「取り繕う」とは、広辞苑によれば「その場をうまく調えて言う。つつみかざって言いのがれる」とある。先々日テニスの懇親会があった時、仲間内からは「仙人」と呼ばれる白髪豊かなある書道家がいて、その話がおもしろかった。
今週の火曜日、今年度最後になったテニスの日。仙人はペトロ岐部(これは私が勝手に彼のことを名づけている)といつになく激しく打ち合った。「今年はこれで打ち収めで最後」という気持ちがあったようだ。仙人はテニス終了後、それほど自分の体力が消耗していると気づかず、依頼された仕事「桐箱」への書に取りかかった。桐箱というのは紙ではない。紙ならやり直しがきくが、特注の桐箱となると一発勝負なのだ。一旦筆を下ろしてしまったなら、それは最後までやり切らねばならない。ところが、である。「書いている内にヘロヘロ字になってしまって、修正しようにも、どうにもこうにもヘロヘロが直らない。」それで仙人は桐箱を削ったりなど今更やり直すわけにもいかないので、但し書きに「かくかくしかじかで、ヘロヘロ字に成り申し、まことに不甲斐なき・・・・・」と書いたと言うのだ。
それを聞きながら私は、ある種のインスピレーションを感じた。それは「取り繕ろわない」ということだった。仙人曰く「こんな泣き言を言わず、これも◯◯筆と見栄を切ってもよかったのだが。またどんな字を書いても、自分に失敗はない、とする者も多い」と。仙人は剛毅な性分で、だからそのテニスは超攻撃的だ。しかしそのような人でも失敗を失敗とし、取り繕わないのだ。(右写真は、懇親会場トンカツ屋で、仲間が失礼を省みず、店主に頼み込んで揚げてもらった特厚トンカツ。話を盛り上げてくれたカツです。)
多くの場合、取り繕っている人というのは、自分を守って正当化してしまい、その意識がないのではないか?神の前に、自分にはたして取り繕いがないのか、ようく自分自身をチェックしなければ、と思う。終わりの日、そして神の前に出る時、自分に悔い改めていない罪があってはならない。もしあれば、それは神から問われることになる。失敗を失敗とし、罪を罪と認めなければ、悔い改めることは不可能だ。だから取り繕ってしまえば、自分を守ったようでいて、それはほんとうに自分を大切にしたことにならない。
「まことにあなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません(マタイ18:3)」