クリスチャンの死は、その人の信仰をもっともよく表しているものだ。
聖書で、特に黙示録を見ると、殉教者は特別に祝福され、千年王国ではキリストの祭司、王とされる。しかし殉教者は神に特別に選ばれ、召された者であって、希望してなれるものではない。(黙示録20:4-6)
"また私は多くの座を見た。それらの上に座っている者たちがいて、彼らにはさばきを行う権威が与えられた。また私は、イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々のたましいを見た。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。"ヨハネの黙示録20章4節©2017
人は必ず第1(血肉の体)の死を迎える。永遠のいのちを与えられているクリスチャンにとって、死は天国への凱旋であり、喜びである。もし死が怖いとか恐れる感情がどうしても強く持ってしまうならば、そのクリスチャンは真に救われていないか、天国行きの確信が持てないでいるかだ。それは命の書に記されていないことを予感させられているのかも知れない。それで怖いのかも知れない。遅い、ということはあり得ない。今すぐにでも悔い改め、神のあわれみにすがりましょう。
残念な例がある。私たちの群れではないが、50年の長きに渡ってとある教会の奏楽奉仕者を務め、80代になられ、その教会の長老格であった方の話である。 前立腺の病を得、その死に際に当たって「どうして神は私を棄てたのか!」と言われたという。
もう一つ、私がつぶさに目撃したクリスチャンで、末期ガンでもはや数日しか余命がない中でも、まだ死を受け入れていなかった。そんな中、見かねた看護師が本人に状況を教え、死に備えるよう説得を試みた。しかし本人は頑として自分の状況を認めず、最後まで死と戦い、死を受容することはなかった。そのため周囲に告げる言葉もなく、看取った者として、本当につらい別れとなったことが記憶に新しい。
信仰の真価が、血肉の死に当たって、まるであぶり出し文字みたいにはっきりと浮き上がってくる。会堂を借りたりする時、ずいぶんとお世話になったノンクリの不動産会社の社長がいて、ある時、どうして私たちを信用し、世話をしてくれるのかと聞いたことがある。すると「若い時、あるクリスチャンが死を恐れずに死んだ」から、と答えてくれた。
これと関連して、クリスチャンが病に、あるいは障害にあった際、すぐに「癒してください」、また元のように直してください」と祈る人がいる。まるで「困った時の神頼み」「祝福されるためにクリスチャンになったのに、これは違う」と受け付けない。
よく考えてほしい。クリスチャンはすでに一度神に自分を捧げた存在なのだが、こうなるとこれは、やっぱり未だ自分が主権者なのであって、神は自分のために存在するのだ。やはり心から悔い改めなければならない。
これは私の証で、初めて死を身近に感じた時のことである。60歳前の健康診断で「結腸がんの疑い」と診断された。急を要するので次の大病院に急行するよう託された、自分のレントゲン写真を見た。大腸に入ってすぐのあたりに素人目にも大と中のはっきりとした異様な形を見、インターネットで病名の症状を調べてみるとドンピシャ当てはまっていた。「これは急性で、多分ダメだな」と死を覚悟した。
不思議なことに、死への恐れより、心は平安で天国への期待に満たされた。確かに実際にはまだガンの苦しみ、痛みを経験したわけではなかったが、それでもそんな通過儀礼より、愛する方のお側に行ける、その喜びがはるかに大きかった。だから喜びというか嬉しさが湧き、平安と言ってもよい、それを待ち望む感じだった。
唯一気がかりなのは、再婚してまだ間がないドルカスのことだったし、まだ語られた使命を果たしていないことだったのだが。検査の結果は意外なものだった。全くガンが無かったのである。あれは他人のものだったのか、さもなくば、ただガンが完全に消えたのである。
真価が試される前に・・・。
クリスチャンで神を愛する方なら、まず証のためにも明確な聖霊のバプテスマを求め、その上で御心に聞き従う歩みをされると思うが、その段階で一度、自分の使命とは、と、それと関連し、仕上げとしてこの世でどのような最後を自分が迎えるのか、神さまにうかがっておくことをお勧めしたい。
きちんと先のことがわかっていれば、惑わされることもない。聖書で全世界のこれからが預言として書いてあるのは、そのためである。
クリスチャンにとって第1の死は、ある意味、問題ではない。しかし第2の死を予感し、恐怖に恐れおののく世の方々への証として、自分の死が用いられることは素晴らしい恵みだ。言わば真価が試される時である。
ケパ