ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

神の愛

2017年08月17日 | 
ルカによる福音書に放蕩息子の話がある。
かいつまんで言えば、資産家に二人の息子がいて、弟息子が財産の生前贈与を要求し、父はそれが放蕩に使われることを承知しながらかなえてやる。その結果、異国で身を持ち崩した弟息子は、とうとう豚小屋で豚の餌さえ食べようと思うまで落ちぶれる。豚はユダヤ人にとって禁忌の汚れたものである。つまり彼のすべてのプライドははぎ取られ、餓え死に寸前になって、はじめて弟息子は覚醒する。
「立って、父のところに行って、こう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』

この弟息子が我が家をめざして、近づいて来たのを最初に見つけたのは、使用人でもなく常に心配し続けていた父であった。父は駆け寄って豚同様の臭気ふんぷんの弟息子を抱き、口づけする。そしてこれまでついぞなかったような大宴会を催す。父はそれまでの形だけの息子から、真に生きた息子をとうとう手に入れたのだから、狂ったように歓ぶのは当然なのだ。

この話では、ほとんどが弟息子か兄息子の立場で悔い改めと神の愛を説かれる。しかし私は今回、兄弟のどちらでもない、父の立場で考えてみたらと思わされた。
弟息子の生前贈与の要求は、如何に兄に対する反発があったとしても、父にしてみればこれまでの親子関係の否定であり、断絶、造反である。それをどんなに思い留まらせようとしても、結果はさらに悪くなるだけであると父は苦悩した。

そこであえて弟息子の要求を全面的に飲む、この父のつらさはたとえようもないものに違いない。そして去って行った弟息子を、毎日毎日、地境の果てで待ち受けるのが父の日課となったのだ。「この親不孝者め、野垂れ死のうが思い知れ。いい気味だ・・・」なんてではなく、本当にあわれなほど、毎日地境まで出かけては日がな待ち続ける父の姿、これが私たち人間を造られた神の姿だと、イエス様は教えてくれている。神との関係を絶って、自分一人で生きているつもりの者は皆、この弟息子である。

人を愛する神は、ついには独り子イエス・キリストさえも十字架に架けて、罪の赦し、救いの道を開かれた。この神に私たちは愛されているのだ。あなたはどうしてこの愛を受け入れない?



ケパ





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