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ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

テニスエルボーが直った

2014年05月21日 | 

 Photo ちょうど一週間前だろうか、壁打ちをしていて嫌な感覚・・・・右ひじに痛みを覚えた。私は44年もテニスを続けているが、40代後半からはテニスひじに悩まされはじめた。これはテニスプレーヤーにもっとも多い故障であるが、まさか自分がその仲間に入るとは思っていなかった。医師のところに行くと、「数ヶ月テニスをしなければ直ります」なんて気楽に言われてしまうが、そんなことができるわけがない。そこで画像のような、ひじの動きを束縛して制限するようなバンドを巻いてプレーすることになる。これをすると痛みが軽減するし、かなり時間が経ってからだが、外せる時が来る。
 現在のラケットは、三代目だが、テニスひじ対策(衝撃がひじに来ないように工夫された)のラケットである。

 さて一週間前に発症し、翌々日のテニスではっきりと、またもテニスエルボーが始まったのを確認した。ショックだった。その痛みは、その日よりも数日おいた日曜日夜にひどく出て、何度か痛みで目が覚めるほどであった。この日、痛みに眠りから起こされる都度、「全ては御心のままに。しかし御心でしたらいやしてください、あわれんでください」と祈っていた。

 この日早朝からテニスがあった。バンドをしていたが、プレー中まったく痛みがなかった。そしてその夜、私は治療に普通数ヶ月はかかるテニスひじが、祈ったその日の内にまったく痛みがなくなっていた、祈りの結果、答えられていやされていたことを確信した。 主をほめよ!ケパ
 

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今日この時間

2013年10月15日 | 

キリスト者の娘達に、この時間非常につらいです。真実の神は唯一ですから。
神を信じて救われた母ですが、今日は仏式の葬儀。以前母は父と同じところにいきたいと言いました。ここに嫁に来たんだからこの家の風習にするのが当たり前だと。

神を信じて、悔い改め、救われた父はすでに天にいます。
感謝します。神様。感謝します。
今日は詩篇24篇を何度も何度も心で歌いました。 ドルカス

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すべてに時がある

2013年10月05日 | 

 すでに何度もドルカスがお知らせしたように、実家の庭1に栗の木が数本あって、ちょうど時期らしく実が実っていた。はじけ落ちて、実を散らしているもの。同じようにはじけて、今まさに樹上から落ちようとしているもの。木を揺らすと時期が来たためだろう、簡単にドサッドサッとあちこちに落ちていく。
 この時期にこれまで来たことのないドルカスは、思わぬ収穫に大喜びだった。少々トゲが痛かったが、夢中になって集めてみると、ちょっと集めただけでもバケツいっぱいの量である。今度はこのたくさんをどのようにしようか、贅沢な悩みをかかえることになってしまった。

 

 ところで収穫していて気づくのだが、鹿の糞が点々とある。先ほどは、親子連れれらしい鹿が三匹いたと聞いた。鹿は稲の収穫時期に見ることはあったが、この時期に庭先まで来たとは驚きだ。ひょっとして、この豊かな時期にも関わらず、山はあまり食べ物が無いのかもと、少々心配になった。それとも鹿が人里を恐れぬようになったのかも。どちらにしても互いにあまりいいことではない。2

 

 鹿も人も時期にならなければ、この恵みには決してあずかれない。自然界の厳然たるルールには何人も逆らえない。二枚目の写真は実家の近くのダム風景を撮ったものだが、一日の内でこのように反射した湖面を撮れるのは、わずかなタイミングでしかない。自然に従い、時がある。
 私たちは恵みにあずかり従うのみである。それは何事にも時があり、時には逆らえないことをも教えてくれる。人間世界に対して神の為されることも同様であって、神が語られ、為されることにも全て時があり、それが調和がとれて、万事完全であることを思い知らされる。必要なのは神を信じて待ち望む信仰と忍耐である。それが自分中心に世界が回っているかのような高慢な人間には、できないことだけなのだ。秋の恵み、収穫はそのような謙虚さを教えてくれる。   ケパ


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神は生きておられ、祈りを聞いてくださる確信

2013年09月13日 | 

 今日、祈りの答えを即座に体験することができた。これは不思議なこと、そう、小さな奇蹟である。

 

 私は右目に緑内障を持っているらしい。60歳の特別人間ドックでひっかかり、検査の結果わかったので、まだ程度は軽いらしい。それで、眼圧を下げる目薬を毎晩差すことになった。歯もダメ、耳も怪しい。鼻に至っては対症療法頼りの、ほぼあきらめ状態である。記憶力など頭の中身の方は、まだ大丈夫だと思っているが、緑内障・・・・確かに「老い」を実感させられることにはちがいない。しかし私にはキング牧師のように「希望」どころではなく、なんと燃えるような「確信」がある。それは神は生きておられ、これからさらに私を用いてくださるという確信である。なぜ確信だと言えるのか?そろえは今日あった、こんな小さなことにも如実に知れるからなのだ。

 

 さて緑内障を患っている私は二ヶ月に一度ぐらい、定期検査をうけて、目薬を処方してもらわなければならない。それで期限の今日、ドルカスにせかされ、確かにそうだと眼科医に行く。いつもは30人ぐらいの待合室(駅ビルの超ハヤリの医院)が、今日は比較的空いていた。30分でほぼ受診完了。あとは会計だけ、とやれやれと腰を下ろし、_milacleいつになく呼ばれる前に財布を準備しようとすると、一瞬血の気を引く事態に・・・・・。財布を忘れていたのだ。

 

 「さあ困った、どうしよう」と考えてとっさに思い出したのは、忘れん坊の自分のために、カバンにとっておきの隠し財源があったこと。小さなビニル袋を取り出して見ると、中には千円札と百円と五十円と十円の合計1160円也があった。「あ~あ、これでは足りない!」と。なにしろ再診料、眼圧の検査料、処方箋代で千円少々なりでは、あまりにも心許ない。というか、これでは絶対足りない!と思った。
 そこで食い逃げならぬ、「すみませぬ(>_<)病院代を後払いにm(_ _)m」と懇願する不様さを回避すべく、ドルカスにヘルプメールを出した。すると「まだ化粧をしていない」とかナンとか・・・・消防車かパトカー並の、迫る会計時間直前の、緊急事態にそぐわぬ、いかんともしがたい状況がゆるされた。
 こうなったら、後は一つしか無い。神様に祈ることだけだ。「神様、どうか助けて下さい。会計で今持っているお金でOKになりますように!どうか助けて下さい。会計係に働きかけて、1160円以内に収めて下さい。お願いします」と真剣に祈った。祈ってすぐに、「〇〇〇〇さん」と会計の呼び出しがあった。前に足を踏み出す私の心はもう、「申し訳ありません」のペコペコ謝りのイメージトレーニング状態である。


 しかし神は生きておられる。会計の金額は1150円!10円を残して足りる。「払える!」のだ。写真の通りの小さなビニル袋から、私がコインを一つ一つ取り出すのを、会計係は「この人、大丈夫?」とばかり目を皿のようにして見ている。しかしお金はちゃんとあったのだ。それも最小のコイン10円玉1枚だけを残して。「神は生きておられ、しもべのこんな祈りにも答えて下さった」のだ。

 これは小さな、本当に笑われるような小さなことかも知れない。しかし私には神が生きておられ、しもべを見捨てられない出来事と分かった。してみると神は、神が語られたことは必ず成就する確信が与えられた。小さくても大きな一歩。神に感謝します。

 ※写真は後で再現した撮影で、100円玉が10円玉に間違って撮影されてます・・・・・ケパ

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オイディプス王

2013年07月31日 | 

 知っておられる向きも多いと思うが、ギリシャ悲劇で「オイディプス王」と言う有名なものがある。

オイディプス王の超簡単ストーリー
 ストーリーを簡単に紹介すると、テーベの父王の性的倒錯による罪が、呪われた結婚となり、生じた子に殺されるという託宣を産んだ。託宣に反して妃とに子をもうけた父王は殺されたくないばかりに、子の殺人を命じて山中に捨てさせる。

 ところが命を助けられた子「オイディプス」は別な国コリントスで王子として成長する。しかし私生児の風評に悩んだオイディプスは、真相を託宣に求める旅の途中で、これも国難の解決のために託宣を求めに、軽装で来たテーベ王と道の争いになり、意に反して実の父を殺してしまう結果となる。

 悲劇はこれだけにとどまらず、テーベの国に来たオイディプスは、スフィンクスのなぞ解きに成功し、国王に迎えられ、死んだ前国王の妃、実母になるのだが、これを妃として迎えてしまうことから、またまた悲劇が始まる・・・・。


因果応報・・・・ではいけない
 とまあ、実に巧妙な悲劇のストーリーなのだ。このお話は多くの人々に共感を呼んでいるようだ。だが私は、まったくとんでもないストーリーだと思う。テーマである人間には「宿命」があり、運命には逆らえないなどとは、決して思えないからなのだ。なぜか?私が神のあわれみにより、真の神、生きて今も働
Rabbitく神を知っているからだ。
 まず第1に、そもそもの原因となる父王の罪が「若い頃、放浪の身を寄せた王家の美少年に
邪恋し、ついにこれをさらって殺してしまった」ものだという。こんな呆れた殺人者、性的倒錯者が仮に居たとしても、その罪をまったく預かり知らない子孫につぐなわせるというのは、とんでもない神々だ。まさに悪魔・サタン的だ。犯した罪のつぐないは、子孫にではなく、本人だけが責めを100%負わなければならないのではないか。


悲劇は大チャンスに
 人を創造した神は、人間の親以上に自分が造った人間を愛された。しかし人間はあまりにも罪深く、つぐなったり、きよくなれない。それで神の子イエス・キリストが自ら降り下って、十字架にかかるという愛によって人間の罪を帳消しにしてくださる。ここに希望があり、人は前向き
に生きることができる。悲劇の原因である罪については、キリスト教的に言うなら、「自分の罪の大きさに気づき、悔い改めて神に立ち返る」大チャンスである。 ケパ

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本当の愛、それは体験した愛

2013年06月24日 | 

Photo_2  ある心理学系の本にこう書いてあった。
「健康で、幸福で、適応性のある大人になるのは、愛を教え込まれた子どもでなく、愛を体験したこどもである。私たちの現在の自信と安定の状態は、私たちが知的に学習したことよりも、経験したことの結果なのである。」

 言い換えると、愛を体験した子どもなら(実はこういう限定を付けるのは本意では無い)、社会に適応する大人になり、我が子に自分が受けたものと同じ(真実の)愛を伝えることができる。

 わたし自身のことを振り返ると、実は「愛を体験した」とは思えない。私の母もそうだったと思う。愛が不毛の家系ではないか?とすら思う。だから先の見方で言えば、私は愛を知らない者である。残念ながら、受け入れたくはないものの、それは真実だろうと自分でも思う。
 信じてもらえないかも知れないが、私は子ども時代、幾回もの自殺志願者だった。満たされぬ愛に飢え、愛を激しく渇望した。よく近くを流れている川でオフィーリア(シェークスピアの悲劇「ハムレット」の恋人・・・上の絵)のようにおぼれ死んでしまえば、母だって少しは痛みを覚えるだろうとさえ思っていたのだ。それで何度も夜の川に入った。死にきれなかったのだが・・・・・。
Rain  今梅雨時であるが、突然雨になった放課後は私にとってつらい時だった。なぜなら小学校の同級生の多くは、傘を持って家族が迎えに来ていたからである。「ただの一度も!」私にはなかった。それでもどうしてかいつもかなり待って、そして最後の一人になる前に雨の中に飛び出すのだった。

 成人前後に、「愛を受けずに育った」という自分について、それは子ども時代特有の思い
過ごしだと思いたくて、母に確かめたことがある。

 一例だが少学2年生の時のこと、帰宅していざ夕飯を摂ろうとすると、急に様子が一変して取り調べがはじまった。それは私が級友の転がってきた10円玉を着服したという容疑だった。身に覚えがないので、とうぜん泣いて体をふるわせて(親ならそれが真実であることが明瞭にわかったはずなので)「盗んでない」と訴えたのに、どうして「先生が言っている、だから嘘でもいいから盗んだと言いなさい」と母は言ったのか?・・・・etc。
 その結果、残念ながら冒頭の名言を裏付けるものであった。母もまた、愛を受けずに育った人なんだと。

 ドルカスを神が私に引き合わせてくださって、しばらくして明瞭にわかったことがある。「この人は愛を体験し、愛の中で育っている」と。「なんて幸せな人なんだ」と思った。どんな財産や家柄があったとしても、愛のある家庭の豊かさに匹敵するものはない。いや、それら地上の目に見える富みがあるがゆえに、見えない愛を失っている家庭が多いのだ。
Photo_3
 しかし、しかし、である。このような「愛」の不足と渇望は私をあるところへ導いた。それは「天地の造り主なる永遠の神、イエス・キリストへ」だった。私は生まれながらに、教えられもしないのに「神は唯一」だと知っていた(と、後年父が私に言った)。仏壇や神棚を拝んで回る父の真似を決してしないどころか、それを注意したらしい。7,8才の息子の言葉に父は絶句したようだ。12才で、ただ本を読んだだけで、キリストが自分の神であることがわかった。それから半径20数キロ以内に教会がないので、いつか教会に行ける日を待ち望むようになった。とうとう高校生になって、バイクに乗るようになって私は、親に内緒で、当時からすでに年寄りばっかりの教会に通うことができるようになった。聖書を読むことや教会の礼拝に行きたがる、変わった少年になった。

 確かに私は愛を得ることなく育った。これはざらにある、ちょっとだけかわいそうな子どもだったかも知れないが、本人には大問題だ。しかし驚くことに、これがすばらしい逆転の祝福となった。親の愛にはるかに優る、自分の命にも優る愛を、なんと天の真の父から注がれ体験したからだった。肉の親から得られなかったのだが。私は今心の底から幸せである。この世の何ものにも代えられないもの、そして誰もこの私から奪うことができない喜びの中に生きている。


 自分は愛を体験していないなどと嘆いてはいけない。大丈夫。あなたは神様からの最高の愛を受ける、すばらしい恵みにあずかれるのです。全世界のキリスト教の歴史が、そのあまた多くの殉教者の命が、それは真実であることを証明しているのです。確かに「神は愛」そのものです。   ケパ


 
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