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ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

アメリカに押し寄せ、強行突破を図る人々の群れ

2018年10月27日 | 示されたこと
みなさん、ホンジュラスと言う国をご存知だろうか。昔からたくさんのバナナを生産した国で、「バナナ共和国」とも呼ばれていた国である。(国土の多くは千メートルの高地で、常夏の国)
しかし世界的には最貧国に属し、政争が絶えないだけでなく、ギャングが横行し、2012年の人口10万人あたりの殺人発生率は85.5と世界最悪の数値を記録している。なお、人々はメスティーソと呼ばれる白人とラテンアメリカの先住民(インディオ)の混血で、ほとんどがカトリックである。

そして南米の国では以前から年に一度、キャラバンと呼ばれる、まとまって国を脱出するグループを作って、陸路アメリカへ目指す動きがあった。問題となったのは今年のキャラバンがSNSなどの働きで、数千人(3千人~8千人)の規模にふくれ上がっていることである。まるでイナゴの大群のようにグアテマラとメキシコ国境を突破し、一路アメリカへ、アメリカへと目指している。彼らは豊かで母国に比べれば安全なアメリカでの生活を夢見ており、ほとんどはパスポートや入国許可証など合法的な資格を持っていない(人々の八割方が文盲である)ため、国境の検問やバリケードなどの封鎖を破壊し突破して来る移住集団である。(グアテマラからメキシコ国境の橋に詰めかけるキャラバンの人々)

トランプ大統領は連日、このホンジュラスの人々がアメリカを目指していることに神経を使い、軍を動員してでも絶対に入れさせないと警告しているが、この人たちはまったく迷いなくアメリカを目指して歩き続けており、何日か後には必ずアメリカ国境に面するはずである。(歩いている人々も多いが、このように近隣の住民が車に乗せたりして手助けするのも見られる)

さてこれはアメリカの話なのだが、当然多くのアメリカ人、特にアメリカ人のクリスチャンは我が身に降りかかってきた問題で、これをどう受け取るのだろうか、大いに興味がある。またもし、これが日本だったらと、つい考え込んでしまう点がる。
まず、はっきりしておかなければならないことがいくつかある。もしこのような強硬手段に訴える非合法な移民を受け入れてしまえば、ますますアメリカを目指す人々が今後も増えるだろうと言うこと。その数はもはや想像できない。
またいったん入国されてしまえば、人道的な対処をせざるを得ず、強制送還するか、または難民キャンプのようなものを作って、彼らに教育と医療を提供し、順々に職業訓練および定住化を促進するしかない。そうなれば、基本的に国の福祉予算を割り振ることになり、その分の現国民の福祉の費用が削減される。また国の貧しい層にとって、彼らとの職業の奪い合いになる可能性もある。

しかし聖書では隣人愛を説き、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」(マルコ12:31)とある。豊かさと安全を求めて、突然不法に押しかけて来る大勢のホンジュラスの人々を「隣人」だとは感じない人がいるかも知れないが、それにしても、当座だけでも「庇護されるべき人々」であることは確かだ。メキシコとの国境で壁を作り、銃で脅して彼らの前進をストップさせたところで、彼らも簡単にはあきらめないだろうし、無慈悲な国との非難が高まるであろう。ホンジェラスの人々はそこまで計算している。

もっとも良いのは、ホンジェラスをもうちょっと健全な国にし、バナナだけでなく、他の産業も育てて、彼らが戻れる良い国にすることだろう。しかし何があっても国境まで来た彼らを当座は助け、受け入れることである。その後のことは、互いに相談し合うことしかできない。トランプさんの国境からは入れさせない、「追い返す」、は妥当ではない。(アメリカを目指す人々)

彼らを受け入れる、そのために貧しさを知っている者が立ち上がらなければ、とも思う。実は今でも生活はかなり困難なので、これはきれい事を言っているのではない。けれども苦難を知る者だからこそ、その痛みを分け合うことができるのではないだろうか。共に生きて、分け合って彼らの力になりたいと願う。

"『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。"(マタイの福音書 22章39節)


ケパ





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愛する人と、結婚してはいけない

2018年10月10日 | 示されたこと
職場の人の話です、と面白い話を聞いた。
職場の男性の同僚が次のように公言してはばからないのだそうだ。「美人の女は心がきれい。ブスはダメだ」と。まるで顔の美醜が心の美醜に直結しているような、無茶苦茶な偏見である。「これは一つのセクハラではないか?」と聞いていてムカッとしたものの、しかしよく考えると、自分だって若い頃は似たような過ちをしていたし、過ちそのものに気付くことも、かなり時間が経ってからのことである。人は自分のことが、実は一番わかっていないのだ。だからうわべだけの判断をして、その浅はかさに気づきもせず、悔いることがないのだ、とゆるゆる、かつてのことを思い出した。

私の場合は小学生の頃、両親に二人の出会いを聞いたことがあった。それで真相が分かったのだが、それに痛く幻滅させられたのだ。
まず第一。お見合い結婚→ガクッ【愛のない結婚をしたのだ】 第二にお見合いの席で、母は顔の面を一度も上げなかったので、父曰く、どんな顔をしとるんか、サッパリ分からんかった。顔など実はどうでもよくって、とにかく家を出て結婚しなきゃいけなかったので、結婚することにしたんだと。ヒェ〜【相手はどうでも良かったなんて、じゃあ自分はどうでもよかった結果なんだ。愛のない男女の中で、自分は生まれたなんて、ひどくガッカリだ】

それで私は子供心に「自分はそうはならないぞ。子どもになれそれを語ってやれるほど、必ず愛する女性と結婚するのだ!」と堅く決心してしまった。
それからは、いつも想像たくましく、妻になるべき女性の顔立ちやスタイルまで、脳裏に思い描くようになった。それを中高と積み上げて行ったので、絵姿女房ではないが、「絵に描いて」と言われればすぐ描けるような気がした。その他スタイル、身長や声、目や表情の動きなど。仮にその想像し、完成度を上げたイメージをAとしよう。

20歳でクリスチャンになってからと言うもの、Aにもう一つ条件が加わった。「クリスチャンであること」だ。これは信仰ではなかった。私はぐうたらなので、相手をクリスチャンにする自信がなかったらである。そんなレベルの信仰だった。

さてクリスチャンになって半年後、奇跡が起こった。礼拝が終わった途端、いつものように会堂の後方で女性たちのおしゃべりが一斉に始まるのだが、その喧騒の中、ある声に私は戦慄を覚えた。声だけで分かった・・・「Aがいる」と。後ろを振り返ったその日その時、イメージだけのはずだったAが現れ、目の前に立っていた。仰天した。興奮し、ひどく混乱し、動悸がひどくなって倒れそうになった。

小さな教会で出会った二人はその後、短い期間だったが付き合い、結婚を考えるようになった。が、その途端いろいろ邪魔することがあって、実際に結婚したのはそれから7年後のことだった。6年以上、ほとんどの時間は、先のない別離のままだったのだが。
だから二人の結婚式の日、披露宴で各テーブルにキャンドルサービスをして回る時、私は初めてAの肩に触れ、肩を通して分かるその痩せた体に衝撃を受けた。Aは顔こそこけしのような丸顔だったが、その体にはすでに病の跡があったのだった。

話は変わるが、この前終わった朝ドラ「半分、青い」では、互いに強く惹かれ結ばれながら違う相手と結婚してしまった。結局はそれぞれ両方とも離婚してしまい、元のサヤと言うか、本来一緒になるべき鈴愛と律とのやり直しを暗示する方向でドラマは締めくくられた。
私は鈴愛と律、それぞれの伴侶の方に心から同情する。彼らは冷たく描かれているが、実は被害者である。伴侶の中に、自分が一番の存在ではなく、別な異性、律か鈴愛かがいることに耐えられなかったのだと思う。結婚した相手に、自分以上の大きな存在の異性がいることに気づかない者はいない。これは苦しみを与える所業で、罪作りな欺瞞行為だ。この類で苦しんだ有名な例で、英王室のダイアナ妃がいる。

だから二人は、違う相手と結婚してはならなかったのだ。メガネの掛け違いでは、済まされない。

私の場合、結婚までに7年かかったのだが、実は付き合ったのはほんの数ヶ月だけ。後はほとんど別れており、前途への希望も全くなかった。それなのに私は情けないほど未練タラタラだった。なまじAが祈り通り、クリスチャンになってくれたのがいけなかった。
諦めようと戦いながら、大学を卒業しAが遠い郷里に帰った。社会人になってから数年、他の女性との出会いが何回かあって、いざ具体的に結婚を、と考えてもそれができなかった。どうしてもAを諦められない心があることに気がついた。そんな思いを引きづりながら結婚するのは、何も知らない相手をひどく傷つけると思った。「半分、青い」とは違った。

最終的には、どうしても諦められないので、結婚してはいけない環境、つまりプロテスタントから宗旨替えをして、カトリックの修道院に入る決心をした。生涯を独身として過ごす厳格なイエズス会にである。(写真はその際の司祭と教会)

ところが神さまは、カトリックはマズイとストップされた。どういうストップかというと、Aの心を翻意させ、私を思い出させ、私と結婚したいと思い直すよう変えられたのだ。6年以上放っておいて、あと二ヶ月でイエズス会への誓願を相手が出そうとしたタイミングでである。もちろんAはそんなことは何も知らなかったはずだ。
突然Aから結婚の打診が元の牧師を通して電話で来た時のことを鮮明に思い出す。まさに体が空に浮かんだような異常な喜びが湧いた。小学生の時からの夢であった、最高に幸せな家庭作りが始まる喜びである。

それから自分の単なる理想で描いた、なんて愚かな妄想(だから、職場の同僚男性の浅はかさを、私は笑えない)・・・・に気づかされるために十年と少し要し、はっきりと愚かしさを骨身に知らされ、心から悔い改めるには、さらに十年の年月を要した。
「妻を心から愛している」と思い続けていたが実はそれは錯覚であって、ナルシスのように、自分自身の想像上のA、架空の想像上の産物以外の何ものでもなかった。懸命に私は、生きた本当の相手を愛そうとしたが、自分のAに気づき、それを修正しようとしたわけではなかった。これはなんと言うのだろうか。夫がありのままの自分を受け入れてくれないで、何か執拗に違うイメージ(A)を想い続けている・・・「半分、青い」の律と鈴愛の失敗そのものではないか!

やがて時が来て、自分の罪深さを知って悔い改めても、すでに精神を重く病んだ妻との、やり直しの時間は残されていなかった。癌になっていたのだ。それだけでなく、それまでにあまりにも深く、修正ができないほど互いを傷つけあってしまっていたのかも知れない。

ここで以前ブログに書いたように、ドルカスへの言葉。あなたは十一番目の大切がある。そもそも人間的な愛など、御心を知る妨害にさえなるのである。だだただ、神が導いてくださる相手だけが最善で最高なのだ。ドルカスのことは私はほとんど知らなかったし、そのため人間的な思いが入る余地が全くなかったので、それが良かった。その上、私が何らかの行動を一切したわけではなかった。神に一切を委ね、祈って、確認を求めていただけだ。

そして私は今、人間の目では絶対選ばなかったはずの、最高の伴侶を得て極上の祝福を感じている。改めて人間の目で選ぶことは、肉の目で選ぶことであり、それは刈り取りになること、それを二つの結婚から身に染みて知らされている。
私から言えば、恋愛結婚では、まず幸せになれない。極論であるが、恋愛とは妄想である。自分の肉なる願望を押し通して一緒になってみれば、本当の姿にしっかりと幻滅し、挫折を得るためにするようなものだ。しかし人は罪深く、自分の妄想であったことに気づかず、それをすべて相手のせいにする所が立ち直れないというか、さらに不幸な結果を招いてしまう。

もちろんこれは、法則でも何でもなく、人それぞれなのだろう。だだ誰に対しても言える法則はある。幸せになりたいならば、人よりも、自分よりも神を愛し、神を信じることだと。神はご自分を愛する者を愛され、最善の祝福をされるからだ。それは間違いない!

私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。
【ヨハネの手紙 第一 4章16節】


ケパ





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見分け

2018年09月24日 | 示されたこと
インターネットの記事や、毎日、大量に送られてくるメールには、見分けが必要である。それができなくて痛い目に遭って、スマホやパソコンはもうこりごりという人もいる。またはそれを聞いて、自分はやんないと尻込みする人も・・・・。

しかしちょっと授業料を払う場合もあるだろうが、見分けの目を養えば大丈夫。それを逃げてしまっては、情報化がますます加速する中、他者に依存するしかない時代になるはずである。

《私の見分け方》インターネット(検索サイト)〜
前回の私の記事で、中国では検索エンジンで全世界の人が使うGoogleを使わせず、自国製の百度(パイドゥ)を使わせている。Googleは必ず正と負の記事を並列させ、検索者に選ばせるからである。つまり「主の十字架クリスチャンセンター」と調べれば、「東京アンテオケ教会の公式サイト」が出るが、その横に「カルト団体」と言うのも並んでいることになる。プラスとマイナスの評価を並べて、検索者に判断させるわけである。

これを中国でやると、中国という国が戦車で国民をひき殺すようないかに非民主的か、政治、生産、文化などあらゆる点で自由と国民の権利(人権)を剥奪しているかが明瞭になってしまう。だから国民には知らせないよう、百度で一切共産党に都合の悪い情報を排除し、統制するわけである。知らなければ批判することすらできないからだ。
中国においては、チベットのラマ教、ウイグル族のイスラム教など少数民族の宗教はその地の支配徹底のため弾圧している。法輪功などはドキュメンタリー「馬三家からの手紙」で分かるように、共産党員を超える人数になると急に逮捕し、収容所送りだ。キリスト教も例外ではない。共産党の脅威になると破壊される。

逆に自由な国では、Googleでのブラスとマイナスの、どちらの情報が正しいか、常に見わけなければならない。Googleのすごいところは、どんなにヒット数が少なくても、必ずマイナスの項目を意図的に並列させるところである。それが正しい判断を選択する土台だと考えているフシがある。

残念ながら国民性というかこの国では、プラスだけでなくマイナスが、たとえ意図的にでも存在するだけで、見わけようとするのではなく、否定的な見方を取る。要するにケチが付いていれば傷ものであって、見わけようとしないのである。もし、本当にマイナスが正しいのであれば、何らかの事件になったいたり、社会的な制裁が加えられているはずなのだが。
つまり根拠も裏付けもない偏向したマイナス、単なる批判中傷が、Googleには堂々と載る。その実際的な例として、私たちの主の十字架クリスチャンセンターが被害を受けている。

これは主の十字架クリスチャンセンターが、他の教会のような名誉毀損とかの法的対抗処置を取らないからである。これは私の個人的な推測に過ぎないが、聖書にあるようにクリスチャン同士で「争うな」と示される神に従っているためなのではないだろうか。また真に神を知っている人なら、どちらが正しいか必ず見分けられるはずである、そう信じているため、あえて放置しているのだと思う。

ここに見分けのポイントがある。アマゾンで実物を見ないで製品購入する時も同じなのだが、「この品物は最高!」とレビューなどで良い評価があっても、出品者が工作し、百度のような情報統制されているかも知れない。そこで製品のレビューの内容を精査しなければならない。百パーセント礼賛している良い評価は怪しい。むしろ多少の問題点を指摘していても、それでもここが良いとする評価の方を信じられる。

私は検索エンジンでもネット買い物でも、表示されている評価(レビュー)の数を気にする。数が多ければ多いほど、信頼性が高いのだ。少ないのには注意しなければならない。

もしその製品が希少な品物で一切のレビューがなかった場合、その時はデータを良くチェックし、実物を近くのお店に見に行く手間を惜しんではならないだろう(実物を見るのはすべて基本だが)。それができないなら、そのメーカーとか、取扱店を調べ、提供されている情報が信頼できるかチェックする。
そのすべてがわからなければ、基本、買っていけない。どうしても買う場合は、それは後悔しない捨て金のつもりで。

以上のことは、Googleなような検索エンジンでも、アマゾンでの買い物でもすべて同じである。実際、私たちの教会に初めて来られる方は、教会のホームページをよく吟味され、見分けてから実際に来られるケースが多い。
そしてこれが一番大切なことだが、自分の判断を過信せず、神に祈り、平安を得ていることが何事も基本である。





ケパ








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人生で一番大切なこと

2018年09月17日 | 示されたこと
ほんの五日前、私は67になった。Facebookはそれを友達にバラまいてくれるので、何通かお誕生日祝いが来る。で、来たものに返事を書いた。

「何を書こうか?」思い巡らすと、どうしても次の言葉しか浮かばない。「生かされている限り、御心を行って行けるように祈ってます」と。

三日してメッセージのために聖書を調べていて、ふと次の箇所目に開かれたと言うか、ストンと 合点し腑に落ちた。これはFacebookで返事したことを、天のお父様がみ言葉をもって「O.K.」と裏づけてくださったのだと。(時々見るNKJV大判聖書 赤線を引いたshameに注意!)


1ペテロ4章1~2節】
キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。
それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。


確かに私が受けた試練=先の妻が精神の病になって十数年、最終的には、天に召された=ことも、今は最高に感謝することだ。渦中にいた時はどん底の暗く悲しい日々だったのだが、それがなければ今日の聖霊のバプテスマは無かったし、心の底から御心を行って行きたいと思う、心からの願いは起こりようがなかった。
こうして人生最悪は最高の益に変わった。十字架の死が神の勝利に大逆転したように、私の不幸せも最高の幸せに変えられた。

そして、このみ言葉の「もはや人間の欲望にではなく」の部分がきつーく入って来た。そうなのだ。「御心に・・・」「御心の・・・」ばっかり同じ言葉を唱えていても、相変わらず人間的な欲望に囚われ支配されていて、どうして「御心がわかる」のだろうか?

となると私の今の状況はまさに、神の配慮であることを知った。悔い改めなければならない。真に神の【もの】として立ち返らなければならないと思わされた。
ほむべきかな神。神の知恵は、人には図り難し。



ケパ




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結婚するように造られている

2018年08月27日 | 示されたこと
聖書では、神が全宇宙とすべての命を創造された六日目の最後に、「神は人をご自身のかたちとして創造された。」このことから、人は両性二つ合わせて一つの人間として、神と交わり神に聞き従う存在として造られたことがわかる。

「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」創世記 2章18節

ここで、男女はひとりでいるのは「良くない」とまでここで神に断定されている。

私は若い時、本命の女性と結婚できず、そのため一時カトリックの修道院に入ろうとほぼ決心していた。結婚をあきらめてしまえば、叶えられない望みが吹っ切れて、精神的に楽になるだろうと思ったからである。


しかしそのカトリックの独身主義は、腐敗と考えられない堕落のるつぼとなっているようだ。人は男女に分けて造られ、それが結婚という形で一人前となる神の秩序は揺るぎないものだ。その証拠に、子が与えられるのだ。これに逆らう修道院制度は神の秩序に逆らっている。

私の属する教会は未婚の男女が多い。これはもともとクリスチャン数が非常に少ない上、互いの使命の一致とか経済などがあって、なかなか結婚に踏み切れないで、結果として独身者が多くなっているだけなのだ。しかしまた、彼らも熱心に結婚を祈っているのは間違いない。

私も、いつも祈りで応援したいと思っている。いかなる結婚も、神のなされた御心の結婚であるからだ。



ケパ






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天変地異、これからのこと

2018年07月18日 | 示されたこと
大阪地震から一ヶ月が今日の日だそうだ。西日本の集中豪雨からはまだ一週間あまり。呉市の教会仲間からは、昨日、水道が開通したとの知らせがあった。しかし同市内の別な教会仲間は、生活道路が寸断され、いまだに毎日、かなり坂の下の方まで歩いて水を確保しに行かれている。年齢からいって、体力と健康を心配している。(呉から送られてきた自宅周辺という写真)

列島が四十度を超える地域を抱える酷暑の中、支援にも行けず、今は祈ることしかできないでいる。その中で、地震や水害の頻発に、神がこれを許されていることの御心を思わずにいられない。

集中豪雨はCO2など、明らかに地球環境の破壊の現れだと言える。しかし各地で頻発する地震はそうとは言えない。けれども全体としては、天候の激変による農作物への影響と地球人口の増大で、これから地球規模での大飢饉や、限りある資源の奪いあいで戦争が起こることは、避けられないのだと思う。(地球人口の爆発)

私たちは聖書の黙示録やダニエル書などの預言から、世界の終わりを知らされている。千年に一度の東日本大震災やこれからの日本、世界全体が今確実にその方向に向かっていることは確かだ。何事でも、先を知らされていることは、不安や恐れ、パニックに左右されない素晴らしい恵みだと思う。





ケパ









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風が吹ぶく時

2018年06月27日 | 示されたこと
船橋の今日の風は風速8m、我が家は風の通り道、ゴーゴー音が轟く。8mどころか体感的には20m前半の台風のような感じである。(この時のベランダ)

私はこの風のふぶく音が、いつまで経ってもどうも慣れない。理由を考えてみると、私は広島の中国山地の盆地育ちで、一年中山霧が絶えない風土で育ったからだと思う。山霧が絶えないと言うことは、年中ほぼ無風地帯であることを指す。風は山々の上を通り過ぎ、下の盆地は無風地帯である。風がないので洗濯物はなかなか乾かず、夏はうだる暑さの昼に夜はキーンと冷え、冬は雪の中、深々と底冷えていく、そんな感じ。

だから汽笛や飛行機、総武線の電車音が聞こえる東京湾岸沿いの、ここ船橋の暮らしは、例えて言えばカリフォルニアはロサンゼルスみたいな陽光あふれて快適だ。その中でただ一つ、時たまの風の強さだけが、どうしても落ち着けないだけなのだ。
想い出してみると、上京し初めて神奈川に暮らしてみて、その一番の記憶は「春一番」だった。南西の方から巨大なナイアガラの滝のような黒い壁が押し寄せてくるのには、本当にびっくり仰天した。

ところが聖霊派の信仰を持ってからは、風は全く別な見方をさるようになった。
自然の世界において、風の力を知らなかったのは私ぐらいのもので、平時は洗濯物を乾かし(笑い)船を動かし風車を回す。荒ぶる時は台風となって猛威をふるう。風は力があっても姿が見えないだけに、しばしば神の力や聖霊にたとえられるのだ。

聖書でイエス様がガリラヤ湖の嵐を叱って静められたことは、その象徴的なことだった。(詳しくはマタイ8章24~27節)
弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」"(ルカ8章25節)

また聖霊は、風のかたちをとった。ペンテコステの時も「すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響き」(使徒2章2節)であったし、「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3章8節)とイエス様は訪ねてきたニコデモに語られた。

この日本の国に、今日の天気のような、聖霊の激しい働きの風がふぶきわたることを、日本のリバイバルが起こることを、私たちは日々祈っている。




ケパ




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青い空に

2018年06月01日 | 示されたこと
以下は早天の外で浮かんだ詩

青い空にたなびく雲
そよぐ風と鳥のさえずり
ああ、このかぐわしき天地は
神が造られしもの

父よ、いのちの父よ
あなたをほめたたえます
この世から天にいたるまで
あなたの御名をとこしえに

(この景色から)

天地万物の最初は
"神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。"(創世記 1章3節)
との神の言葉からすべてが始まった。

世界は光で存在する。私は高校時代から写真やカメラが大好きで、光を捉えるカメラのレンズがなんとも言えず、好きだった。押し入れ暗室の中で、数秒間露光後、現像液の中で、ジワッと浮かび上がってくる光の記録に心躍った。

「光」がなければ見えない=認識できないので、結果として存在していないのと変わらない。罪を犯した時、暗闇が心地よかった。闇は罪を受け入れてくれる。しかしその闇は同時に、人を縮こまらせ臆病にし、死と恐れの中、生きる力を奪うものだ。
そうではなく、罪赦された私たちは光の子として、光の中を歩みたい。神は人に〈あらゆる生きる〉ものに名を付けさせられた。名を付けることは〈有る〉だけの世界から〈関わる〉世界になったことだ。闇の世界は、関わることを拒否する。

そうでなく、光の子らしく、証し人として世と関わって行こう。さあ立って❗



ケパ



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本当の信仰とは

2018年05月30日 | 示されたこと
最近になって、すごく思い知らされていることがある。それは本当の信仰とは何か?と言うことである。

ここ数年の間に、前々から関心を持ち続けていた浄土真宗やイスラム教、三位一体を否定した自称キリスト教を学ぶ機会が与えられた。イスラムについては報道でシリアやイラクでのIS(イスラム国)を知らない人はいないと思うが、なぜ世界中のイスラムの若者がこれに惹かれて加わろうとしているのか、訳が知りたかった。

ISのことを知れば知るほど、カリフを自称しイスラム法を実行しようとしたアル・バクダーディは、イスラム教的には実は正しく、彼らのことをイスラムではない、とは他のイスラム教徒は言えないのだ。つまり異教徒は皆改宗させるか、さもなくば殺す(高校の教科書で習った、「剣かコーランか」)が、伝統的なイスラムの正しい教えらしい。究極的には武力による世界征服がイスラム教徒の使命である。イスラム教徒のひとりひとりは確かに人は良いのだが、その実彼らの信仰しているのは、恐ろしい身の毛のよだつ教えだとも言える。
コーランと言うムハンマドの教えが、手軽にスマホで読める時代になった今だからこそ、権力と結託し、イスラムをねじ曲げている既存の穏健派イスラム法学者の嘘を若者は見抜いている。純粋な若者であるが故に、ムハンマドに忠実なISが若者たちの心を掴んでいるのだ。
ついでに自爆攻撃だが、それには敵地で自爆してたくさんの人を殺せば、殉教者となる教えがある。殉教となれば確実に天国の「先立つ者」と言う特待席にありつける。テロリストはイスラムにおける天国行きの不安を利用し、格安でも多大な被害を敵に与える攻撃として、殉教テロを多発させているわけである。

同じように天国行きの不安を利用し、生活を犠牲にしての伝道や、教団一辺倒の生活に駆り立てられているキリスト教異端グループがいる。ここ船橋でも、船橋中のクリスチャンの数より、今では多くなっているようだ。
彼らと膝を交えて話してみると、天国行きの14万4千人はもう締め切られているので、現在のグレイゾーンから確実に天国に入れるために、自分の時間をすべて捧げて頑張らされている。いわゆる組織の考えのみに支配されているわけで、聖書の自由な読み取りは許されていない。神ではなく、人に過ぎない教団組織が一切の代行をしているわけだ。この最大の原因はイエス・キリストを神として否定(三位一体の否定)するため、罪の赦しと天国行きが曖昧で不安である。教団のマインドコントロールはそこにつけこんでいる。イエス・キリストを神の子と信じずして救いは無い。本当に気の毒な人たちなのだ。

両者とも天国行きを確実にするために、頑張らされ追い立てられる、この点が共通している。その点キリスト教は全く異なる。悔い改めてイエス・キリストを信じた時点で、すっかり罪は赦され、天国行きは間違いないのだ。十字架と言う何の不安もない保証がある。日々信者を囲い込み、追い立てるマインドコントロールは、無い!

浄土真宗の話は、また今度したい。今日はとりあえず、ここまでで。




ケパ





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マンションの漏水騒ぎ

2018年05月29日 | 示されたこと
昨日のまだ明かるい夕方5時半ごろ、私の住んでいるマンションで、けたたましいアラームが鳴り出した。ちょうど帰ってきたドルカスがまず気付き、私を呼んだ。私はこのマンションの理事長で、警報の鳴っている業務員室に部屋に入ることが出来る。(今は復旧しているが、ここの、どのアラームが点灯しているかがポイント)
急行してみると、暗い業務員室には警報サインは出ていたが、火災報知ではなかった。少し安心していたら、頭の上に水がかかった。「えっ」と見上げると天井に水がある。照明をつけてみてびっくり。蛍光灯、火災感知器から水がポタポタ。床や机の上が水浸しだった。(今は乾いている天井)

すぐに関係各所に連絡を取ったが、業務員室の電話機やファクス、各書類は水浸しである。指示もあって直ちに直上の宅の水道の元栓を締めたので、数時間後にはポタポタは止まった。下が業務員室なのでまだしも、これが個人の家なら相当の被害が出ているところだ。(玄関横にある水道宅内給水の元栓。下部にメーターを挟んで左右にあるが、右のレバーを菅に対して垂直に回すことで断水することが出来る)

本日朝、水道屋さんが到着し、直上の宅内で漏水チェックと修理をした。原因はバスや洗面所下のジョイント部からの漏水であった。床は剥がさざるを得ないし、階下の弁償も漏水元の全責任である。漏水、特に階下の弁償だけがマンション特有の問題である。けれども逆に警報が出て、極めて早期に発見できるのもマンションの良い点かも知れない。

水道設備は常に圧がかかっている上、何十年か経つと必ず老朽化し漏水の恐れがつきまとう。唯一当地は氷点下4℃以下にならないので、凍結の心配がない点が安心できる。
水道は1に水、2に電気の超重要ライフラインだ。今回のことで理事長として、共用部と個人宅内の水道管取り替え工事を早期に提案する必要を感じた。

付け加えて、我が家にはメダカの水槽があるので、メダカたちの高齢化(^-^)後は、今回のことで飼わないようにという示しにも感じた。



ケパ





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