散りかけの桜も美しい。私はもうすぐ十年になる。何が十年かというと、献身して上京し、東京のアンテオケ教会の牧師としてスタートしたのが十年前の四月十五日だったのだ。(今日の海老川、水面に浮かぶ散り桜が美しい)

春に献身できたのは、直接的には前妻の召天が半年前にあったからだが、それだけでなく、召命に関していくつかのハッキリした神からのしるしがあったからだ。ところが最近、この召命と献身にあたって、これを妨害するサタンの、相当強烈な攻撃があったことを、ありありと思い出した。
その顛末を一言で言えば、某建託メーカーの営業マンが姉の紹介で突然やって来たことに始まる。彼らは測量や設計施工計画まで済ませて来ていた。彼らの提案とは私名義の2000㎡近い休耕田に、わんさか総2階建てのアパートを建てるというものだった。
総費用は約2億円で、その費用は土地を担保に銀行が融資を了承しているという、全くあり得ない話だった。また別に管理会社があって、入居からその空き室保障、細かな管理営繕まで、すべて込み込みだという。だから、この契約書に私が印を押しさえすれば、即、私は大家となって、返済しながらも、月々うん十万円の収入を得ることになるのは間違いない、と。(下の写真は本文と無関係ですが、だいたいこんなのがたくさん立つ感じ)

この時私はすでに春には献身し、上京することにしていた。都会に出て無給の牧師になるということ、それは退職金を使い果たすや否や、生活が成り立たなくなる事でもあった。ところが印を押しさえすれば向こう十年くらい、通常の一人分の収入が入り続けるというこの話に、正直「助かった!」と思わないはずがなかった。
ところがである。このことを祈ってみると、はっきりと「危険、ストップ」なのである。それで私はすぐには印を押さず、このうまい話の実際をいろいろ調べてみることにした。
すると、この会社の過去は倒産、別名会社へと、相当な問題会社であった。またたくさんの訴訟物件をかかえ、全国被害者の会まで結成されており、その会の情報にはちょうど私のような事例が沢山載っていた。
それらによると、全てではないが私の場合、田舎にあるので条件が悪く、家賃設定と入居率に問題が大きいこと。おそらく十年後には修繕費用や空室の増大によって、大家としての収入より返済の方が多くなり、さらに年月を経るほど返済地獄に陥る可能性大なのだ。最終的には1億ぐらいの負債を抱えてすべてを失い、破産という社会的な制裁を受けることになりそうだ。
まさに肝胆寒し、ぞぞーっとした。借金に追いまくられ、自己破産しては、もう牧師どころではない。これは私から使命を奪う、サタンの魔の手に違いない。もし神に祈って、聞き従っていなければ、果たして私は、どうなっていただろうか。

この話をきっぱり断ったのは言うまでも無いが、今になって思えば、献身とは命を神に捧げることであって、退職金が無くなったら路上生活者になる、そんな経済を心配して己の身の保身を図るようでは、純粋に献身したとは言えないのだった。
逆にこの試しがあったからこそ、自分はたとえどうなったとしても良いと、怖れに打ち勝ち、全てを捧げる決心がついた機会となった。その捧げた結果は歴然としていて、神の備えは万全であった。十年経った今の私は恵まれ満ち足りていて、使命に捧げることができる私は、本当に幸せである。神に聞き従う人生は、本人の想像を超えた最高の人生である。
ケパ

春に献身できたのは、直接的には前妻の召天が半年前にあったからだが、それだけでなく、召命に関していくつかのハッキリした神からのしるしがあったからだ。ところが最近、この召命と献身にあたって、これを妨害するサタンの、相当強烈な攻撃があったことを、ありありと思い出した。
その顛末を一言で言えば、某建託メーカーの営業マンが姉の紹介で突然やって来たことに始まる。彼らは測量や設計施工計画まで済ませて来ていた。彼らの提案とは私名義の2000㎡近い休耕田に、わんさか総2階建てのアパートを建てるというものだった。
総費用は約2億円で、その費用は土地を担保に銀行が融資を了承しているという、全くあり得ない話だった。また別に管理会社があって、入居からその空き室保障、細かな管理営繕まで、すべて込み込みだという。だから、この契約書に私が印を押しさえすれば、即、私は大家となって、返済しながらも、月々うん十万円の収入を得ることになるのは間違いない、と。(下の写真は本文と無関係ですが、だいたいこんなのがたくさん立つ感じ)

この時私はすでに春には献身し、上京することにしていた。都会に出て無給の牧師になるということ、それは退職金を使い果たすや否や、生活が成り立たなくなる事でもあった。ところが印を押しさえすれば向こう十年くらい、通常の一人分の収入が入り続けるというこの話に、正直「助かった!」と思わないはずがなかった。
ところがである。このことを祈ってみると、はっきりと「危険、ストップ」なのである。それで私はすぐには印を押さず、このうまい話の実際をいろいろ調べてみることにした。
すると、この会社の過去は倒産、別名会社へと、相当な問題会社であった。またたくさんの訴訟物件をかかえ、全国被害者の会まで結成されており、その会の情報にはちょうど私のような事例が沢山載っていた。
それらによると、全てではないが私の場合、田舎にあるので条件が悪く、家賃設定と入居率に問題が大きいこと。おそらく十年後には修繕費用や空室の増大によって、大家としての収入より返済の方が多くなり、さらに年月を経るほど返済地獄に陥る可能性大なのだ。最終的には1億ぐらいの負債を抱えてすべてを失い、破産という社会的な制裁を受けることになりそうだ。
まさに肝胆寒し、ぞぞーっとした。借金に追いまくられ、自己破産しては、もう牧師どころではない。これは私から使命を奪う、サタンの魔の手に違いない。もし神に祈って、聞き従っていなければ、果たして私は、どうなっていただろうか。

この話をきっぱり断ったのは言うまでも無いが、今になって思えば、献身とは命を神に捧げることであって、退職金が無くなったら路上生活者になる、そんな経済を心配して己の身の保身を図るようでは、純粋に献身したとは言えないのだった。
逆にこの試しがあったからこそ、自分はたとえどうなったとしても良いと、怖れに打ち勝ち、全てを捧げる決心がついた機会となった。その捧げた結果は歴然としていて、神の備えは万全であった。十年経った今の私は恵まれ満ち足りていて、使命に捧げることができる私は、本当に幸せである。神に聞き従う人生は、本人の想像を超えた最高の人生である。
ケパ