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ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

すべて時にかなって美しい

2016年12月15日 | 
夜の景色です。

教会での祈祷会を終えて見ると、フルムーンとまでは行きませんが満月近い大きな月が見えました。
一夜明けて今朝のことです。テニスコート横に、朝日を浴びて美しいピンクの椿(ではなく、山茶花だと訂正)の花の道ができていました。

こんな美しい月と花の光景を見ると、つい、
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい(伝道の書3:11)」の御言葉を思い出します。

皆さんは、天体や自然の規則正しさ、美しさをご覧になって、それがすべて長い時間をかけての偶然の所産だとお思いでしょうか? それならば感動されることなど無いのではありませんか?
私は感動します。天地万物の創造主、神が計り知れない知恵と力とを持って、私たち人間の舞台を造ってくださったことが分かるからです。ですから美しさに、心から神を褒め称えます。hallelujah❗



ケパ
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夫婦

2016年04月15日 | 
. 私たち夫婦は、いつもどこででも一緒に行き、一緒にいるので、おしどり夫婦であると見られている(はずだ)。

しかし私にはかつて、まだ幼い二人の子どもを抱えながら妻の入院や闘病を支え、家庭崩壊、別居と今でも思い出すだけでも辛い、長い年月を過ごした時代がある。それだけに神から導かれたこの結婚には、①ケンカOK、ただし就寝までには復元力のあるケンカ。②できるだけ夫婦で共に同じ風景を見ていく。この二つをあらかじめ祈っていた。
ケンカしない夫婦というのは、ケンカすると壊れてしまう恐れがあるために出来ないわけで、これは表面上仲良くしているだけの偽りの夫婦である。男と女、体も違えば心も違う。互いの違いを理解し、その分だけ人間の幅を広げるものの、それには互いの葛藤、ケンカという生みの苦しみがつきものだ。しかし男女の違いが二本のレールを走る列車のように、子どもという命を与えられ、両性をバランスよく育て、多くの喜びを運んでいくものとなる。
しかしレールの幅が寄り添うのではなく、広がり続ければいろいろ夫婦関係が難しくなる。昔、普通の農家や商店などは夫婦で力を出し合って家業を支えた。だから互いをよく知り、互いが必要であった。しかし今の夫は会社、妻は家庭ではお互いの日常や問題がわからず、会話はすれ違う。これは心の一致に大きな障害となるのは当然だ。

今私たちはもうすぐ結婚して満8年になる。この間、神さまに祈った二つのことは、満願成就である。だからよくケンカもするが、すぐに仲直りする私たちは、嘘偽りない仲の良い夫婦である。
私はよく木工をするが、板と板を接着剤で貼り合わせた合板は、同じ暑さの1枚板より強い。接着剤はそれほど強力である。夫婦も二人だけより、神様が接着してくださった二人の方が強力である。
ただし今のところ、「猫の手も借りたい」ではないが、猫のコールも夫婦ゲンカの仲直りに一役かっている。
私たちがケンカを始めると、ドルカスが怒るぶんには逃げていて息を潜めているくせに、私が怒っている時は「止めなさい!」とばかりに噛みついてくるのだ。たとえ猫でも夫婦のケンカが分かり、ドルカスには猫手の打ちようがないものの、私は静止できる?とみているようだ。確かに可愛いコールの注意では、私も矛先を納めざるを得ない。これは猫の手を用いての神の手なのだろうか?

たとえどんな困難が人生にあったとしても、人間の幸せを清算するとしたら、世界で1人だけの理解し尊敬する伴侶を得るかどうかにある。神に人生を委ね頼る者は、間違いなく祝福される。



ケパ
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Saver

2015年10月19日 | 
今日、信号待ちで車を停車していたら、前の車のバンの社名が「Saver」とあったので驚いた。この単語の意味は1に救助者,救済者である。まさか・・・と思って調べると、次mp2に節約家,貯蓄家で、最後の3にしばしば複合語で節約器[装置]なんだそうだ。フーン、まったく・・・驚かすよなぁと思った。

その後、運転しながら、そう言えばこの前、新約聖書学のテストで、「聖書でキリストを表す言葉をがいくつあるか、10以上答えよ」というのがあって、最後の10個目がなかなか思い出せず、苦戦したことを思い出した。そのテストで真っ先に思い浮かんだのがやはりこの「Saver」で、日本語聖書では「救い主」と訳す。あと(世の罪を取り除く神の)小羊、人の子、世の光、霊妙なる義士、王の王・・・etc。

さて家に帰って見ると即、ドルカスから今回出た歌集の64番「I Worship You」の歌詞確認のために、「歌詞を読み上げて」と注文が来た。歌集をめくりながらその曲を読むと、何と1番にSaver、次にHealer、Redeemer、Shelterと神の呼称のオンパレードだった。しかしここでもまたいの一番に、先ほど社用車と同じSaverが1番に来たのには驚いた。クリスチャンにとって偶然はないから、これには何か神の御心があると感じた。

神が「Saver」であるなら、私たちは「助けられ、救われた者たち」ということになる。神と私たちとの関係は決して対等ではない。高ぶることなく常に感謝し、神の愛である十字架によって救われた恵みを、体の芯にまで染み込ませたいと思った。 ケパ



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ゆるしの宗教

2015年09月01日 | 
キリスト教は一言で言えば、「ゆるしの宗教」である。

NHKの朝ドラで主人公希(まれ)のお父さんが、贖罪のために出奔するが、「自分だけが幸せになってはいけない」・・・このいい加減な脚本にも、またそれで特に反響が出ない民意にも、私はかなり違和感を覚える。

私たちは、ゆるされなければならない、存在である。このどうしょうもない自己中心性を。己の良心に全く従えず、むしろ己の欲望を、欲望から欲望へと、果てなく追求する罪深さを。そのためにいったいどれほど、人を傷つけたことだろうか。外見はともかく、自分の中身は醜く、ゆるされなければ一時でも生きてはいけない。

そのような人でなければ、キリストの十字架がわからず、受け止められず、罪からの救いの喜びを体験することは出来ない。それは天地万物の創造主たる神からの、絶対的なゆるしという、和解である。
人はゆるされてはじめて、己を肯定し受け入れ、愛することができる。己を愛せない者がどうして、人をも愛せるだろうか? ケパ



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無関心がゆるされない分野がある

2015年08月28日 | 
ドルカスのよくよく知り合っている人が、とある教育問題で国会に出入りすることとなった。何度目かの国会訪問で、よくよく疑問に思ったので随行の社長に聞いたそうだ。「共産党ってどういう傾向のある党なんですか?」と。社長曰く「よくそれで国立大学に行けたね」と笑われたそうな。

う~ん、私がその社長なら、「・・・・」返す言葉がなかったかなと。断っておくが、その人を野山に連れて行けば、自然音痴の私から見れば、まさに超人のごとく羽ばたく人だ。しかしそれにしても共産党を知らないなんて、まさか一度も投票所に行った事がないわけではあるまい。関心の分野が違えばこんなものだろうと思わされた。

私は政治のことについては、小学生の時からケンケンガクガク、父と議論していた。家庭が小さな町の行政の特別職の家だったという面もあった。高校生になると、前代未聞、校門に大きな立て看板を作って立てても、学校側は黙認するほかなかった。だから草木の名前はほとんど知らなくても、本で知る歴史と地理には特化して興味を持っていたわけで、すごくかたよった少年であった。むしろ「共産党って?」と知らない方が健全に思えるのは、私がすでに老人の域に近づいているせいか?

しかし、である。この世に生を受けた限り、絶対に無関心であってはならない事がある。それは人はみな必ず死ぬ事であり、それなら「何のために命が与えられたのか?」という事である。
おもしろおかしく、愉快に過ごして往生すればよい、とか、考えても不明なことは考えるだけ無駄とする方が多すぎる。
そうではない。人には霊魂があり、これは肉体が終わっても不滅である。この魂の行き先こそ、今ある命が尽きるまでに絶対に天国に行けるよう、唯一の道、十字架を信じ救われておくべきだ。
世界にはいろいろな宗教があるが、ただキリスト教だけが五大陸を覆う世界最大のものであり、平等・人権・博愛など人類が共有する文明を創出して来た。それだけの内包した真理がキリスト教にあることは、何人にも無視が出来ないはずだ。まず異端ではなく、ちゃんとした三位一体の神を信じるキリスト教会の門を叩いてほしい。 ケパ
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神様お手製のステキな鍵の話

2015年07月23日 | 
昔々、七年も恋い焦がれた相手と結婚し、天にも上りそうなほど喜んだ男がいた。しかし最高の伴侶だと思った相手の心までは、実は理解していなかった。愛さえあれば、互いに理解し合えると信じていた。しかし様々な愛の形があり、時には乗り越えられない形があることまでは、彼は知らなかった。

結婚とは素晴らしい男と女が結婚したらと言って、必ずしも素晴らしいカップルになるわけではない。互いの長所同士が打ち消しあってしまうことすらありうるのである。結婚とは例えて言えば鍵穴と鍵のような関係である。普通は鍵の形状を愛が何とか形作る。しかし、自分すら愛せない人とは、その形状すら空回りして定まらず、結局どんなに苦心惨憺しても鍵は造れずに終わる。

いきなりで恐縮だが、全く違う愛の形を一つ提示する。ある所に、結婚相手を選ぶ力が自分にはないと知った男が居て、選択を神に委ねた男がいた。祈りは天に届き、ほとんど知らなかったが、御心の女性と結婚した。もちろん人間的な愛などはなかったが、神への愛と聞き従った結果だった。

今、その二人は心から幸せである。鍵穴はmade in Godで、完璧なのだから。 ケパ
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ミイラ取りの話

2015年02月13日 | 
最近になって、私たちの群れではないあるクリスチャンと、神とか信仰について話す機会があった。

話す内に、何か大きなズレを感じていたが、気がついたのは、信仰がまるで違うということだった。彼から見れば、私は狂信家のように見えたことだろうし、私から見ればなんとも歯がゆい信仰に見えるのだ。実は私もかつては30年間、彼のようなクリスチャンだったので、もろに口に出しては言わない彼の思いがよく分かる。

何しろ私は自分の人生を、自分の計画を捨て、神に聞き従うと言うし、どんなに苦難に落とされても神に感謝するという、どうにも通常では理解できない信仰を持っている。神に聞くとか従うとかを私が言っても、そもそも神が語られるという信仰や体験がなければ絵空事だ。偽善者風で、腹が立つ。だから最後には「ではあなたは、神の声が聞こえてるんですね?」という質問で終わる。

ここが実に難しく危険なところで、「ハイ」と言えば即座にこの人は、やっぱりまともな人ではない、とばかりに話は終わりになるし、かと言って曖昧にしてお茶を濁すこともできない。それで最近は「その前にあなたは、神が語られるということを信じますか?」と聞くようになった。そして聖書から神はいつの時代でも語られるということ、聞き従う土台としての聖霊の働きを、証を交えながらやんわりと気づいてもらうようにしている。

群のある方が私を評して、「ミイラ取りがミイラ(カリスマ派)になった」と言われる。正しくは「ミイラ嫌いがミイラに(神によって無理矢理に)された」者であって、それで「ミイラ取りに来る人は皆ミイラにする」ことに情熱を与えられているのだ。 ケパ


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光があれ

2014年11月27日 | 
最近私たちの間で「セカイ ノ オワリ」と言うロックグループが話題になっている。礎の石孤児院をサポートしてくれているからだ。

ところでこれは「セカイ ノ ハジマリ」の話だ。今から四千年も前の、世界最古の書物である聖書の始めの創世記には、「初めに、神が天と地を創造した」とあり、続いて「光があれ」と仰せられたので、光が存在しはじめた。何がわかるかと言うと、神の言葉によって創造された万物では、光が最初であるということだ。これは実に深遠な真理を含んでいる。

光があって、万物が見えたので、名をつけ、認識が始まる。また光は白いように、もしくは透明なように思われているかも知れないが、実はあらゆる色をバランス含んで白色(透明)になっているだけで、何らかの拍子に虹色として正体を現したり、写真のように夕焼け、朝焼けとして色の破綻を見せてくれるのだ。

ああ、それにしても美しい。写真は船橋駅北口近くの街路を、普通にパチリしたもの。 ケパ
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霊・魂・血肉のからだ

2014年07月28日 | 

Heaven_38  ふしぎな話である。人という存在が、である。

 血肉のからだがあって、それはせいぜい100年ぐらいまでには、必ず死んで滅んでしまうのに、なんと永遠に生き、残る霊・魂があるという。

 どうしてこのように、まったくあわない組み合わせとなったのか?それが疑問であった。しかし今はわかる。

 肉体のいのちは、滅ばない霊的ないのちのために存在しているのだ。なぜなら霊的ないのちの行く先には二つあって、天国(神の国)と地獄(ゲヘナ・火の池)が存在している。そのどちらに行くかを選択させるために、限りある肉体のいのちが存在しているのである。


 つぎのような聖書の言葉がある。

 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします(マタイ10:39)

 この意味は、自分の生きたいように生き、つまり自分のためにいのちを使った者は、寿命が来て死んだ際は、永遠のいのち(霊)を失い地獄に行く。しかし、キリストのために自分の血肉のからだを捧げて死んだ者は、神の国に行くことができるということだ。

 ここでの「いのちを失う」とは、二つのパターンがある。一つには文字通り、キリシタンの迫害時のように、「踏み絵」を踏まず、殉教した者。二つ目には、殺されはしなかったものの、平時でも神に己を捧げ、自分が死んでいる者。これも生きていてもすでに立派な死者である。これらが神の国へ行く鍵である。

 つまり血肉のいのちがある時にだけ、その大切なたった一つしか無いからだのいのちを、自分のためでは無く、キリストのために、その霊的いのちのために用いる(犠牲の捧げ物のように)テストとして、寿命のある血肉のからだがある理由なのである。このテストは自分の力では心もとない。この信仰の勝利を得られるよう、普段から(高木清右衛門のように)神に祈って求め続けよう。  ケパ

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ことばを聞く

2014年06月09日 | 

Photo  最近、思い出したように観た25年前の映画で「フィールド・オブ・ドリームス」がある。これまで観ていなかったので、放送を録画しておいたのだ。映画では幻聴のような"If you build it, he will come."=「それを作れば、彼が来る」の声が主人公に幾度も聞こえ、ついに彼はその声に従って自分のトウモロコシ畑に野球場を作った。しばらくは何もなかったが、やがて不祥事で球界を追放された伝説の大リーガーたち・・・・とっくに故人となっているはず・・・・がやってくるというファンタジーなストーリーだ。

 

 主人公に語る声は人々を動かし、遂には父との確執で生じた心の傷をいやすというオチがついている。しかし私はこの映画、人を「声」で動かすということに、結果はいかにもハッピーのように飾られていても、非常に悪霊的な感覚を持った。このようなことがまったく分からない人、関心がない人にはここでブログを読むのを止めてもらった方が良いかも知れないが、「声」には3種類ある。神が語る声、人が自分の思いを語られたと錯覚する場合、そしてサタン(悪霊)が語る声である。
 当然のことだが、真にイエス・キリストの神を信じない人には、ほとんどの場合、神は語られないし聞こえないので、聞いているのは自分の思いかサタンの声である。悪霊には悪霊の力がある。主人公が"If you build it, he will come."の声に従って行けば、不思議が展開して行くのは驚くべきことではない。しかしはじめこそ人を喜ばせ有頂天にさせるが、悪霊の結果は常に破壊的である。映画のラストシーンは、主人公たちの経済的な破綻を救うべく、20ドル払ってでもトウモロコシ畑の幽霊たちの試合を見に来ようとする車列のシーンである。特定の人にしか見えない、つまり見えはしない幽霊たちのゲームを、観る施設もないところに大勢押しかける、つまりあり得ない偽りのシーンで終わっている。偽り、これが真実である。


 「声」が神からなのかサタンからなのか、これが決定的なポイントだ。ホンモノのお札にいつもさわっている銀行員は、偽物が瞬時にわかると聞いている。「声」の見分けは、ホンモノを知らなければ見分けることが出来ない。つまりクリスチャンであっても、神の声を聞いたことのないクリスチャンにはわからない。見分けられないのであれば、大やけどをする可能性が高く、決して立ち入らない方が賢明だ。ノンクリスチャンでもこの映画を、(冷静に判断するなら)超非現実的な話で「オカルト」と評した人がいるが、正しいと思う。

 

 時折り私に、「牧師、あなたのように『神の声』を私も聞きたい」とその方法を質問されるPhoto_2ことがある。(注:誤解しないでいただきたいが、私は神の前に罪深い人間である。ただ心から自分を悔い改めた時、声を聞いた。その声は神の愛に満ち、私の人生を根底から一新し、献身者へと導いた)・・・・そのように聞かれた時、私は自らの体験と現在とを思い出しながら、神の声を聞く数年前から、どんなに自分が聖霊なる神を、その(聖霊の)バプテスマを求め続けていたかと思い出す。洗礼を受けて30年以上、熱心にクリスチャン生活を送っていても、神を実際には知っていず体験もしていなかった時代を。
 聖書からもはっきり言えることは、たとえクリスチャンであっても、神の声を聞く・・・・は神の主権に属することであり、神に決定権がある。人はただ、求め祈ることができるだけである。
もう一つ付け加えるならば、「もし聞いたならば、その言葉に全財産、全人生を投げ出してでもすぐさま従う」というレディネスが出来ている人に語られるだろうと言うことだ。神の言葉は、それを聞き従う人に語られるのであって、空しく地に落ちることはないからだ。

 「神の声を聞きたい」ともし言われるのであれば(実はクリスチャンは鹿が谷川を慕いあえぐように、それを求めている)、神の愛とあわれみによって、肉の思いを捨てさせられる為の相当な試練や困難が通されるはずです。聞けないのはそれがまだ完成していないと思われる。忍耐し、祈り続けてください。あせってサタンや自分の思いを神の声と聞き違えないように。私はずいぶん間違えました。確かに神の声は金よりもすばらしく、たましいを永遠に導き、世の何ものにも優ってすばらしいものだから。   ケパ

 
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