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ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

風に立つライオン

2015年03月24日 | 映画•映像
この映画はさだまさしの原作「風に立つライオン」から出来ている。近年の日本映画の中では、伝えたいメッセージ性の高い、出色の出来だと思う。そしてこの映画の公式サイトの作品紹介→原作には次のような文が載せられている。

「(さだまさしが)ケニアの長崎大学熱帯医学研究所から帰ったばかりの柴田紘一郎医師に出会い、彼の語るケニアに憧れたのはもう40年以上も昔のことになる。
フライング・ドクター、国境近くの村、患者達の美しい瞳、闇夜のダンス、サソリ除けの足の金輪、満天の星、フラミンゴの大群、遙かなる大地、遠く霞むキリマンジャロ山、巨大な象のシルエット……。
そのようなひとつひとつの言葉が見たこともない風景の向こうからいきなり飛び出してきて、僕の心に突き刺さったのだった。
以後プロの歌作りになってから、ずっと彼の語る青年医師の感じたケニアは僕の大切なテーマとなり、憧れとなった。・・・略・・・」

アフリカの大地で、現地の人々の為に、命をかけて、医療と心のケアのために生きた一人の日本人青年医師のストーリーは、さだ本人が若い時分に聞いた医師の実話に触発された、さだまさしの創作である。大沢たかおが映画にしたいとさだに申し出て、それでさだまさしが書き上げ、映画になった。
人が生きる、何が大切なのか、それぞれの選択のようでいて、そうでない、生きる充実度、そのことを問うている作品のようでもある。ただキリスト者としての私から見ると、東日本大震災への「絆」以上の、命を超越した永遠の希望が欲しいと欲張ってしまう。(下写真はアフリカでロケ中の主演大沢たかおとさだまさしのワンショット)

なお、さだまさしが歌っている「風に立つライオン」の歌がこの映画の公式ホームページに載っている。映画の最後にこの曲が流れ、感動を一層高めた。ぜひ視聴をお勧めするとともに、早めに映画を観られたし。ケパ
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月曜日は、映画の日?

2015年03月23日 | 映画•映像
というわけではないけれど、私たちの休日には、結構映画鑑賞に出かけることが多いかな。それぞれの用事を、特に家事などを済ませて夕方から出かけるが多いね。夫婦割とか、シニア割利用できる恵みも、惜しげなく通える?o(^_^)o
今夜はケニアの大地に繰り広げられた話題作、国際医療ボランティア活動に従事した、実在の医師から聞いた話を心にとめ、そのことを作詞作曲されたさだまさしさんの「風に立つライオン」の楽曲が映画化されたそれです。予告編が流れ始めた頃から、心に留め観たいと思った作品です。
面白いことに3月初旬に観た「くちびるに歌を」に続き、今回もまた長崎県長崎市内と五島列島からが舞台の展開でされてる映画で、今私たちには旬な、ながさきです。


我が家のライオン‼️
写真ないのでコールで代用ですが‥‥この映画観賞お勧めです。
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映画 「くちびるに歌を」

2015年03月09日 | 映画•映像
この映画はもっと高く、ブームになるほど評価されるべきだと思った。それほど久しぶりの日本映画の良作だと思う。

「二十四の瞳の再来」とキャッチフレーズにあったが、全然違うストーリーであって、例えるなら日本アカデミー賞の「スウィングガールズ」の方が近いと思う。背景は長崎県は五島列島の、小さな島の中学校の合唱部。主役の臨時音楽科教師の新垣結衣、生徒の代表、恒松祐里それぞれに深い喪失感を持たせ、本音での彼らの再出発がテーマになっている。

個人的には「梅ちゃん先生」でおなじみの木村文乃が、これぞ女優!と言わんばかりの名脇役を演じてる。また個人的には、作品の出来不出来はストーリー(脚本)1番、名脇役が2番で、主役が3番だと思う。だから1、2番が良かった。音楽は霊的な力があり、映画という絵とドッキングした時の力はまさにインパクトがある。
舞台がカトリックの町で、教会堂や十字架の墓のシーンが多い上、皆が十字を切って食事をするなど、日本にリバイバルが訪れたらこんな風景が、全国で見られるだろうと幻を抱いた。

そろそろ映画の公開は終盤だと思うので、見逃された方は是非!
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サン・オブ・ゴッド

2015年01月22日 | 映画•映像
イエス・キリストの映画化はかなりある。それを十分承知で、この映画は題の通り「神の子」の福音的土台は崩さないものの、一方実際に生きて働かれた人間としてのキリスト像をとことん描ききるという難題を見事に具現化した力作である。だから感動があり、生きた迫力があった。かつてパッションではムチ打ちの音と共に、悲鳴が聞こえ体を震わせる様子がうかがえたが、この映画では静かなすすり泣きがあちこちで聞こえて来た。(写真は映画の撮影風景・マタイの召命)

ヨハネ伝をもとにしているが、出来事が時系列通りではなく、かなり意図的にされていた。しかしナルホドと思わさせられる出来事の流れになっており、個人的には特に問題視するほどではないと思う。なぜなら各福音書間でも、出来事の時系列は一様ではないからだ。(写真は母マリヤ兼、映画のプロデューサーの二人)ただし出来事は聖者に忠実で正確でなければならない。ラザロの場面ではキリストは外で立ってラザロに出てくるよう呼ばわった。中に入って口づけしたりはしていない。しかし、この程度なら演出として許容の範囲内ではないだろうか?

サン・オブ・ゴッドとは「神の子」という意味である。キリストを歴史上の生きた人物として、なおかつ人間としではなく神の子として、という意味である。だからこの映画は、安心して伝道用に用いることができる。ただし、キリストはあんなにやたら口づけをしたりしなかったと思うし、俳優の表情などに魅了されたりの偶像化しなければという前提付きだが。 ケパ
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映画「あなたを抱きしめる日まで」

2015年01月16日 | 映画•映像

この映画は事実に基づく映画化であって、一言で言えば、無理やりわが子を養子に出させられた母親の苦悩と、その奮闘記である。
事実は小説よりも奇なり、探し出す過程はたんたんとして意外続きな展開なのだ。そしてこの作品が、ありきたりの作品ではないことがわかる珠玉の言葉が随所に出てくる。

(実際の本人。未今だに息子の墓に見舞いに行っている)
事実にもとづいたこの映画を修道院による私生児母子の四年間監禁、高額な金額での幼児売買などという告発レポートにしてはならないと思う。見ようによってはそうだが、真のテーマは母の愛である。そして弄ばれたに見える母子の再会が、実は人間の心の光も闇も見事に描ききっているところが凄い!

私の心に残ったのは、修道院のシスターたちには二種類の人がいたことだ。一つは愛を持って接したシスター。もう一つは罪を犯した女性を裁き、罪を犯さなかった自分を義としているシスターと。映画のラストシーン近くでは、主人公の女性が再会を妨害したシスターに「私はあなたを許します。許しには大きな苦しみが伴うのよ。私は人を憎みたくない。」と言う言葉が胸を打つ。確かに憎しみは、抱くその人自身をスポイルさせるものだ。

確かに、人を憎んで人生を失うよりも、痛み苦しみがありながらも、許してともに生きる」という下りがすばらしい。 ケパ


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映画「天国は本当にある」

2014年12月16日 | 映画•映像
同じ映画を二回見て、「二回目の方がもっと感動した」なんてことはなかった。しかし表題の「天国は本当にある」と「神は死んだのか」は二作ともそうだった!


二回見ることで、一回目ではよくわからなかったことがわかるようになり、二つの映画の土台となった出来事が、事実あったことだとわからせてくれた。しかも、両作品とも聖霊派(ペンテコステ、カリスマ派まで併せて)の映画である。今時代は、まさにリバイバルに入りつつあるのだろうか?

今回観て心に残ったシーンについて。たとえクリスチャン家庭の息子であっても、一人は戦死として取り去られ、一人は、コルトンのことだが、皆の祈りで命を繋がれた。子を失った方の母親にとってこの不平等は、受け入れ難いものである。しかし映画ではこれを正面から取り扱っており、どんなに不幸に、不平等に思えることであっても、神の愛が全てに貫かれていて、全てが最善であったことを伝えている。戦死、流産、いたいけな子どもの死、その答えは人間の思いを超えてはるかに高く、最善である神、その愛を信じることだ。 ケパ
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映画「フューリー」

2014年12月08日 | 映画•映像
「フューリー(激怒)」と名付けられたこの映画は、第二次大戦後末期、アメリカ軍のシャーマン戦車に乗る5人の戦車兵たちの物語だ。

この映画には戦争の残酷さと、奇跡的に一人だけ生き延びる見応えのある戦闘シーン、そして、骨太い人間模様という三つが無理なくマッチしている。
しかし最も印象的なのは、聖書のみ言葉が随所に出てくることである。こんな戦争映画なんて観たことが無い。いわばみ言葉によって、彼らは絶望的な戦いに出向き、生死を超えた勇気と力を与えられ、最後の一兵まで戦い尽くした。ただの英雄的な映画に落ちず、非常に異色なクリスチャン映画と言っていい。

その端的なシーンが主演のブラッド・ピッドが、クライマックスシーンで聖書の
「 Then I heard the voice of the Lord saying, “Whom shall I send? And who will go for us?”And I said, “Here am I. Send me!”(Isaiah 6:8)」日本語で[私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」]
を「イザヤ6章」と応えるところだ。彼らはヒットラーとその親衛隊[SS]を悪の化身と見なし、人々の解放のために、自分たちは神によって召されて戦うという意識があったことだ。


余談だが、世界でも唯一稼働する状態にあるティーガー戦車(歴史に残る最強のドイツ戦車)を実際に動かして撮った映像は、ものすごい迫力だった。 ケパ
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Son of God

2014年12月01日 | 映画•映像
今晩は試写会で、表題の「Son of God」を観た
何れにしてもこれは信仰的な、素晴らしい映画である。
感想は伝道に大変良い、と感じた。信仰というものがテーマとしてあり、臨在を感じる。全クリスチャン必見の映画になるだろう。ただし、細かく言えば、このような映像化する際に避けられないのだろうか、聖書の記述との細部の違いが見られることが残念だ。映画を鑑賞する際には、その辺りのどこが違ってどこが聖書通りなのかを、挙げてみるのも楽しみの一つになりそうだ。
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二つの映画

2014年11月10日 | 映画•映像

Heaven 今日、映画の簡易試写会というか、実際の作品なのだが、液晶プロジェクターで公開前に観る機会があった。「天国はほんとうにある(原題Heaven is for real)」と「神は死んだのか(原題God's not dead)」である。少なくとも「ノア 約束の舟」のような唖然とするような作品でなく、二作品ともそれぞれに良かった。安心してお薦めできる映画だ。

 この映画、前者は四歳の長男コルトン少年が、虫垂炎破裂という危篤状態に陥った際、浮遊体験や天国に行って、全く聞かされてない流産した姉や、父の祖父と会って来たという実話だ。後者は大学で反神論者である哲学教授に一人の学生が対峙して勝利するという、
Not_deadこれも実話の映画化だ。この発端は、講義でこの教授の受講者全員が「God's is dead」と書かされるところだ。これを拒否すれば、必須単位がもらえないだけでなく、卒業も将来も危うくなるという設定だった。ちょうどキリシタンの踏み絵のような話だった。

 この映画はテアトル系の映画館で上映される。内容からして上映されることだけでも奇跡的だが、特にキリスト教色のつよい、つまり福音をダイレクトに語っている「神は死んだのか」の方が、上映館が多い、と言っても2館になっただけだが、少々驚く。この映画を、いのちのことば社が斡旋しているのだが、二作品セットのチケットを買えば2,200円でゲットできる特典がある。それで私は思いきってチケットの販売代行を引き受けることにした ケパ
Images。ブログ読書のみなさんで、もし欲しければ、そのことを連絡してください。チケットは、子どもや年配には「天国は本当にある」を、若い人には「神は死んだのか」をと、分けて使うことができる。   ケパ

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映画「Stand by me ドラえもん」

2014年08月18日 | 映画•映像

 ふつうに言えば子ども映画である。それを60代の私たちが観た。一昔前の手描き風のアニメとDraemon1異なって、デジタル画像の美しさに、隔世の感がある。私の子ども時代は鉄人28号とか、明智少年探偵団の時代だったので、これはかつて我が子と一緒に観ていた懐かしさである。今年、藤子・F・不二雄は80才だそうである。

 映画ではドラえもんと別れなければならないことを自覚したのび太は、ある行動に出る。これまでドラえもんに頼っていた、いじめっ子ジャイアンとの壮絶なバトルである。殴られても投げられても、食らいついていくのび太。それはドラえもんに頼れなくなったという、追い詰められ、窮鼠猫を噛む的な行動なのか、あるいはドラえもんを安心させて送り出そうとするのび太の思いやりの心のどちらだったのだろうか?

 わたしものび太の頃、隣近所の3人組につねにいじめられていた。帰り道待ち伏せされ、集
団でやられる。近所の大人は見て見ぬ振りであった。ある時私は、我慢も限界に達し、もうこれ以上は耐えられないと思った。これ以上やられるのでは、もう死んだ方がマシだと思い、どうせ首をくくるのなら、相手に痛い思いをさせてからでないと気が済まないと思った。抵抗すれば余計やられるのは覚悟だった。しかしどんなに殴られても蹴られても、たとえ一発でもよいDraemon2、相手にも痛い思いをさせてやろう。
 実行の時、反撃をまんべんなくするのではなく、3人の内の一人に徹底的に集
中してすることにした。当然やられるが、それはいつものことである。私は徹底的に一人に襲いかかって行った。ついにその子が逃げ出した。私は追いかけ、逃げ込んだその子の家にも土足で上がって、泣くまで徹底的に殴りつけた。当時の子どものけんかは、泣いたら負けで、もうそれ以上はやってはいけなかった。映画ののび太とよく似ている。この時も大人たちは、まったく見て見ぬ振りで、その子の親は何も言ってこなかったし、土足にもクレームが来なかった。
 
 翌日からまったく形勢は一転した。彼らが私を避けるようになったのだ。実にあざやかな逆転である。たとえようもなく痛快だった。重い雲がさっ
Photoと開けて、まぶしい太陽が射してきた感じだった。のび太ではないが、びくびくとおびえていては人間、小さくなるばかりである。しかし堂々と歩ければ、自分の前に世界が広がっていることがわかった。

 すばらしい転機だった。大人たちの不干渉は、今となってはありがたく思うようになった。もし自分で、殴られようとどうしようと、恐怖に打ち勝って戦うことをつかんでいなければ、
生きる力が未だに弱い、情けない男になっていただろうと思う。

 その点だけから言えば、今はあまりにも過保護であり、どんな世界にもある理不尽な人間の感情、いじめを克服し打ち勝つ力を奪っているとすら思う。その機会は子ども時代でなければならない。もし子どもの時に、克服する道をつかむことなく、大人になって似た状況に陥った際、もしクリスチャンでなかったなら、自殺しか考えようとしないのではないか。   ケパ

 
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