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ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

映画「大いなる沈黙へ」

2014年07月29日 | 映画•映像

Photo   映画「大いなる沈黙へ」とは、フランスアルプス山脈に立つグランド・シャトルーズ修道院を長期取材した、ドキュメンタリー映画だ。

  それもかなり変わった映画で、立ち入りを許されたのは一人だけ。つまり監督・カメラ兼録音など、すべてを一人でこなすしかない。だからセリフというものがない。延々とムービーを回すと同時の、その実況録音しかない。それが雨の音、歩く音程度・・・ほとんど昔のサイレント映画なのだ。それが2時間55分続く。唯一あるのはミサ時のグレゴリアン・チャント風、修道士たちの生歌だけ。

Photo_2   しかし私は非常に興味があった。なにしろ世界一厳しい修道院だそうで、撮影許可が出ること自体、稀有なことだそうだ。その意味では非常に価値がある。

 また「何が厳しいか?」というと、会話の厳禁だろう。なにしろ日曜日の昼食後の散歩の時だけで、後は無言で丸々一週間過ごすのだ。おしゃべり好きな人間にとっては、発狂ものだろう。

 25才の時、わたしはこの修道会ではないが、カトリックの修道院に入ろうとしたことがあった。そういう意味でも大いに興味があった。

  この映画の価値を、ある人は修道院を取り巻く美しいアルプスの自然に目を向けるかもしれない。
また、覗き得た修道士たちの生活かもしれない。しかしそれは本質ではない。本質は沈黙なのだ。

 沈黙には意味がある。神の声を聞き、御心を求めるにPhoto_3は、私たちが饒舌であってはならないのだ。少年サムエルのごとく「しもべは聞きます、主よ、お語り ください」なのだ。その背景には、老修道士が語っていたように、「神は私の全てを知っておられ、私たちには善なることしか神はおできにならないのだ(という信仰を語っていた)。(自分は老いて盲目になったが)これにも神が自分の魂をきよくしてくださるお恵みなのだ」と。

 だから修道院は静寂の中、自然の音以外は静まりかえっている。人は沈黙し、ひたすら聞き役に徹して祈りに専念する。

 確かに聞くことは、あれこれ願い事や求めの祈りをすることより、はるかに優ることに気づかされた。そしてこれは、かねてそうではないかと思っていた私に、ある確信を抱かせるものにもなった。

 唯一疑問点をあげるとすれば、映画で幾度も登場する御言葉風なものが、おそらく聖書ではないか、または、かなりの見当外れの誤訳が聖書と同等に扱われていたことだ。これはいただけない。(神保町岩波ホールで公開中)  ケパ

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ノア 約束の舟

2014年06月18日 | 映画•映像

Photo  観てはいけない映画というものがある。最近ではこの映画のことだと思う。
 どうしてか?聖書に名を借りた悪霊的な映画だからである。クリスチャンの人によっては聖書的な内容が70%とか50%とか言う人がいるが、これはー100%である。教会員と共に観たが、観ているうちにそれぞれ気分が悪くなったり、吐き気が催されたりして、最後まで観つづけて居ることが難儀なことであった。

 ここまで勝手に作り変えられるのか?と思えるほど嘘八百のきわめて人間的な脚本だった。だからつい、神の裁きが監督に下らぬよう祈らされた。

 石の化け物になった堕天使たちが方舟作りをしたり、ノアたちをトバルカインの軍団から守るとか、そのトバルカインが方舟に乗り込んで来て、ハムを操縦して父のノア殺しをさせようとしたり、ノアへの神のミッションとは、家族が方舟で一時的に延命しただけで、一人一人と皆死んで、誰ひとりこの世に残らぬようにすることだとか(>_<)・・・・そのあげく自分の孫が生まれたらなら、人類の生き残りにならぬよう即座に殺そうとする・・・・こうなるとノアは悪魔の化身である。

 これは聖書をよく知らない人たちをたぶらかそうとする、聖書の内容をなぞった、実は反聖書的映画であって、悪霊的な映画である。特に霊的に弱い人は、観に行ってはいけない。    ケパ

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「ネルソン・マンデラ」の映画

2014年05月29日 | 映画•映像

Photo  公開されたばかりの「マンデラ 自由への長い道」を観た。

 

 昨年の12月に95才亡くなったばかりで、追悼の映画でもある。知る人ぞ知る世界的な偉人であったが、映画はその生涯を忠実に再現していた。人種間の憎しみを、「戦い」から「平和」へと切り替える・・・・この偉大な変化を成し遂げた・・・・そんな例は数少なく、未だにアフリカでは部族間、宗教間で、恐怖と憎しみの連鎖によるジェノサイド(大虐殺)のただ中にある。南アフリカもそうなりかけたが、そうはならなかった。かえって全人種による選挙、平和を成し遂げた。キーパーソン、「マンデラ」という人物が居たからこそである(写真下は本人)。しかし、当初から私は思っていたのだが、それにはもう一人、アパルトヘイトを廃棄、マンデラを釈放し権限の委譲をした第7代大統領である白人の「デクラーク」なしにはあり得なかった話である。それゆえノーベル平和賞は、この二人のものだった。

Photo_2

 この映画を観て一つ残念に思うのは、マンデラはプロテスタント(新教)のメソジスト教会に属するクリスチャンであった。デクラークもプロテスタントのクリスチャンであった。それがばっさり削られていて、逆に「宗教では頼りにならない」風な映画にしてあった。興行的に必要なのかも知れないが、これは人間の力を称えようとするものである。人はみな平等という信念、基本的には非暴力、特にあれだけ多くの犠牲者を出しながら、プロテスタント系のクリスチャンでなければ、その「一切を赦す」的な発想は出てこない。それがカットされていたのだ。
 特に下記の有名な<マンデラの言葉>をご覧いただきたい。私はキリスト教臭さを排したこの中に、最大限クリスチャン的な臭いを感じるのだが。


 キリストは史上もっとも残忍な処刑である十字架の上から、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです(
ルカ伝23:34)。」と語られた。アメリカの黒人奴隷解放においても、南アフリカ共和国においても、過ちや紆余曲折をえながらでも、結局は聖書を信じる民と、その人々に現された神の力を見る思いである。

<マンデラの言葉> 

生まれたときから、肌の色や育ち、宗教で他人を憎む人などいない。Photo_4

人は憎むことを学ぶのだ。

もし憎しみを学べるのなら、愛を教えることもできる。

 愛は、憎しみに比べ、より自然に人間の心にとどく。

   ケパ

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映画【31年目の夫婦げんか】と私

2014年05月02日 | 映画•映像

Photo  この映画はビデオショップに立ち寄ったドルカスが、めずらしく「観たい」と、たってのリクエストだったDVDだった。観てみるとすごくこころに残る映画だった。できれば夫婦の全ての人に、「一度は観てください」と言いたいほどの内容だった。

 主演がメリル・ストリーブとトミーリー・ジョーンズと来たら、間違いなく秀作を予感させる名優ビッグ2だ。ストーリーとしては、31年もの結婚生活を経て、寝室が異なる家庭内別居状態の二人、そのことに妻はもう耐えられなくなっていた。そして最後の解決の望みを、ネットで探した専門医に託すという展開だ。
 私ならDr,ではなく、まことの神に頼るが、しかしそれとは別に全員に一見をオススメしたい価値のある映画だと思う。映画の展開の途中、私にも思い当たることが多々あって、後悔で胸が少々痛いからだ。

 それにしても「互いの心のすれ違い」はなぜ起こるのだろうか?ずっと先の妻の亡き後、考え続けていた。この映画ではまさにこの点を、複雑に絡み合ってもつれた糸をほぐすようにして暴いていく。暴いていけばいくほど、ほんとうに些細でくだらないことのばかりなのだが・・・・・。一つ一つが悔い改めずにはおれない数々なのだ。

【閑話休題/私のこと】
Photo  私はドルカスと結婚する時、以下の教訓を胸に刻んでいた。なぜなら、夫婦関係で成功することは人生で98%成功することに等しい。たとえ財をなし、社会で地位を得たとしても、そのことをともに喜んでくれる妻(=家族)なくして、何の成功だろうか?そんな成功は、私にとってはドブ(川)に捨てる類いのものだ。

一つ・・・・「夫婦げんかは避けられないが、必ずその日の内に仲直りをする。ベッドの中までは絶対に持ち込まない」こと。放っておくと、些細なとげでも化膿をはじめてしまい、最後は壊疽になって死に至る。テニスは勝負がつくまでは時間制限がない過酷さがある。しかし夫婦間はサッカー方式でいく。つまり「その日中に」という時間制限を設け、延長しても決着がつかねば体面を考えずPKでその日の内にけりをつけてしまう。夫婦は実に一つのからだであって、勝者はいない。

二つ・・・・「(家庭内別居も含め)一致のない結婚は幸な結婚ではない」こと。当初の愛が醒めたのは、相手から得ようとして得られず、その自分勝手な夢をあきらめられない未熟な自分があるからだ。夫婦間の問題はすべて50:50であって、どちらかに一方的な責任があることはあり得ない。まず自分を与えられなくて、何を望むのか?ただしそれは、人には出来ない。神に祈り続け、神の力によって可能となる。

三つ・・・・「(私は嘘について寛容な家庭文化の出身なので)どんな小さなことにも、決して嘘をつかない」こと。たとえ自分の人間性についての信頼を伴侶から得られなかったとしても、正直であり愚直であることの信頼は得られる。

四つ・・・・「できるだけ二人で行動し、四つの目で見て回る。」面倒でも時間と体験を共有しなければ、そこにズレが生じ、理解と一致は難しくなる。だから私たちはいつでも一緒に動くのが方針。やむを得ない時には、できるだけ途中で合流し、互いに違った時間の埋め合わせと話をする。努力無くして一致はないと思うから。   ケパ

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牧師の休日

2014年04月28日 | 映画•映像

Photo  船橋教会は月曜日をフル休日、木曜日を半ドンの休日にしている。休日は神さまを思いながらも、最近は毎週のように行く歯科医院での治療や、猫のコールのお相手(写真)をしています。

 またこの日は夫婦で近くのララポートに映画をよく観に行くのですが、ここ数週は観たいほどの映画もなく、今日はDVD「31年目の夫婦げんか(写真)」を鑑賞しました。意外やこれがなかなかよい作品で、夫婦関係がおかしくなってきた夫婦は必見、なかなかよい映画でした。ちょっとした相手への拒みの応酬が互いに傷となって、なかなか元に戻れないという、身につまされるお話でした。

 ただし私たちには最高のカウンセラーである主イエスさまが二人の31真ん中にられます。二人が神さまに向かっている限り、この映画のようなカウンセラー医師は要りません。   ケパ

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映画「LIFE!」

2014年04月09日 | 映画•映像

Life  映画「LIFE!」を観た。ひと言で言うと、難解な映画で、見終わって「何が言いたい映画?」と言う感じだった。

 しばらくあちこちのシーンを思い出して考えてみる。すると「主人公の妄想癖、主人公が妄想並みの行動を余儀なくされて行く内に(妄想以上の実行をするので)見なくなっていった」とか、「最後の25番ネガの意味って、『青い鳥』みたいだ・・・・」と気づく。

 最後まで「これって、あり得ないだろう」感はあるのだが、主人公ベン・スティラー演じるウォルター・ミティに対し、否定的なものから肯定的な「あり得ない感」に誘導されて行くのが面白い。


 ズバリこの映画、ドラマとして人間性を掘り下げた深い内容は無い。しかし自分を変える、冒険する、恋を成功させる・・・・そういうポジティブを美しい映像を重ね、冒険に重ねて観る者をいい気持ち(成就達成感)にさせる映画に仕上がっている。しかしそれは非現実の、都合良く作られた映画の世界であって映画の世界だけのもの。そう映画のように簡単には乗せられる訳にはいかない・・・・現実はやはり危ういという冷静さ、警戒心をも同時に起こさせるものである。


 よくも悪くも、映画らしさを凝縮した秀作だと思うが、どうもあまりにも都合よく作り過ぎているところが気にはなる。   ケパ

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映画・それでも夜は明ける・・・・・12年間奴隷だった

2014年03月19日 | 映画•映像

Photo  1841年に金目当てに誘拐され、南部に奴隷として売られた自由黒人を描いた作品で、彼は解放されるまで12年間も南部のプランテーションで生き抜いた。奴隷は家畜同様に所有物としてムチ打たれ、殺され、使い捨てられた。奴隷の値段も家畜程度であったという。しかし元々の奴隷というものはなく、彼の場合は犯罪の犠牲者であるが、大部分はもともとアフリカの大地で自由に生きていた人々なのだ。
 後で調べてみると、北部の自由黒人がこのような目にあったのは、次のような背景があった。

 1:奴隷貿易がイギリスに次いでアメリカも禁止され、綿花などの生産を奴隷に頼る南部諸州は、労働力供給不足に陥っていたこと。
 2:逃亡奴隷が北部まで逃げると、北部諸州はその引き渡しを拒んだこと。これは映画でも主人公を逃亡奴隷として扱っているように、秘密裏に捕縛し南部に連れ帰るか、売って利益を上げようとする組織が発生していた。
 3:強固な人種差別者が南部に存在し、北部のアフリカ系黒人は元々奴隷であるとし、黒人すべてを再奴隷化しようと画策していた(戦後もK・K・Kなどに引き継がれた)。

 主人公が解放されたのが1853年だが、奴隷法があったような時代、そして南部の奴隷制で富裕となった南部人の政治力で、結局彼を売った音楽仲間二人は無罪、南部へ運んだブローカーも無罪になった。この事態に対し、ちょうど主人公を助けたカナダ人大工ような、神の前に人はみな平等であるとするクリスチャンたちによって奴隷をアメリカの国辱とする論争が持ち上がった。結局7年後に奴隷解放論者であるリンカーンがアメリカ大統領になり、第二次大戦をしのぐ、アメリカ史上最
Photo_3大の戦死者62万人を出した南北戦争(右絵)がはじまった。このことは昨年の映画「リンカーン」にも詳しい。

 この南北戦争が始まるまでの8年近く、奴隷から解放された主人公は、南部の奴隷救出のための活動に身を挺し、経験を書物に著し、おそらくはこれらのために最後は殺されている。

 私はこの映画を観て、このような非道な黒人奴隷制度を廃する為、南北両軍併せて死者だけで62万人の白人たちの血が流されたこと。そしてそれは今日のような人権人道主義者たちの手によってではなく、真のクリスチャンたちが、南部の恐るべき犯罪的偽クリスチャンと戦った血の勝利であることを知った。またこの映画の主人公のような、南部の同じ黒人たちのために命を惜しまず働いた勇気もあったことだろう。

 さらにこの黒人奴隷の話を、遠い国のことのように考えてはならないと思う。我が国にも奴隷制こそ存在しなかったが、差別問題があり、今だに自分は元武士であるとかないとか・・・・・血筋を誇る話もまれには小耳にはさむ。これら血筋家柄を云々する話を聞く時ほど、耳をふさぎたい思いをすることはない。時には語る人の目
Cgh13を「じーっ」と見てしまう。真底人間の弱さ、罪深さを思い、悲しいからである。かつてわたし自身にもあった、悔いてやまない差別の心を思い出す時でもある。

 神の前に人は皆平等である。この世ではともかく、この映画でも再三語られたように、神の審きの前ではどのように自分の罪を申し開きするのであろうか?私の過去も含め、徹底的に神の前に悔い改めるしか道はなく、また神に罪を告白すればそれは必ず赦されることが救いだ。         ケパ

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大統領執事の涙

2014年02月18日 | 映画•映像

Photo  予告編で「観たい」と思っていた映画が公開になったので観てきた。実在の人物を描いた「大統領執事の涙」だ。

 実は見終わって少し混乱した。この映画のテーマが「父と息子の和解」なのか、「7代の大統領に仕えたたぐいまれな執事の話」なのか、でである。しかししばらくして、その両方ではなく、やっぱり原題「The Butler(執事)」にあることがわかった。そういう意味では、映画の日本語題名は原題とは違うし、映画の意図をわかりにくくさせていると感じる。 

 アイゼンハワーから七代の大統領に仕える、これは確かに凄いことなのだが、結果的に言うならそれは「白人への服従」に徹したからに他ならない。主人公が七代に仕えた・・・・・それはこの七代にどれほどの黒人の地位の変動があったかの生き証人として映画が語ることであって、決して大統領の執事そのものにという意味ではない。つまり息子が言ったことばによく集約されている。

「世の中をよくするために、父さんは白人に仕えている」

その父の仕事を恥じ、黒人の権利獲得運動に身を投じて、国と戦う長男。
兄とは反対に、国のために戦う事を選び、ベトナムへ志願する次男。

 この三人の生き様がまさに映画の主題となっている。次男は戦死し、空しさを現している。父は長男たちが戦って獲ち得ていく権利、それを大統領のそばで目の当たりにする。ホワイトハウス内での黒人執事たちが獲ち得た待遇の平等化も、実は息子たちの捨て身の戦いなくしては得られないものだった。そのことに気づいた主人公は、執事としての誇りも意欲も失い、最後には辞職する。そして息子の運動に身を投じていく父は、自らの生き方を悔い改める。
 権利とは、黙って棚ぼた式に得られるものではなく、戦って得られるものだ、と映画は訴えているように思える。原題「The Butler」とはその証明がリアルに描ける、そんな職業であるということではないか。それは黒人大統領オバマの誕生をラストに持ってきていることからもわかるのではないか。

 人間差別は絶対に恥ずべき悪であると思う。が、かなり極端な人物像(例えば、好きなように黒人奴隷を殺す農園主)が気になる。今の肉体を離れた永遠の住まいでは、彼の罪は殺人者として裁かれる。また執事として忠実なことは、決して間違いではなく、すばらしいことである。そのことはキング牧師が力説した通りである。だから主人公の悔いは、息子に対する父としての対応の悔いであったと取りたい。神の前には、奴隷も主人もなく、みな平等なのである。  ケパ


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今日の映画

2014年01月27日 | 映画•映像

今日の映画
   少女の頃から、なぜか「倍賞千恵子」さんが好きで、 今回のこの映画を観たい理由のひとつでした。なかなか邦画も良いですよ。ケパさんは「不倫!話しではどうかね」と首をひねっていましたが、今夜観たのは

 

山田洋次監督の「小さなおうち」

 

昭和初期のおしゃれな赤い屋根の洋館が舞台での話を、アコーデオンのアコーティックなメロディをバックに観るのは何とも心地よかった 。最後に謎解きがされるのだけど。

 

倍賞千恵子役のおばあちゃんが孫のような青年に勧められて自伝を書き綴る、それを本人が語るのだけど、その倍賞千恵子の声や仕草がなぜか、昨年召天した母を思い出すのだけど、なぜだろう。 ドルカス

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映画ゼロ・グラビティ

2014年01月07日 | 映画•映像

Gravity  昨日の月曜日「ゼロ・グラビティ」を観た。原題「グラビティ」とは重力の意味なので、「無重力」、つまり無重力空間が題名だ。この映画は3Gで観ないと価値がないそうで、専用めがね¥400をプラスしての鑑賞となる。館内に入ると3G専用らしく、壁がぐるりとスピーカーで囲まれ、映写機もいっぱい。

 登場人物は二人だけで、それをサンドラ・ブロックとジョージ・クルーニーが演じる。地球を回る宇宙ステーションを、突然、衛星を爆破した残骸破片が襲い、ステーションは大破し即死、ただ外作業をしていた二人だけが生き残る。そこから地球への絶望的な帰還を試みるのが映画のストーリーだ。

 どうやってこの宇宙空間を撮影したのだろうかと、驚くほどの映像のできだった。無重力のリアルティーある映像と、光源が常に特定の方向からあって、非常に精密な、かつてない映像作品であるといえる。きっと後になれば、「あの映画以降」と言われるほどのものだろうと思う。

 さて非常に気になったのは、主人公のサンドラが、死を覚悟したシーンで「どうしょう、お祈りのし方も知らない」なんて言うところがあった。続いて「これで先に(わずか4歳で)死んだ娘と会えるわ」とも言う。宇宙飛行士になるぐらいの成功した科学者でも、最後は霊魂の不滅を信じ、祈ろうとする。
 人間はどんなに「神は要らない、弱者のものだから」とはねつけていても、最後は必ず皆、一人残らず死ぬのが定めである。そうなんだ、最後の最後には、人は皆そうなのなら、どうしてその前から備えていかないのか?と思わされた。その時になってからでは遅い。脳卒中や心臓麻痺、あるいは事故で、人は瞬間的に死ぬことが多い。そうなってからでは、悔い改める時間がない。遅いのである。手遅れになる前に、是非キリスト教会に来て欲しい。    ケパ

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