goo blog サービス終了のお知らせ 

ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

平成から令和へ、終末の世界は?

2019年04月30日 | 示されたこと
いよいよ元号が変わり、令和になった。英語で天皇とはエンペラー(Emperor・皇帝)で、現世界でエンペラーと呼ばれる唯一の存在である。我が国以外は、例えばイギリスでは王朝がいろいろ変遷しており、現在はウィンザー朝のエリザベス女王である。変遷のある王朝のキングは、エンペラーより格下の存在になるらしい。
 
そのような比類なき血統を誇るよりも、日本国民として、世界に誇れる歴代の天皇を抱けていることが嬉しい。素晴らしい識見と節度を持ち、特に平成天皇が国民に寄り添って来られたことに喜びを感じる。
それだけではない、私は先先代の昭和天皇に大きな誤解をしていた。それは天皇の軍隊としての戦争責任であった。今は生まれる前の知らなかったことながら、実に誤った見方だったとして悔いている。
 
それには終戦時のいくつかの映画や資料を見て、事実は真逆であって、天皇に軍の暴走を止める権限は実際にはなかったこと、にもかかわらず昭和天皇は平和を志向され続け、降伏時は一身を犠牲にされることを覚悟されてマッカーサーに対処された。天皇は東南あたりのどこかの国の殿下と違って、本当に誇るべき高潔な君主であった。
 
こんな事情を知らないで、お隣の国の国会議長が「戦犯の息子として謝罪しに来るべき」と平成天皇に投げつけた言葉は、どれだけ多くの日本人の心を傷つけたことだろうか。これはかつての私のように、実際を知らないのだと思う。
 
 
ところで年齢などの元号計算になると、私は昭和26年生まれだから、昭和が37年間、平成が30年間で、これから令和が○○年かは続いて行くわけである。つまり三つの足し算をしなくてはならないわけで、いよいよもって元号の計算が面倒になるわけだ。即位された徳仁(なるひと)令和天皇は59歳なので、まさか次の元号を私は迎えないと思いつつ、私と9歳しか違わないので、もしかして父君にならって生前譲位があれば、こと元号に関しては四代も迎える可能性が無いとは言えない。そうなればもう、老齢も加わって暗算ではお手上げだろうと思う。
 
何が言いたいのかと言えば、時代を元号で言うのは良いとして、これからこと計算となると、併記で、基本西暦で行きましょうよ、ということである。最近は西暦併記でも( )書きでOKなところも増えてきたではないか。
 
この西暦はイエス・キリストの生年(実は紀元前4年であってずれているという説が有力)を元にしてできている。イエス・キリストの誕生から何年という年のあらわし方で、紀元前はB.C、紀元後はA.Dとあらわす(Before Christ,Anno Dominiの略)。
世界でもっとも普及した西暦は、まさにキリストが人類の歴史を二分したことを表しているのだ。アブラハムからキリストまで二千年、キリストから今日まで二千年余り。この二千年は福音の時代で、Anno Domini、主の年、めぐみの年なのだ。終末はまだ来ていないが、そんな時が非常に近づいていることを肌身に感じる。
 
その最大の理由は、以前では考えられなかったことが成就しているからだ。それはエゼキエル書37〜39章の預言の成就である。イスラエルの1900年ぶりの復興建国。そしてロシアと天敵のはずのイランやトルコが、今シリアで互いに手を結びつつあることである。なんとイスラエルの隣国シリアには、現在ロシア、イランなどの軍がすでに常駐している。そしてアメリカは手を引こうとしているのだ。マゴグからなんの抵抗も受けず、多くの軍がイスラエルへのルートが、もう完成しているのである。
 
今は2019年、キリストが十字架で全人類の罪を贖われてから二千年に、あと11年であって、まったく目を離せない、ダニエル預言の患難時代7年も考えれば、令和時代は終末的な多くのことが起こる時代になる可能性が高い。
 
 
 
ケパ
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クリスチャンに滅びはあるか?

2019年04月25日 | 示されたこと
最近、教会で次のことを話題にした。テーマは「クリスチャンでも滅びることはあるか?」である。取り上げたのは昨日の聖書箇所である。ブログの読者の皆さんから、どのように理解されたのだろうか?
 
不法の者は、サタンの働きによって到来し、あらゆる力、偽りのしるしと不思議、また、あらゆる悪の欺きをもって、滅びる者たちに臨みます。彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。それで神は、惑わす力を送られ、彼らは偽りを信じるようになります。それは、真理を信じないで、不義を喜んでいたすべての者が、さばかれるようになるためです。(テサロニケ人への手紙 第二2912©2017
 
これを単に読むだけなら、信じない人々を神が惑わし、(ゲヘナという地獄へ)さばかれるように一直線、と受け取れないこともありません。
するとあちこちが矛盾して来る。「ええっ、神様って 聖なるお方なのに、惑わすなんて、サタンとおんなじじゃない。そんなことをされるの? 信じらるない!」とか「私、信じているのに、本当に天国に行けるのかしら?」と云々。
 
神は神は愛なる方なので、まさかそんなことはおできにならない。これは元々滅びる人々
、毒麦的な人々がこうなると言う意味である。聖書を読む人の中には、その中の単語、一つの言葉だけを部分的に切り取って行く人々がいる。それは決して否定さらるべきではないが、全体的な流れを無視するので、このような読み誤りをしがちである。
 
聖書に毒麦の例え(マタイ13章)がある。私たち人間には分からないが、神を信じバプテスマを受けていても、滅びの道に戻るものは確かにいる。教会から離れたり、信仰を棄てるのは、元々本当には信じてはいなかったのであって、その偽りの本性が、時が来た時あらわにされるのである。
ただ、私たちには毒麦かどうかは分からない。だからクリスチャンと言えども、滅びに至る人が出ることは、あり得るのてある。
 
 
 
ケパ
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春はいのちの季節

2019年04月22日 | 示されたこと
毎週末のことだが、土曜日はメッセージの産みの苦しみ日となる。テーマをはっきり示されている場合はともかく、波の泡のように、湧いては消え、問うては蜃気楼のように消えることも多い。
 
先の土曜日の朝、自宅の目の前の公園に出て、一人祈り、黙想を重ねていた。ちょうど朝日が公園に差し込んで来て、その光が当たった左肩だけが温かい。
ふと見上げると若枝に若葉が風にそよいで眩しい。思い出すと、確かこの木は昨秋の剪定で丸裸にされた木だ。せっかく伸ばした枝をぶつ切りにされ、寒空に裸で立っていたような木だった。それが切られた枝から、シュー、シューと若枝をこんなに伸ばし、葉をつけたのだ。すごい生命力だ。
目を下ろすとすごいスピードで蟻が地面を走っていた。中には自分の体ほどの小さな死骸を咥えて運んでいるのがいる。ダンゴムシも近寄ってきたので、優しく?ひっくり返すと本当に小豆ほどのまん丸玉になった。何分そうしているんだろうと、測ったらものの2、3分で、辺りを伺いながらそろそろと復元し歩き出す。百足(ムカデ)でも思うのだが、ダンゴムシも、よくもあんなに沢山足があってももつれないものだ。(解説 ダンゴムシ)
自然の素晴らしさ、いのちの季節である春に、神を賛美していると、ふと示しがぎた。
 
神はご自分を信じる者には、「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです」(1テサロニケ4:3)がテーマの聖句なのだが、それは字義通りではなく、予表であり次の意味なのだと。
 
この血肉の体を着たままでは、どんなに頑張っても聖にはなれない。罪とは神に背を向け、的を外すことである。その逆が聖なのではないだろうか、と。つまり、タラントに関わりなく(もともとそれは神が与えてくださったものなので責任はなく)、世にあって、私たちの心が愛する父なる神に向かって「神に喜ばれたい」一心で歩むのなら、それは聖へと向かう結果をもたらす聖なのだと。
どんなレベルのものであっても、神は心を受け取ってくださり、喜んでくださることは間違いなし。神を何とかして喜ばせよう、そのことを「(天と言う未来において)必ず聖になる」意味なのだ、と。
言葉を未来形で受け取ることで、開かれました。感謝!
 
 
 
ケパ
 
 
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋桜染めのセーター

2019年04月20日 | 示されたこと
先日、このようなメールが📩届いた。
 『もう、 56年前になるかと思いますが、貴女の草木染めの毛糸をたくさんいただきました。細くて、老眼の身には無理❗️な中に、編めそうな太さ〜しかも「秋桜」色。そのうち、そのうちと時が過ぎてこの冬こそ!と編み始め、今年度中(2018年度)と目標を決め、41日にボタンを付けて 完成しました。いつか おじゃました上田〜東御市の空き地に咲き乱れる コスモスを思い浮かべて、着ています。たくさんの毛糸、ありがとうございました。』
あぁ、そうだった。沢山の毛糸染めたなぁ。それはそれは毎回楽しくて、ほぼ毎日染めた週もあった。
 
タンポポ、ビワの葉、庭のシナノキの枝、リンゴの剪定した枝はチップにして煮出した。
ハーブのタンジー、ローズマリー、チューリップの花びら、秋には
秋桜、レモングラスの葉、ドングリ、きわめつけは、クルミの外皮かな。もう覚えきれないほど植物から入りをもらった。
懐かしくそしてそれを編み作品にした頃を思い出し、さらに‥
差し上げた毛糸が、活かされた事が嬉しかった。
神さま。編み物はもうあなたに捧げました。と、毛糸を触ること無く、編み棒を出すこと無く10年経った。
今年になって姪に頼まれ、ベビー用の小物を作り始めた。久しぶりの編み物に心はウキウキ。そしたらこの📩メールが来ましたよ。
主を崇めます。
今私に戻された事。
天のお父様。喜んでまた編み始めて良いのですね?
感謝してケパさんと新しい生活が始まる時、それまであった生活の色々な事を、編み物一切を全て主に捧げました。
 
それが今戻ってきた。今年度の、み言葉を受け取るように、私にとって聞き従って歩んだその祝福?かしら^_^ん十倍の祝福。
神様また編んで良い時なのですね。
感謝します。
 
 
ドルカス
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

変わって行く時代に求められるもの

2019年04月11日 | 示されたこと
「私は武士の娘です」は「まんぷく」で祖母役の松坂慶子の決めゼリフだった。以前ブログでこのことを言ったが、もうこの国には身分差別があったことなど、実感が無くなったということだろうか。
 
最近「七人の侍」という黒澤映画を観て、改めて時代の違いを感じてしまった。この映画には〈長老〉が出て来て、村人の話し合いで結論が出ない時には、その指示に全員が従うのだ。
映画で長老は、かつて野武士軍団の被害に遭わなかった唯一の村を例に出す。長老の指示はその村を例に取り、戦いに長けた武士を集め、村を襲う野武士と戦うことだった。
姥捨(うばすて)山でも、姥捨の名に背いて孝行息子たちに匿われた祖母が、隣国がふっかける難題を見事に解き明かす。「灰で縄をなう方法」などなど。老婆は見事に答えて功を挙げ、殿様の姥捨令を撤回させるのだ。
しかし今の時代にはインターネットがある。人も知恵も、みな指先一本でググると得ることができる。これでは老人の知恵など、尊重されなくなるのが当然ではないか。
老人大国の日本の年寄りがリスペクト(尊重)されなくなっただけではない。姥捨山のごとく、生きていけないほどの少ない年金では、死ぬまで働き続けるか、すべてを処分して保護を受けるしかない。しかし働こうにも高齢者の職場は限られ、不安定で計算が成り立たない。
時代は変わった。高齢者は自らの努力で生きていくしかない時代となった。その中で老人ゆえの知識はインターネットにとられたとしても、長い経験の中で培われた知恵はデジタル化できるものではない。引退し、ただ死を待つのではなく、最後まで働いて、若い人たちに生き様を見せて行くのも良いのではないだろうか。そのように肯定的に捉え、後に続け、とばかりに立ち向かう必要がある。(プロテスタントをはじめたルター)
 
特に信仰の世界においては、この「生き様」を若い人に見せることが、決定的に重要である。血肉の命を超えて「私たちの国籍は天にあり」(ピリピ3:20)と告白することである。
 
 
 
ケパ
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祈りが上を向く時

2019年02月13日 | 示されたこと

早天であることを悔い改めるよう示された。神の指摘はまさにその通りで、振り返ってみれば私に弁解の余地がない。次の御言葉が頭に響く。

「あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。」(マタイ73 新改訳©2017

「ああ、私は何と愛がない者なんだろう! 」と思わされた。自分が楽になることを望んで、惰性で接していて、親身になってフォローしようとしていなかった。私には心から祈りたい方々がいる。それで悔い改めて「主よ、自己愛しかない私を哀れんでください」と神に祈る。

するとそっと励ましの示しが来るのだ。私は慰めを受け、再び目を天に向ける。まことに神は慈愛に満ちたお方、すべてを捧げるにふさわしいお方だ、と。

すべての栄光は神に❗️

ケパ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西坂での祈り

2019年02月05日 | 示されたこと
今日は長崎の西坂公園で、殉教記念聖会が行われた。この群れに導かれて十七年になるが、今回初めてライブ中継という現地に行かない形で参加することになった。

テレビで一緒に賛美したりするのだが、そうしているうちに、暑い夏、長崎を一人で訪問したことや、殉教聖会後の朝、凍える西坂でどんなに熱く祈ったか、それぞれ一つ一つの出来事を思い出していた。

ご存知のように長崎は特別な街である。街にはカトリック教会が中心地にあり、シスターたちの姿も普通に見かける。ちょっと違う雰囲気の日本の街である。やすらぎの歌の第2集に西坂の歌があって、その歌に惹かれて夏、初めて長崎にやって来た時、電車が市街地に入った途端に私はすごい霊的な圧迫を感じた。今ではほとんど感じなくなったのだが、その時は「な、何だ、これはぁ!」とビックリした。長崎は信仰の祈りが積み重ねられている、霊的な街でもあったのだ。

また、ライブ中継で映し出された26聖人のレリーフの前で、間もない頃の2月5日の早朝の暗さの中で祈っていると、どうにも涙が止まらない時があった。暗い上、寒さ対策の大きなマフラーをかぶって跪座して祈っていたので、人にはバレない。家族に大きな問題があって、そのために祈るしかなかったのだが、その時に涙が心を純化させてくれる体験をした。

辛かったが、今となってはあれほど真剣に祈れた恵みは大きな財産である。来年は何とかして、ライブではなく、これまでのように現地で参加したいと願わされた。




ケパ




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教会って誰のもの

2018年12月29日 | 示されたこと
私は若い時から、わりと定着した教会生活を送って来たと思うのだが、それでも色々な教会を経験して来た。

その中でもバプテストが長かったし、その執事役員を長く経験したのでつくづく思ったことがある。それは「教会って、誰のものだろう?」という問いだった。教会は、教会堂です、と建物を指す人もいるかもしれないが。

バプテストは非常に民主的で、教会員が一人一票の権限で、執事役員を投票で選ぶ。これが問題で、首をひねるような結果によく出くわした。問題の第一は、たとえ小学校一年生でも、バプテスマを受けた教会員であれば、平等な一票を投じることができた。また、当選する執事役員は、この世での成功者または社会的な地位のある人ばかりであったことだ。
だからみんな忙しく、やたら事務的であったが、この役執事会が牧師を招聘する権限があり、牧師も役員執事に対しては、大変な気の使いようであったことだ。また最高議決機関は、全員が集まる総会であった。まったく多数決の議会制民主主義と同じだ。

だからバプテストは基本、教会は教会員のものと疑わないはずだ。おそらくそれは、長老派や改革派も長老執事の権限の違いはあればこそ、そんなに変わらないはずだ。よく言えば民主的、悪く言えば牧師は雇われ牧者である。従って教会そのものが、いろんな意見でまとまっていないケースも見られる。

ところが、ここに全く違う政治形態を持つ教会がある。バプテストのような会衆制でも、執事制でもなく、監督制の教会である。旧「主の十字架クリスチャンセンター」に来て私は初めて体験した。

監督制とはどういうことかと言うと、「教会は神によって立てられ成ったもので、神のものである」「主任牧師はイエス・キリストである」「各教会は使徒的牧会者によるカバーリングを受ける=監督制」という点であろうか。また各教会においては立てられた牧師が霊的にはもちろん、実務的にも指導者である点も特徴であると思う。牧師は神によって立てられた存在であって、責任はただ神に対して問われるもの。教会員は牧会者から守られるとともに、聞き従いを求められる。とても縦のラインがはっきりしているのが、監督制の特徴である。

私個人の見解を述べよう。答えは聖書にある。教会はペンテコステによって誕生した。使徒の働きでも明らかなように、使徒、あるいはアポロのような伝道者が教会の種蒔きをし、バプテスマを授け、その後幾度も訪問して教会を成長させてきた。神が中心である。

"私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
"
(コリント人への手紙 第一 3章6~7節 新改訳2017)

この神によって教会が成長するのだから、どの政治形態が正しいとかは 断定できないまでも、神に示された道を忠実に従って行く在り方、それがポイントだろう。


ケパ





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本にキリスト教が広まらないことを考える

2018年12月27日 | 示されたこと
宗教が自由な先進国で、キリスト教徒が人口の1%以下なのは、世界でも日本だけということは、結構知られていることだ。隣の韓国は30%いるし、中国では迫害されていても非公表ながら1億人はいるという。

私は牧師なので、終末期の大リバイバルはともかく、この置いてけぼりのような現状に、ついつい神の御心を考えてしまう。「なぜだろうか? 」と。

まず最初に思ってしまうのは、1549年(天文18年)にカトリックのザビエルが伝道を開始したことである。彼らは本来宣教が目的であるはずだが、同時に植民地化の野望を持ったスペインなど後押しを受けて、その先兵をも兼ねていたことである。実際日本に来た宣教師には、日本人を一段劣るように見下し、イルマンからなかなか司祭に取り立てようとはしなかった。
スペインに支配されたフィリピンの事情から、サン・フェリペ号事件絡みでいっそう明らかになったところが秀吉の逆鱗に触れ、長崎二十六聖人の殉教に至っている。

カトリック化が浸透しつつあった江戸時代に至って、幕府はさらに警戒し、鎖国までして徹底した大弾圧を決意した。貿易は多くの利潤をもたらすが、これを切らないことにはキリスト教を根絶できないことを悟って、幕府は鎖国まで行った。今も残る檀家制度もこの時のものである。これは戸籍のようなもので、全国津々浦々で実施されたこれは、つまり全国民が仏教徒にされたのだ。

このように、カトリックとの非常に不幸なつまづきが未だに大きく影を落としている。なにしろ遠藤周作の「沈黙」でもあったように、当初カトリックにとっても順調に見えた日本宣教は、結局は日本を強固な仏教国にし、大敗北に終わった。特に中心となっていた管区長代理フェレイラの転びは、到底受け入れ難かったはずだ。この時の迫害の歴史は、後々に至っても安易な気持ちでキリスト教に入ることを規制してきたはずだ。

かく言う私も十代の時、キリスト教に惹かれ熱心に通っていたのだが、沈黙を読んでしまい二の足を踏んだ経験がある。「命をかけて信じ、殉教できるか?」の内なる問いに、なかなかバブテスマを受けられなかったのだ。また入信のもたらす家族との断裂(お盆や正月、飲酒、地域社会、お墓、生活規範etc)も、孤立無援の十代の初穂には重荷であった。

さて、現代の話であるが、キリスト教徒が驚くほど少ない理由として、私の見方はこうである。「自分を肯定的に見ようとする」
たがら「日本人は罪がわからない」

最近のニュースでは、成田空港への利用者が二千万人を超えたそうである。外国人が日本に感じるものは、特別な国という印象だそうである。自然も食事も、おもてなしも、清潔で美しくおいしい。しかも何処に行っても安全で清潔でハイテクで正確で安全な乗り物の国だと言う。実は私自身も海外に出てみて、同様に感じている。ハイテクとかそういうことは北ヨーロッパに行けば変わらないが、全部ひっくるめてととのっている日本は、やはり特別な国だと思う。

そこがキリスト教にとって、現状では逆境なのだと思う。みんな路上にゴミを捨てない、待つ時はきちんと並ぶ、ルールを守って秩序正しい生活をする。外国人から聞いたが、車がほとんど通らない交差点で、赤信号になったら止まり、青になるまで車1台も通らないのに、ただじーっと青信号を待っている。「ショックだったぁ」と。そんな国民は見たことが無いらしい。

自分さえ良ければ・・・・はこの国では表だっては見えない。そのことが福音を拒んでいるのだ。罪の意識すら無いところにどうやって悔い改め、滅びを自覚し、救いを神に求めるのだろうか?
しかしどんなに私たち日本人が自己正当化し、自分たちには罪がないと思おうと、人は皆、罪人であるという原罪は真理であり実際なのだ。十字架のイエス・キリストを信じなければ、皆、滅びるのだ。

聖書を読むと、神の子イエスは、悔い改めを私たちに求められた。

"また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも多く、罪の負債があったと思いますか。
そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」"
(ルカの福音書 13章4~5節 聖書 新改訳2017)

日本人が悔い改めるのは、きっと未曾有の困難が襲ってくる終末期なのだと私は思っている。首都圏の大地震、世界的な戦争、食糧自給率が世界でも最低のわが国が飢える、その時醜い人間の本性が表され、悔い改めるのだろうか。

私たちは普段から祈り、備えていきたい。



ケパ



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名前が変わった

2018年12月11日 | 示されたこと

主日礼拝前日のアンテオケ教会ニュースに、
‥9日の主日第2第3礼拝には入院中のP牧師が外出され、メッセージされます。そして、衝撃の報告がある。‥
と伝えられた。衝撃の報告❣️なになに〜

みんなでオンライン第3礼拝を覗き込む様に集中して視聴。
お元気そうなP牧師。
そして報告は、確かに衝撃的でした。


教会の名前を変えますと、少し長めの横の生活(ベットで横たわる)でのとりなしと祈りの中で、ある日強く主に望まれ、衝撃的な示しをうけた。
それは「主の十字架の時は過ぎた」
名前を変えなさいと示された。
変える事により実質は変わって行く。

ですから、
主の十字架クリスチャンセンター
東京アンテオケ教会から

英語表記 で
The Light of Eternal Agape 東京アンテオケ教会

略称は、TLEA

地方の教会の皆さんも祈って決めてくださいと言われました。

私達の船橋教会もケパ牧師が、祈り決めました。
英語表記 で表します
The Light of Eternal Agape 船橋キリスト教会


通称 Agape 船橋キリスト教会です〜
Agape(アガペー)は
神の愛

ドルカス



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする