今朝、ある街角を自転車で走っていて、こんな看板を目にした。「お葬式、それは人生の卒業式」だそうだ。

「う、う〜ん、ちょっと待てよ。卒業式は結構。けれども卒業した後、どこに就職するんだろうか」と。へそ曲がりかも知れないが、だいたい、学ぶのは卒業後のため、社会人として生きて行く力をつけるためである。でもこれでは、ただ卒業することだけが目的になっていない? 親のスネかじっただけで、それを何の役にも立てずハイ、サヨウナラ・・・・おかしくない?

日本人にとって、どうも死ぬことは終活と言う言葉があるように人生の終わりであるらしい。主に自分の目的追求だけで終わった人生とは、誰もがその先に真っ暗な闇があることだけはわかっているようで、恐ろしさの余り、何も考えたくも想像もしたくないようだ。キリストの神を信じない限り、確かにそれはまったく図星なのだ。
以前私が母の没後の親族の集まりで、姉の了解をとりつけた上で、伝道という押し付けがましいことではなく、考えてもらいたくて死後の世界の話を始めたことがある。親族を愛する余り、迷惑に思われても少しだけ聞いてもらいたかったのだが、たちまち「縁起でも無い話をする」「辛気くさい」「気が滅入る」と怒り出す年長者がいて、まともに話すことができなかった。
しかしこれまで死ななかった人はいないし、親を送り、次は自分たちの番だという冷徹な事実に目を背けて、どこまでも避け、逃げ、触れたくないらしい。それこそ「愚かなこと」だと私は思うのだが、日頃の私の証が足りないからでもあると反省した。

自分のことを一番にしか考えられない罪人であるからこそ、一切の罪の身代わりになってくださったキリストの十字架の愛に、心からより頼む。キリスト教は、世界最古にして人類に最大の影響を与え続けている教えである。誰もこれを軽視出来ないはずだ。
どうか一人でも多くの親族や、友人知人と一緒に天国に行きたい、その願いがますます強くされている。
ケパ

「う、う〜ん、ちょっと待てよ。卒業式は結構。けれども卒業した後、どこに就職するんだろうか」と。へそ曲がりかも知れないが、だいたい、学ぶのは卒業後のため、社会人として生きて行く力をつけるためである。でもこれでは、ただ卒業することだけが目的になっていない? 親のスネかじっただけで、それを何の役にも立てずハイ、サヨウナラ・・・・おかしくない?

日本人にとって、どうも死ぬことは終活と言う言葉があるように人生の終わりであるらしい。主に自分の目的追求だけで終わった人生とは、誰もがその先に真っ暗な闇があることだけはわかっているようで、恐ろしさの余り、何も考えたくも想像もしたくないようだ。キリストの神を信じない限り、確かにそれはまったく図星なのだ。
以前私が母の没後の親族の集まりで、姉の了解をとりつけた上で、伝道という押し付けがましいことではなく、考えてもらいたくて死後の世界の話を始めたことがある。親族を愛する余り、迷惑に思われても少しだけ聞いてもらいたかったのだが、たちまち「縁起でも無い話をする」「辛気くさい」「気が滅入る」と怒り出す年長者がいて、まともに話すことができなかった。
しかしこれまで死ななかった人はいないし、親を送り、次は自分たちの番だという冷徹な事実に目を背けて、どこまでも避け、逃げ、触れたくないらしい。それこそ「愚かなこと」だと私は思うのだが、日頃の私の証が足りないからでもあると反省した。

自分のことを一番にしか考えられない罪人であるからこそ、一切の罪の身代わりになってくださったキリストの十字架の愛に、心からより頼む。キリスト教は、世界最古にして人類に最大の影響を与え続けている教えである。誰もこれを軽視出来ないはずだ。
どうか一人でも多くの親族や、友人知人と一緒に天国に行きたい、その願いがますます強くされている。
ケパ