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ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

神は男性・女性のどっち?

2017年10月16日 | 
映画「アメイジングジャーニー・神の小屋より」では、イエス・キリスト役はユダヤ人の俳優であったが、なんと神さま役はオクタヴィア・スペンサーという黒人のオスカー賞をとった女優だった(写真はオクタヴィア)。これは主人公マックが少年時代に父親から受けた深刻な心の傷、トラウマがあるゆえの設定だったようだ。どうも父親につまずいている人には、神様は母親ライクな方が取っつきやすいようだ。

このことは逆に場合にも言える。私の育った家庭では、ドルカスも同じらしいが、父親が慕われていた。こういう場合、神様のことを「父なる神」と呼んでも何の違和感も抵抗もなく、すなおに即「お父様」と告白することができる。肉の父親との良好な関係が、天の父への踏み台のような働きをしてくれて益になっているのである。

さらに考えを進めれば、カトリックの場合は「聖母マリヤ」という存在があることで、父親に傷ついた人たちを救っている面があるのかも・・・・と思う。ただしもちろんマリヤは人間であって罪があり、その昇天も聖書にはない。まして神と人との間の仲介者ではあり得ないのだが。この身勝手な推量から行けば、失礼ながらカトリック信者の多い国では、だらしないお父さんが多かったのかも知れない。

実際のところ、神さまは男性でも女性でもない。私たちが今の血肉の体を失って次に与えられる御霊のからだは、男女どちらでもない。朽ちる体なら生殖が必要だろうが、朽ちないからだにとっては、もはやそのようなものは不要である。その点から言えば、性は生けるものの不完全さを現すものである。また、子をもうけられる男女一対を合わせて一人と言えるので、これを離してはならないという神の定めは当然である。

だから先にあげた「神の小屋」のように、黒人女性だろうが老人男性であろうが、神は実際の所、その人にとってもっとも都合の良い性で構わない。「ユダヤ人にはユダヤ人のように〜(中略)〜弱い人々には弱い者になりました」(1コリ9:19-23)と使徒パウロがで言っていることと同じだと思われる。大事なのは天地万物の創造主にして、愛そのものの存在である神様を知ることなのだ。

※聖書でイエス・キリストは「復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです(マタイ22章30節)」と語られている。


ケパ

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神の愛〜そのかたち

2017年09月12日 | 
今日、高円寺の歯科医院に行った帰りしな、日比谷のスバル座で映画「アメージングジャーニィ〜神の小屋」を観た。
平日の昼下がり、観客は少ないのでみんな思い思いの席に座り放題だ。こんな閑散とした入りでは、きっと早めに打ち切られるかも知れない予感がする。だから券を持っている方、観たい方は少しスケジュールを早くされた方が良いかも知れない。

ところでこの映画は、どのように判断しようと、今後のクリスチャンの話題に必ず上る必見作品だと思う。それをDVDで観るより、今大スクリーンで観れるのだから、ぜひ鑑賞して欲しいと思う。
もちろん三位一体とか、実際に人となって世に来られたイエス様は別として、これまでタブー視されてきた神・聖霊を俳優が演じること・・・それははたして偶像崇拝につながるのか、私なりに聖書的見地での問題意識を持って観た。

私が今回一番心引かれたのは、映画のテーマである「裁かない」「許す」と言うことだけではない。愛することは「交わる」ということだ。愛していると言いながら、一緒に時を過ごそうとしなかったり、たーくさんの会話のキャッチボールを、めんどくさがったりすることは、決して有り得ないことだ。

愛の極地はキリストの十字架である。それは何と、神が私たちと交わるためのものだった、その愛を信じ受け取りなさい、と。十字架で人間の罪を赦し、聖霊様を内住させる=いつもいつも神さまと私たち人間とが交われるためであった。

神の究極の愛の具体化、それは十字架を通しての聖霊の内住なのだ。この交わりは、神・聖霊がはるか天の方から神々しく人に語ったりしたのでは表せない。その意味で俳優が演じることは理解できる。そう、この映画の真価は、日々喜びの中で、聖霊様との交わりに生きているのかどうか。善悪の裁きの座に自分が座り、どんな罪人をも愛する神を裁いているのか、で異なってくるだろう。

もう一度、ぜひ上映期間中に観に行かれることをお薦めする。




ケパ





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神の愛

2017年08月17日 | 
ルカによる福音書に放蕩息子の話がある。
かいつまんで言えば、資産家に二人の息子がいて、弟息子が財産の生前贈与を要求し、父はそれが放蕩に使われることを承知しながらかなえてやる。その結果、異国で身を持ち崩した弟息子は、とうとう豚小屋で豚の餌さえ食べようと思うまで落ちぶれる。豚はユダヤ人にとって禁忌の汚れたものである。つまり彼のすべてのプライドははぎ取られ、餓え死に寸前になって、はじめて弟息子は覚醒する。
「立って、父のところに行って、こう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』

この弟息子が我が家をめざして、近づいて来たのを最初に見つけたのは、使用人でもなく常に心配し続けていた父であった。父は駆け寄って豚同様の臭気ふんぷんの弟息子を抱き、口づけする。そしてこれまでついぞなかったような大宴会を催す。父はそれまでの形だけの息子から、真に生きた息子をとうとう手に入れたのだから、狂ったように歓ぶのは当然なのだ。

この話では、ほとんどが弟息子か兄息子の立場で悔い改めと神の愛を説かれる。しかし私は今回、兄弟のどちらでもない、父の立場で考えてみたらと思わされた。
弟息子の生前贈与の要求は、如何に兄に対する反発があったとしても、父にしてみればこれまでの親子関係の否定であり、断絶、造反である。それをどんなに思い留まらせようとしても、結果はさらに悪くなるだけであると父は苦悩した。

そこであえて弟息子の要求を全面的に飲む、この父のつらさはたとえようもないものに違いない。そして去って行った弟息子を、毎日毎日、地境の果てで待ち受けるのが父の日課となったのだ。「この親不孝者め、野垂れ死のうが思い知れ。いい気味だ・・・」なんてではなく、本当にあわれなほど、毎日地境まで出かけては日がな待ち続ける父の姿、これが私たち人間を造られた神の姿だと、イエス様は教えてくれている。神との関係を絶って、自分一人で生きているつもりの者は皆、この弟息子である。

人を愛する神は、ついには独り子イエス・キリストさえも十字架に架けて、罪の赦し、救いの道を開かれた。この神に私たちは愛されているのだ。あなたはどうしてこの愛を受け入れない?



ケパ





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殉教の舞台裏

2017年08月02日 | 
遠藤周作の小説がテーマの映画「沈黙〜Silence」のDVDが出るようだ。殉教をテーマにしただけに、いろいろな見方があって、キリスト教界においてその評価が未だ確定しない。私自身は高一の時読んだこの原作のせいで、入信が五年近く遅れたと思っている。しかしそれは必要な回り道であって、すごく神に感謝した。

この、「回り道」というのはすごく大切だ。例えば今のドルカスとの結婚も、もし回り道をしていなかったら、「あなたは全く私のタイプでなく、絶対に結婚していない」と断言できる。これはドルカスからも同じ事を言われてしまった。しかし回り道をしていたため、最初とまったく逆に、ほとんど知らない相手にもかかわらず、ただ神の導きの確認だけを求めて祈り、御心と結婚したのだった。
その結果は‥‥‥「神様、最高の恵です。あなたは私自身よりも私のことをご存知でした」と心から神をほめたたえ感謝した。


話を映画「沈黙ーSilence」に戻すが、長崎に潜入した若き司祭、 ロドリゴは捕縛されて長崎奉行所の井上筑後守の沙汰を待つ身となった。二十六聖人のように、キリシタンは死を恐れず、むしろ喜んで殉教し、その結果ますますクリスチャンが増えた。だから、この後期になると、殉教させることよりも転ばすことの方が最優先事項となった。どうやって転ばすか? そこに井上筑後の守のサタン的な恐ろしい知恵が働く。

ロドリゴに同じ囚われのキリシタン一団を司牧させ、深い関わりを養わせるのである。こうして情を湧かせ、慈しみ合わせておいて、ロドリゴに「お前が転ばぬから、すでに転んだあの者たちも穴吊り刑なのだ。転べ、転んであの者たちの命を助けよ」と。愛する信徒たちが、自分が転ばぬために次々と拷問によって苦しみ死んでいく‥‥‥
なんという卑劣で残酷な刑罰なのであろうが。


それで私は思う。こういうケースでなら、自分に死んで転ぶことにより、信徒を救うための転びもありではないか?と。もちろん、司祭の信仰は揺るぎなく、世の権力をもってしても個人の心の中に存在し続けているのだ。それが映画の最後のシーン、火葬におけるシーンだ。

今、群れでは「永遠のいのち」〜殉教が語られている。大切なことは殉教とは、人間の力で選べるものではないこと。神によって選ばれ、神が力を与え、天に召してくださったという視点である。

また別な視点で言えば、神への愛の一つの形である。洗礼を受けて父として神と交わり、その人格的な交わりの中で、揺るぎない神への愛が築かれた結果なのだ。

昔、子供時代、けんかは泣いた方が負けであった。子供だってけんかはしない方がいいに決まっている。しかしどうしても大けんかをしなければならないことがあった。それは自分の母の悪行を相手から言い始めたら、であった。「やーい、やーい、お前の母ちゃん出べそ」と言われた殴りかかかって行った。「それだけは言っちゃいけないよ」の不可侵のラインを破った相手がどんなに強くても、引き退るわけにはいかない。愛する親の名誉をかけて戦うのだ。


殉教もこれとよく似た流れなのかも知れない。始めただけのことだが、神を愛する者には、なんでもできるのだ。



ケパ





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愛とは何か?

2017年07月31日 | 
三年前母を送ったが、私と母とはなかなか通じあえない間柄だった。母は大正十年生まれで、男三、女四の七人兄弟姉妹の長女だった。だから子育ては、下の六人の弟妹の面倒を見るような鷹揚さがあった。
ところが私と言えば甘えん坊で、下校時の雨降りに、一度たりとも傘を持って来たことが無い母を、懲りずに一人待ち続ける子だった。(※この当時、教室に置き傘を置く配慮がなく、雨降りには保護者が持って来ることになっていた)

結局物心ついてからは、母から自分のストレスをぶつけられたり世間体優先の仕打ちはあっても、その愛を感じられることがなく育った。だから中学生になって広島の私学の寄宿舎の寮に入ることになっても、私は全然ホームシックにならなかった。大学生になってから、母が十二歳の別れで不憫がり、それで泣くことがあったと聞いて、非常に奇異に感じたものだ。

もうその頃には、(拙かったが)母は母なりの愛し方があったようだと理解した。けれどもたとえ親子と言えども、全く異なる人間で、とても通じあえる相手ではなかったこともひしひしと感じた。愛は通じあわなければ、それは悲しみである。愛なくば人としての土台を欠くに等しかった。

私が中一の時、寄宿舎の一室で読んだジッドの「狭き門」の三位一体の神に惹かれたのは、神が人格を持って人と交わる神であるという点だった。創世記において神はエデンの園を毎日訪れ、罪を犯す前のアダムやエバと交わられた。このアダムたちのために神は天地万物を創造されたのである。人への神の愛は尋常ではなく、先に造られた美の極みの大天使ルシファーは、おそらくは嫉妬のあまり神に背きサタンと化したと思える。

クリスチャンになって三十年以上も経って、大きな試練の中から私ははじめて、神の愛を知った。このお方は実に遠慮深いお方で、サタンのように、人をその意思に反して支配されようとはされない。実に粘り強くご自分を真に求めるまで待っておられた。それは神が愛の極みであるからだ。そしてなんと人の内に住んでくださる。これほどの交わりの極致はないのではなかろうか。
私は思う、神は人を愛せずにはおられない存在なのだ。愛は愛する対象を得て愛となる。対象がもしなかったなら、愛はない。しばしば神は人を「子」と呼ばれ、ご自分を「父」と呼ぶように言われる。血肉の世にあってはしもべとしての従いがあるが、それだって子が父に聞き従うのと同じで、当然だ。間違ってはいけない。神は私たちを、キリストをくださるほどに愛してくださっているのだ。神の子には一つの共通点がある。それは、神を愛していることだ。偽クリスチャンは「愛」でわかる。

愛とは何だろうか? 母は自分なりの愛し方で息子を愛した。しかしそれは全く通じあえないものだった。求めていた私には、それはつらく、悲しかった。愛は相手と交わりを求める。通じあえることを求めるものなのだ。
だから人間同士、例えば夫婦であれば寝室を別にしたり、一緒にいる時間を大切にできない夫婦に、本当の愛があるとは思えない(私はそれを経験している)。人は相手の内に住めないまでも、愛は互いの交わりを求めるものだから。

神は愛する子を世に送り、人の罪の身代わりとして十字架で購わさせられた。ここに神の愛がある。この神の愛と十字架で人は罪を赦され、アダムたちによって遮断された聖なる神と交わりが回復された。愛は愛する相手のために自分を捧げる。愛は忍耐して待ち、でしゃばらない。決して相手を支配しない。それどころか仕えようとする。互いが交わることを切望し、その心の中に住まおうとする。愛は相手と一つになりたいのだ。
この世、物質のこの見える世界は絶えず変化し、私たちの肉体は衰えやがて滅ぶ。しかし神への愛は永遠であり、決して失われたり奪われたりはしない。私は神の愛が分かって、交わって、知れば知るほど心からこのお方を愛するようになった。愛し愛されることがどれほど喜びであることか。この、永遠の神の愛を、私はあなたに伝えたい。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)



ケパ



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人は本来、愛されるために造られた

2017年07月19日 | 
「神の小屋(The SHACK )」という実話を小説化した本を読んでいて,平易な譬えの中にハッと気づかさせられたことがあった。

この話の中、主人公マックがパパと呼ぶ神様と会話するシーンでのこと。神は飛んできたカケスに、エサを手の平でついばませながらこう言う。※()内は私の注釈。
「たいていの鳥は飛ぶために造られている。この子たちにとって、(餌をついばむために)地面に降りている時間は、飛ぶ能力のある生き物としては制約を受けている時間であって、その逆じゃない」(写真はカケス)

それから主人公マックに、次のように言う。
「そしてあんたは、愛されるために造られた。あんたがもし、愛されていないかのように生きるなら、それは制約を受けている状態なのであって、その逆じゃないんだよ(つまり本来のあるべき姿ではないんだよ)」
続けて、
「愛されずに生きるということは、鳥から翼を切り取って飛べなくするようなもんでね、あんたにそんな風に生きてほしくないんだよ」

この作品の特徴は非常にきわどく、平易なことばで神様が語ることだ。実際、冒涜に感じる人も多いようだ。しかしこの平易なたとえは素晴らしいと私は思う。神の本質は「愛」だと聖書ははっきり説いている・・・・(1ヨハネ4:16、詩篇5:12)。

その神によって造られた人は、神に愛されるために造られたのだ。それはクリスチャンなら当然な理解であるが、上にあげたたとえは胸に迫るというか、たとえようもなく「そうだ、そうなんだ!」と私を引き上げて行く。
全世界にたった一人でも、心から自分を愛してくれる存在がいたら・・・・どんなにか生きる力が湧いてくることだろうか。人間世界の出来不出来などは、神にとってはまるで関係ない。人間は神の作品なのだから、本当の価値は神だけが知っている。その神が
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ43:4)」
と宣言し、続けてまた、
「恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ(同5)」
とイスラエル(=クリスチャン)に語っているのだ。神を真に信じ従う者は、神を心から愛している。愛すればこそ、よろこんで自分を捧げるのだ。従いなさい、捧げなさいと求められているから献身したり、殉教するのではない。自分の命よりも神を愛しているからなのだ。神がまず自分の命を十字架で捧げて愛してくださったから。

神の愛を受け入れてない人は、人間としての正しいあり方をしていない不自然な状態なのだ・・・・それは飛ぶために造られている鳥が飛んでいないような・・・・そんな不自然な状態なのにそれに気づかない。これが人間の不幸と言わずしてなんと言おう!



ケパ






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バースコントロール

2017年05月24日 | 
我が家のメダカちゃんは、2月20日にお店で買った実質8匹から始まった。帰宅するとすぐさまエアー付きの小さな水槽を買って、大切に飼うことにした。4月になると産卵がはじまり、卵は別な水槽に隔離し、手厚く保護したので、みな子メダカとなって元気に成長していく。しかし驚いたのは何度でも産卵することで、子メダカの数は、一気に親メダカの数の何倍にも達することになった。

こうなると水槽のキャパシティというか、家中水槽だらけにするわけにもいかず、かといってメダカたちはまだまだ産卵する。それで心当たりにメダカの貰い手探しをしてみたのだが、ほとんどアウトの現在は、途方に暮れている。

私は命の不思議さを改めて感じている。環境を整えてやることはできるが、バースコントロールが基本的に人間にはできないのだ。卵を隔離しないでそのままにすることで自然?淘汰も考えられるが、意図的にはそれがなかなかできない。
するとどんな小さな命でも、命は神のものだと思うようになった。小さなメダカですらこうだから、まして人の命は、どれほど大切な神からのものだろうか。

ケパ




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イエス・キリストの系図

2017年05月19日 | 
昨日から聖書日課は再びはじめに戻って、マタイによる福音書一章からスタートした。聖書を読み始めてから五十年という月日が経ったが、新約聖書の始まり、この単調な系図としか思えなかったものが、いつの間にかものすごいことだと思い始めていた。神と人との関係が、イスラエルの歴史、この系図を通して見事に表されている。人はどのように罪深いものか、神はどのような方であって、その恵み、あわれみはいかに深いかと言うことである。

先ずこのイエス・キリストの系図、特異点というか、すごい事が簡潔に記されている。その特にBig2である。
その一〜今日のイスラエルとは、かつて栄え、やがて歴史の彼方に滅び沈んでいった国が、約二千年を経て再建されたという歴史上の未曾有の国である。この国のユダヤ人とはヤコブの十二人の息子の四番目、ユダとその子孫の事である。しかし驚く事なかれ、このユダさん、「ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ」とある。このユダの子孫に、わざわざ女性の名が記されているが、タマルは妻に非ず、息子たちの嫁である。ええーっ、それって❗
詳しくは聖書の創世記38章にあるが、事実は小説よりも奇なりを、地で行った驚くような話である。3番目の息子を惜しむ義父に、それならばと命を賭けての実力行使を嫁がしたのである。娼婦だと思っていたユダは、実はそれが嫁であり、その胎の子が自分の子であることを衆目の前で〈赤っ恥〉ながら認めるしかなかった。もしユダが認めてくれなかったら、タマルは姦淫罪で殺されなければならない。それを簡潔に「ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ」と言い表しているのだ。これはユダヤ人の祖ながら、何の改ざんもせず、赤っ恥は赤っ恥として、聖書のいの一番の系図に載せているのである。
鮮やかな嫁タマルの勝利🏆、タマルは先の夫であったユダの長男と次男の死が、自分とは一切関わりないこと、それなのに約束を果たさぬ義父の子を身ごもったのは、神に祈り、神が導いたしか言いようのないほどの鮮やかな逆転勝ちである。これはイエス・キリストの十字架がサタンの勝利から一転、神の勝利になったようなもので、神様お得意の筋書きではないだろうか。
結果から類推するに、ユダの前妻は神の前に正しくなく、その家系を断ち、ユダへの既定の祝福を、試されはしたが、タマルの信仰から始めるという方向転換をされた・・・と私はみる。(タマルとは知らないで、道端の女を買うユダ)

次にダビデである。この人物こそイスラエルの最大の誇りである。イスラエル最大の版図を実現し、現在の国旗(最下図)もダビデの星。しかし・・・「ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ」とある。これはどういうことか?実はダビデは、ユダ以上に恥さらし者である。ユダは三男の息子を失いたくない人間的な息子可愛さに誤ったが、ダビデは部下の妻を肉欲で寝取り、妊娠すると、都合が悪くなった忠実な武将である夫のウリヤを激戦地に送って殺してしまった。このことは第2サムエル11章に詳しい。
アジアの王なら、何をしようとお咎め無しだろうが、ダビデは神のしもべである。神の目にこれが許されるはずもない。神は預言者ナタンを送って(ナタンにとって王を叱責するのは命がけである)きつい叱責を与えた。すると王はただ神の前に悔い改め、伏して許しを請うのだった。(ダビデ王に神の言葉を伝えるナタン)

彼らは結局どうなったか? 神が求められるのは、裁くことでなく、己が罪を真摯に悔い改める心である。結局、恥を晒された誇り高き両名は悔い改め、神に赦され、却って祝福された。タマルの産んだ子は今日に至る栄えあるユダ族の祖先の一人となり、ウリヤの妻バテ・ジェバはソロモンというイスラエル全盛期の王母となった。お咎めどころか、かえって祝福されているのだ。

どこかの国は、権力者にとって不都合な歴史はすべて書き換え、体裁を整えようとする。真実と歴史に対する厚顔無恥の報いは、どれほど裁かれることだろうか。しかし民族の英雄でさえも、肉欲には勝てないで罪を犯し、その破廉恥さを余すところ無く語るイスラエルの民と聖書、そのはじまりのページの系図は、同時に余すところなく神のご性質を一民族の歴史を通して描き、証明している動かぬ証拠である。決して変わらぬこの神の愛の前に私たちは悔い改め、その恵みを受けよう。

それではまた次回に。



ケパ





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あなたの将来は、それで大丈夫?

2017年02月04日 | 
今日はドルカスの親族と船橋アンデルセン公園に行った。ここは日本最大規模の公営アミューズメントパークで、すでに200万人以上の来園者があるように人気が高い。そして素晴らしいことに、高齢者の入場料は無料だった。ということは、私はただだったのである。(写真は公園の中にある、アンデルセンの生家近く、デンマークのフュン島の農家を前にして)
高齢者になってから、電車のシルバーシートに座っても、以前の居心地の悪さが減った。年金も満額出るし、以前入っていたJRの大人の休日クラブも三割引の正会員だ。(後ろは本物の風車)

しかしそんなことで喜んではいられない。私とドルカスのそれぞれの親は、かつての義理と実の親、併せて計八人ともすべて他界している。気がつけば私たちはすでに幼稚園か小学生ぐらいの孫がいるはずの年代である。そう、人生も折り返し点をとうに過ぎ、体も相当がたが来ているのを、嫌でも気づかさせられている。何が言いたいか?
「次は私たちが行く番である」ことだ。

二十歳前、学生運動をしていた時、「死後」のことなど考えもしなかった。共産系だったので、当然唯物論で、「死んだらおわり」と、ちょっと引っかかるが、そう思うことにしていた。そう見れば、葬式や法事、墓参りや神社仏閣にいくことなど、なんて大人は無意味な愚行を、あんなにせっせとやってるんだろうと思えた。

見えることしか信じな人々には、霊、魂は見えず、そのため存在することすらわからないようだ。しかし見えるものは必ず朽ち、滅びる。私たちのこの血肉の体は、必ず数年か数十年後には必ず土に還るのだ。逆に見えないものこそ、滅ばず、永遠に生きるものだ。
電気や電波は通常は見えないが、その働きで確かに存在することがわかる。しかし昔は存在すらわからなかった。霊、魂の世界は、電波などよりずっと昔から、人間はその存在を知っていた。

問題は生きている間に、死後のどの世界を選ぶか、である。つまり仏教を信じて死ねば「極楽」とか「浄土」に行けるらしい。しかしてそこはキリスト教のいう「天国(正しくは神の国)」ではない。いったいどっちが正しいのだろうか? なにしろ生きている間の選択なので、ワン・チャンス、つまり一回こっきりで自分の永遠の世界への行き先が決まってしまうことである。
極楽に行けると思ってハッと気がついて辺りを見回してみると、ものすごい人の焼ける臭い匂いと、薄暗く、燃える火が迫っていて・・・「ああ、しまった!」なんてことは冗談では済まない。

さて例えば、身近で死んだ人間が生き返ったして、自分の行ってきて、見てきたことを証言してくれたとすれば、それは信じがたいことだが、かなり心動かされることだろう。不思議なことに、キリスト教ではそれが臨死体験的に起こり、 実証されている。それも怪しげな国でなく、最近のアメリカで映画になっている「天国からの奇跡」や「天国はほんとうにある」などである。それらによると、死後の世界はクリスチャンにとっては、確かにあって、神が光となって中心におられ、花と喜びに溢れている神の国である。

このような死後の実体験の話は、キリスト教以外の他宗教からは、私は聞いたことがない。また非常に重要なことに、クリスチャンは神の国への証印として、聖霊の満たしを受ける。つまり生きながらにして、天国行きの確証を神から得るということがある。神の霊が己の内に住まうからである。彼らはこの世に生きてはいるが、もはやキリストのものであり、自分の欲や考えで生きているのではなく、神の御心を行うことが1番だと思っている。クリスチャンでなかったら狂信的に見えるだろうが、もともとクリスチャンとは、キリスト狂いという揶揄した意味だったし、まさに2000年たってもまったく変わらないのだ。

私は牧師だからして、キリスト教をお勧めするのは当然だとしても、その確かな理由がある。先ほどの①証人のこと。②世界最大の宗教ーキリスト教徒は全世界に22億人以上いる。つまり全人類の三人に一人はクリスチャンばである。日本だけが異様に少ないのだ。③世界最古の宗教ーキリスト教はユダヤ教をも母体としており、四千年の歴史がある世界最古の宗教である。④グローバルな地球人の宗教ーインドではヒンズー教、中国では道教や儒教など特定の民族や地方色があるが、キリスト教は地球を一周している、全人類のための宗教である。とりわけ英米、仏独伊など日本以外の先進国が軒並みそうである。アジアでもフィリピンや韓国などもキリスト教だと言える。⑤唯一の絶対規範を所有ー世界最古にして、神の言葉である聖書がキリスト教の唯一の土台である。明確でぶれない教え、そこに時代を超えた真理がある。

<あなたへ>
クリスチャンは死を恐れません。なぜなら天国(神の国)こそ故郷であり、この世はその永遠に比べれば、ホンの一瞬でしかないからです。多くの日本人はこの必ず来る死から逃げています。縁起が悪いとか言って、行き先が怖い所であることを予期して、話題を避けます。イエス・キリストを信じなかったら、罪が消えず、考えたくもない怖い所へ行かざるを得ません。
ところがクリスチャンはみんな笑顔で死んでいます。喜びの天国へ向けて、この世から凱旋して帰って生きます。しかも天国では新しい御霊の体を着ます。十字架と復活。あなたもこの福音信じて、天国で再会しませんか。どうか今の、血肉の命ある間に、ご自分の永遠の命をお救いください。


ケパ




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勝利の法則

2016年12月26日 | 
今日、牧師休日の日、テニスをいつもの仲間と楽しんだ。楽しむ、と言っても、ルールある戦いである。いささかも気をぬけない相手と、激しくポイントを争う真剣勝負をすることが「楽しむ」という意味である。

こうした勝敗を争う場合、勝つための法則というものがある。第1に、「自分は勝てる、強い」という自信を保つことである。保つ、ということは、たとえどんなに劣勢になったとしても、最後の1ポイントを奪われるまでは決して諦めない、ということである。これまでの半世紀近いテニス人生の中で、諦めなかったゆえの大逆転を本当に数多く経験してきた。真の意味での勝敗は、どちらかが勝負を諦めた時に決着している。

第二に、どんな世界においても、自分より強い者が必ずいるものである。だから永遠に勝ち続けるなんてことは、できるはずがない。アマチュアの場合、相手があるようでいて真の相手は自分である。だから結果を恐れず、攻め続けられたかどうかである。それができたなら、たとえ負けても大いに自分を褒めたやりたい。このことはチームプレーも同様であって、たとえ仲間がどんなミスをしようと、それを励まし、支え合ってこそ積極的なプレーが可能になり、その先に勝利が見えてくるのだ。

これは人生についてもまったく同じことが言える。しかし数十分、長くて1時間前後なら何とかなっても、長い人生となるとそうはいかない。入試、就職、仕事、結婚、子育て‥‥‥これら全てに成功し、勝ち続けるなんてことはあり得ない。そして、勝っていた者ほどその挫折と落ち込みはひどいものになる。人は神ではない。むしろ挫折するのが人間だとも言える。

そうであるなら、人はまたどうやって立ち上がることができるのだろうか。親兄弟や伴侶からの支えがあるかもしれないが、外部の力は限定的であって、立ち直りの力はやはり本人自身の力に拠るしかない。傷が癒され、かつてとは違う力でもって再び積極的、前向きな思考に立つことである。

ここで信仰の話を持ち出すと腰を引く方が多いのは承知している。だが、是非聞いていただきたい。イエス・キリストは神であるのに、処女から人となってこの世に来られ、王の中の王なのに、貧しい大工のせがれとして成長された。公生涯に入られてからは、嵐を沈め湖の上を歩かれたりもしたが、貧しい者、虐げられた者、いわゆる弱者にいつも目を注がれ、罪を赦し、病をいやし、真の救いである福音を語り続けられた。民衆に人気が出て、それを妬んでいた権力側の傲慢と偽善にも容赦しなかったため、最後には十字架に架けられた人物である。私たちがたとえどのような挫折感を味わい、傷ついていたとしても、自分の落ち度や責任がまったくなかったとは言えない。しかしこのイエスにはまったく罪が無かっただけでなく、山のような善行が積み上がっていただけである。


このイエス・キリストが言う。
〜私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。〜(第1ヨハネ4:10)

私たちの挫折を救い、立ち直らせることができるのは、再び人生の勝利への道を歩み立たせてくれるのは、自分の心の中で働く、神の愛(だけ)である。ここに書いてあるように、私の失敗や罪をなんと神ご自身が身代わりとなってくださった。それで私の敗北も失敗も取るに足りないものとなり、罪の無い者とされた。その上で、私自身を存在として愛してくださる神の愛によって、以前よりもさらに失敗を恐れず、前向きな者として信仰によって立ち上がらせてくださるのである。
この度はもう二度と失敗も挫折も味わうことがない。永遠の命を与えられた私は、死すら私を恐れることがない。

これは私の人生において実証された、勝利の法則と言える。
ケパ



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