ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

勝利の法則

2016年12月26日 | 
今日、牧師休日の日、テニスをいつもの仲間と楽しんだ。楽しむ、と言っても、ルールある戦いである。いささかも気をぬけない相手と、激しくポイントを争う真剣勝負をすることが「楽しむ」という意味である。

こうした勝敗を争う場合、勝つための法則というものがある。第1に、「自分は勝てる、強い」という自信を保つことである。保つ、ということは、たとえどんなに劣勢になったとしても、最後の1ポイントを奪われるまでは決して諦めない、ということである。これまでの半世紀近いテニス人生の中で、諦めなかったゆえの大逆転を本当に数多く経験してきた。真の意味での勝敗は、どちらかが勝負を諦めた時に決着している。

第二に、どんな世界においても、自分より強い者が必ずいるものである。だから永遠に勝ち続けるなんてことは、できるはずがない。アマチュアの場合、相手があるようでいて真の相手は自分である。だから結果を恐れず、攻め続けられたかどうかである。それができたなら、たとえ負けても大いに自分を褒めたやりたい。このことはチームプレーも同様であって、たとえ仲間がどんなミスをしようと、それを励まし、支え合ってこそ積極的なプレーが可能になり、その先に勝利が見えてくるのだ。

これは人生についてもまったく同じことが言える。しかし数十分、長くて1時間前後なら何とかなっても、長い人生となるとそうはいかない。入試、就職、仕事、結婚、子育て‥‥‥これら全てに成功し、勝ち続けるなんてことはあり得ない。そして、勝っていた者ほどその挫折と落ち込みはひどいものになる。人は神ではない。むしろ挫折するのが人間だとも言える。

そうであるなら、人はまたどうやって立ち上がることができるのだろうか。親兄弟や伴侶からの支えがあるかもしれないが、外部の力は限定的であって、立ち直りの力はやはり本人自身の力に拠るしかない。傷が癒され、かつてとは違う力でもって再び積極的、前向きな思考に立つことである。

ここで信仰の話を持ち出すと腰を引く方が多いのは承知している。だが、是非聞いていただきたい。イエス・キリストは神であるのに、処女から人となってこの世に来られ、王の中の王なのに、貧しい大工のせがれとして成長された。公生涯に入られてからは、嵐を沈め湖の上を歩かれたりもしたが、貧しい者、虐げられた者、いわゆる弱者にいつも目を注がれ、罪を赦し、病をいやし、真の救いである福音を語り続けられた。民衆に人気が出て、それを妬んでいた権力側の傲慢と偽善にも容赦しなかったため、最後には十字架に架けられた人物である。私たちがたとえどのような挫折感を味わい、傷ついていたとしても、自分の落ち度や責任がまったくなかったとは言えない。しかしこのイエスにはまったく罪が無かっただけでなく、山のような善行が積み上がっていただけである。


このイエス・キリストが言う。
〜私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。〜(第1ヨハネ4:10)

私たちの挫折を救い、立ち直らせることができるのは、再び人生の勝利への道を歩み立たせてくれるのは、自分の心の中で働く、神の愛(だけ)である。ここに書いてあるように、私の失敗や罪をなんと神ご自身が身代わりとなってくださった。それで私の敗北も失敗も取るに足りないものとなり、罪の無い者とされた。その上で、私自身を存在として愛してくださる神の愛によって、以前よりもさらに失敗を恐れず、前向きな者として信仰によって立ち上がらせてくださるのである。
この度はもう二度と失敗も挫折も味わうことがない。永遠の命を与えられた私は、死すら私を恐れることがない。

これは私の人生において実証された、勝利の法則と言える。
ケパ



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