隅から隅まで見てきた。その結果、言えることは、会堂は罠であることだ。なぜか。それは今の群れ、TLEA(The Life of Eternal Agape)という会堂を持たない教会に導かれて、はじめて分かったからである。
日本には宗教法人法というものがあって、会堂という不動産に対し、税金が免除される代わりに、責任を負う3名以上の役員と財産管理と教会員数などの報告する内部規定が必要だ(3章18,25条)。通常は洗礼を受ける(つまり、その教会の一員として加えられる)と洗礼証明書、教会を移動すると転会状を持たされるが、これは宗教法人法対応に則って、常に会員数の把握が必要だからという意味があるからだ。
特に問題なのが執事会とも呼ばれる教会の中心的な組織である役員会。私は役員会の内実について、その教会で置かれた高い位置に反し、振り返れば実に残念なものだった。総会はいつもシャンシャンと手打ちで終わるのに対し、牧師を招聘したり、伝道の計画を立案する教会の実質は役員会ですが、そのほとんどは会計報告と使い方の問題や、誰がどんな仕事を担当するのか、不毛の討議ばかりであった。時にはつかみかからんばかりのけんかも見られ、教会の台所関係での実に細かい無駄な時間と共に、心もからだもすさんでいく霊性ゼロの、まさに虚しい忍耐の時間であった。同じボランティアでも、今私の住んでいる管理組合の理事会の方が、はるかに穏やかで平和的な会です。
これはどういうことだろうか。最大の原因は、会堂があるからだ。そのために宗教法人法に縛られ、役員を選出しなければならない。教会が教会員によって維持される原則であれば、下の教会員が上に立つ役員を選ぶので、言わば権威の逆転が起こる。人々の目には立派そうに見えても、実際には神のみこころを反映したものとはならない。信仰ではなく、世で評価が高い人が役員になり、無意識に役員会を、教会全体を霊的に自分のレベル、地に引き落とすためだ。
教会は神が呼び集めた信徒の集会であり、その信仰告白の上に、キリストがかしらとなり、聖霊が満ちており実際的に働く所だ。教会とは神が立てたしもべによって、その霊的権威と信仰によって立てられる。一般教会員による選挙とかの民意に、決して拠るべきではない。また主イエスは牧者に対しては、わたしを愛せるように羊たちを愛し養いなさいと命令されたのだ。(長崎26聖人殉教聖会)
教会とはペテロの「あなたこそ生ける神の子、キリストです」という信仰告白の上に建てられ、内住ではない聖霊のバプテスマという、活ける神である聖霊の満たしによって生きたものとされた。それが宗教法人法という会堂を維持するための世の法によって、しだい次第に教会の内実が白い墓場と化したわけで、そのことを私は、会堂のない教会、この群れに来るまで分からなかった。すると法の縛りを受けないわけで、つまり会堂のない恵みと守りをこの群れに来てはじめて知った。
私たちの会堂を持たない教会は、信仰が弱く、確信がなくなったら、当然、即終わりになる教会でもある。信仰が命の教会であるからこそ、私たちには信仰があると確信をもって言えるのだ。(写真は長崎にある群れの殉教者用の墓)
何年か前、二月五日にある殉教聖会でのことだ。「この中で、殉教をも厭わない人、前に出てきてください」と群れのリーダーが言われると、その場の何百人という参加者のほとんどが立ち上がり、進んで前に歩み出ました。まるでこの招きを待ってたとばかりに・・・・。死を恐れないこの群れの信仰が、真の教会であるしるしが現された時でもあった。
ケパ