ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

「聞き従い」は神への愛

2018年11月28日 | 
私たちは神に愛されている。特にクリスチャンは子として愛されている。歌集「風のひびき」でも、そんな曲が結構目立つ。何となく「そうだよなぁ-」と気持ちよくなるが、しかし実際に神の愛を体験している方は、案外少ないのではないのではないだろうか。

本当の愛って何? 「好きです、愛してます」と連呼して相手に迫ることではない。まして相手を恐怖とか権威、腕力で支配することでもない。愛とはふれあい、交わることを喜ぶこと。そして相手の心を重んじ、自分より優先し尊ぶことではないだろうか。

親は子を愛する。これは理屈抜きの感情だ。もし子を遠ざけ触れ合うことを避ける親がいたとしたら、それは名ばかりの親で、実質がないと言うほか無い。

神様と私たちの関係も同じ。父なる神は、私(たち)を子として下さる。愛して下さる。だから本質は、私(たち)とふれあい、交わりたいのである。
しかしそこに障害となるのが、聖なる父に対し、罪ある私である。それゆえ愛なる父は十字架によってその障壁を取り除いてくださったのだ。
"神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。"(ヨハネ3章16節 © 2017)
罪の問題を解決してくださったのに、その実体そのものである聖霊のバプテスマを、何と多くのクリスチャンが受けていないことだろうか。それは聖霊さまの内住があっても、聖霊を主とせず(口先では「主よ」とか言うが、実際には自分が主であり、自己中心、自分教からは抜け出ていない)、それすらも自覚できていないからだろう。

一つのカラダには、一つの主しかあり得ない。そしてそれは、人の力では可能なことではないと思う。しかし、試練、困難を通し、神は為して下さる。だから逆にそれは、愛されたしるしであり、祝福なのだ。
"神にとって不可能なことは何もありません。」"(ルカ1章37節 ©2017)
こうして十字架、復活を通しての約束のもの、【聖霊のバプテスマ】の目的は、神さまが人と交わるためである。また聖霊のバプテスマは交わりなれば相互のものであって、子もはじめて父なる神を本当に知ることになる。そして日々の祈り、聖霊によってか開かれる御言葉を通して、父を知れば知るほど、「ああ、なんてすばらしいお父様、私はあなたの子であることを喜びます❗」と、父を深く親しく愛するようになる。こうして交わりが深まれば、さらに! どんなにか、父から愛されているかがわかるようになる。「殉教? はかないこの世の命と、このお父さまとの永遠の暮らしと、どっちを選ぶか迷うことないでしょう」となるほど。

実現した父子の交わりは、父を愛し慕うので、どうしても父の最高の計画のお手伝いをしたい、そのような心が湧いてくる。父はそのような子を喜んでくださり、子の希望を通してご自分のわざを進めて行かれる。

ところで愛なる神さまは、私たちをロボットや兵隊のように、命令して従わせようとは基本的には意図しておられない。父の御性質に反することだ。それはある意味、私たちがきかん坊で駄々っ子の無分別な時に、私たちを守るために仕方なくされるのだ。そして時には叱られる(私はよく叱られた)。
しかし本来「聞き従い」とは、基本的には命令とはならず、自発的に父の計画を喜んで先取りして行おうとするもの。交わりを通しての忖度(そんたく)の類、子がする父への愛の現れだと私は思っている。

※この内容は下記のブログ【ケパのメッセージ】で「聖霊の目的」(2018年11月25日)でも詳しく述べています。
http://capha.cocolog-nifty.com/blog/



ケパ




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