一昨日長崎から帰ってきたばかりだが、 熊本で入院中のE兄を見舞ったことが、強く心に残った。E兄は骨髄が冒される難病で、手術としては2回目。今回は体の一部の骨を脊髄に移植する手術を終えて、数日が経ったばかりだった。
E兄の場合、神様に奉仕しようと早期退職をされ、ご母堂を天へ送り、さあこれから専念できると思われた直後の発症だった。神様に献身すると、イエス様が荒野での断食後、最初にサタンからの試練を受けられたように、どうも試練がやってくるようだ。逆なようだが、その恵みは想像を超えて大きい。献身といっても、万が一キリストにあって自分が死にきれていなければ、またもしどこか砕かれが不足して立てば、
「わたしの兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別厳しいさばきを受けるのです。」(ヤコブ3:1)
と言うことになりかねないからだ。だから試練を受けることは、献身者にとって神の愛と護りであり、御心の器として立てあげていただく恵みの機会である。一見悪いことのように見えても、感謝という信仰の目で見ると、神はすべてを益としてくださり、完全だ。
E兄はすばらしかった。日々の激しい痛みにも感謝を実践されて、平安を得ておられた。謙虚に自分を省みられ、主の前に悔い改められたきよい心が、謙遜さが眩かった。またひょっとして二度と立てないかも知れない自らの体についても、すべてを主に委ねられた姿勢に、心打たれた。私たちは心から主を崇めた。そして、試練を通して、信仰の高嶺へと引き揚げてくださったことを主に感謝し、E兄の癒しを切に主に求め祈った。
祈り・・・・主よ、E兄を元の体に完全に癒してください。手術が完全に成功しますように。緑膿菌をE兄の全身から、ただちに消滅させてください。あなたはそれがおできになります。アーメン。 (ケパ)