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ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

天国からの奇蹟Part2

2016年06月21日 | 映画•映像
この度も渋谷のヒューマントラストで表題の映画を観た。平日火曜日の昼間にもかかわらず、大方七割方の入りで驚いた。映画を観れば、それも納得する素晴らしい映画であった。そしてかのストーリーがフィクションではなく、事実に基づいた映画であるのがすごい。

すでに試写会の段階であらまし伝えてあるので、今回は重複しないよう特筆すべき点をお伝えしたい。まずこれはノンクリスチャンの方にぜひ、観ていただきたいということ。
多くの方は神は存在しない、奇蹟なんて見た事もない(いや、あると言うのは、どうせ大げさに言いふらしているか、インチキっぽい)と常識や、これまでの経験から判断されている。私もそうだったし、クリスチャンになってからでも、「奇蹟?そんなことは起こらない」と思っていた。つまりバリバリの聖霊派以外のすべての人に観ていただきたい映画だ。(下の写真は映画ではなく、事実を証明する実際の家族で、メガネの少女が本人)

今回新たな視点で見ると、この映画は以下の二つの事を言っている。

一つは「すべてに神の御手(奇蹟)があった」こと。
主人公の母親は(おそらくマスコミにイチイチ語るより、共同記者会見の場として教会での証しの場を選んだ)語っている。「奇蹟は(・・・10メートルぐらいの高さを頭から落下して、首などの骨折一つなかったこと、ほとんど望みが無かった難病がそのショックで瞬間的に癒されたこと以外に)、いたるところにありました。奇蹟は満ち溢れていた」と。
これが分かるようで、少し分かりにくかった。私なりに解釈すると、奇蹟(=神の手、神の業)は娘を思いやるボーイフレンドの優しさに、シカゴ子ども病院の受付け係が意を決してDr.に話したことに、レストランのメイドの慰め手の出現したことに、飛行機の搭乗券の発券にも、小さなことのすべてにあったということ。
神を信じない人は、これらすべてを偶然で処理し、そこに何の意味も見出さない。それらに繋がりは何もない。しかし神を信じる者には、上記に挙げた一つ一つのそれまでのことの何一つ欠けても、最後の大奇蹟に至ることはなかった。だから娘の病、苦しみ、それらを通して神の綿密で周到な恵みの計画が、今となっては私は分かりました。私は本当に不信仰で間違っていました、という悔い改めの証言なのである。

二つ目は、どうしてある者は死に、ある者は(奇蹟的にでも)癒され生かされるのだろうか?その生死の分かれ目、神の御心とはなんだろうか? この問いに正しく答えられる人間は、おそらくいない。
しかし間違っている可能性が高いが、想像し類推することはできる。小児ガンで早逝した少女の父親が証言したように、十字架をプレゼントされ神を信じた少女は、苦しまずに、平安に死を迎えることができた。人は生まれたからには、必ず死ぬ。神を信じなければ死は怖いもの、恐ろしいものであり、苦痛は避けられない。しかしむしろ天に行ける希望の道となれば、痛みより喜びがある。この少女の死は、その父親をして奇蹟を信じる(つまり天国があり神は存在する)者に変えた。

奇蹟によって生かされ証しすることに神の御心があり、(奇蹟が無いようにも見える)天に召されることにも、大きな奇蹟、神を信じるという神の計画と最善がある。だから神を信じればわかることに、神はご自分を信じる者のそれぞれの人生に、最善のことしかお出来になれないお方なのだ。それが、それぞれの人生にある奇蹟でもある。

ケパ



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復活のキリスト役は!

2016年06月09日 | 映画•映像

映画「復活」が上映中である。大方の評価もとても高い。けれども「玉に瑕」という表現で、「キリスト役の俳優がアラブ人では、いかなるものか?」と言うのがある。アラブ人とはイスラム教徒(ここではムスリムと表現する)の間接的表現である。映画が始まるだいぶん前にこの情報を目にした時、「まさか、ね」だったが、上映されている最近も広まっているようで、コメントにも見ることがあった。イスラム教の知識が少しでもあれば、いかに俳優といえども破門覚悟でないと、キリスト役は絶対に引き受けられないはずだから、「あり得ない」はずだが・・・とどうしても疑問に思った。

実際に映画を観ての私の感じは、(アラブ人かどうかわからないが)彼はクリスチャンである、と言うものだった。確かに風貌はアラブ的である。しかしムスリムではあの演技はできない。たとえ演技でも、キリストの愛とあたたかさがはっきりと伝わってきたからだ。しかしそれでも「アラブ人」という見方が払拭されないので、少し調べてみた。

彼の名はクリフ・カーティス。なんとニュージーランドの入れ墨で有名なマオリ族の出自である。そして映画ではチェチェン人の役もしているので、そこら辺の画像が流布して「アラブ人」の証拠にされたのかも知れない。マオリ族はアニミズム的な宗教を信奉している。そこで気になって調べようとしたが、英文サイトにしかなく、拙い言語力で翻訳してみると、彼はマオリ族ではあってもカトリック教徒の家庭の育ちであって、子どもの頃は、教会のミサで白い服を着た従者をしていた、と。これはかなり熱心なカトリックの出ではないか。そして彼の体に入れ墨がないのも当然である。クリフは子どもの頃からキリストの役をしたいと熱望していた。演劇学校を自国とスイスで終え、数々の映画に出演し・・・それで映画で幾度か見かけたことがある・・・今回のオファーが来た時、五十少し前でしかも非白人の自分が、キリスト役を演じられることを心から喜んだ、とある。かれはこの映画のために、キリストになりきるために、家族と四十日間別居してまで心を備えたらしい。

この映画は史実に忠実たらんと徹底している所が多い。復活という常人には信じがたいこと、しかも事実をテーマにしているのだから、当然の態度かも知れにない。そのこだわりはイエスをジーザスでなく当時の言語であるアラム語で「イエシュア」と呼ばせたり、従来長髪の白人で描かれてきたキリストに多国籍俳優のクリフを抜擢した。なぜなら当時のユダヤ人は現代人が思い浮かべるアシュケナージ(白人)ではなく、スワラディ(背が低いアジア人)であったことがほぼ定説だからだ。

事実は真逆であった。これは私の想像であるが、このような風評が流布した背景には、クリフのキリストに対する人種的な偏見があったのではないか、ということである。キリスト教は西欧社会のもので、これまで数々の絵画、映画にもイエス・キリストはすべて白人として描かれていた。舞台設定はアラブ風にし、民衆もそのようにしても、キリストだけは自分たちと同じ白人・・・その概念を打ち破られたくなかったのではないか、と。情報がネットでは様々に流布される。

しかしその情報に流されず、私たちは自分の見たこと、感じたことを土台に判断しなくてはならない。クリスチャンの場合は、聖霊が内住し、(実際の生の声は少ないが)聞くことができる。世に流されてはならない。神に従って真実を求めよう。クリフが演じたキリスト、かなり多くの部分、「さもありなん」と私は同感する。この映画の価値を風評で損ねてはならない。   ケパ

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映画「復活」

2016年05月31日 | 映画•映像
渋谷の映画館で表題の映画を観た。これまでクリスチャン映画を何度か観に行ったが、今日ほど映画館の内外で主の十字架の人たちにたくさん会ったのは初めてで、広報の威力はすごいと思った。
ところでこの映画、試写会で観たので二回めだが、二回観ることでさらに気づくことが多く、それはとりもなおさず内容のある良質な映画であると言える。何に新たに気づいたのか、と言えば次の点である。

◯イエス・キリスト役の演技~基本的にはビートルズのような長髪で鼻筋の通った知的な面長、というのが多かったが、今回はイケ面でもなく、ちょっとハグが多いが、元大工らしい庶民的なあたたかさというものが強く出ていた。これは新たなキリスト像とも言うべきである。

◯この映画は聖書に忠実な映画である。奇跡を奇跡とし、事実あったこととして伝え描ききっていた。キリストの復活はもちろん、皮膚病者への瞬時の癒しなど、そこだけが注目されることのないように数を控えながらも、復活の奇跡や不思議が聖書の記述のまま、実に忠実に描かれていた。特筆すべきはキリストの復活は、蘇生とかのいわゆる再びまた死んでしまう「生き返り」ではなく、御霊の体としての新たな体となっての現れ(The Resurrection)を強調していた点である。
それは物理的な空間や時間の制約を超越する。だから御霊の体であるキリストは突然室内に現れ、突然皆の目の前で消えてしまわれるのだ。そこをしっかりと描ききった点など、一歩間違えばナンセンスと評されることを恐れず、とにかく聖書に書かれてあることをそのままなんの解釈も付け加えないで描いており、これまで観たことのない忠実さであった。

◯映画の冒頭シーンとラストのシーンが継ぎ目なく繋がっている(シームレス)のであるが、最初、これではまるで弟子たちと行動を共にすることを拒否した主人公が、新たに自分探しの旅にでも出かけるのだろうかといぶかしく思った。
しかし二回観ることで、主人公クラヴィアスがローマ軍司令官の指輪を食事の代価として置いたこと、そして回顧を通しての「私は今、変わった」と言う言葉が、明確に信仰に覚醒したことを表しているのだということがわかった。

次は余談だが、キリストが葬られた場所としては現在「聖墳墓教会」と「ガーデンチューム」があるが、この映画は後者の説に立っている。だから「ゴルゴタの丘」は出てこない。だいたい丘というような、そのような聖書上の記述はどこにもない。この映画での十字架の処刑場は丘ではなく、今はガーデンチュームに隣接しているバスの発着場辺りを想定しているのがわかる。私も個人的にこちらの説をとりたい。
それから次は全くの余談・・・映画を観ながら主役のJoseph Fiennes(ジョセフ・ファインズ)をどこかでよく見てるよな、と思っていると、気づいた。ユニクロの宣伝に出てくるテニスの世界No1プレーヤーのジョコビッチそっくりであることに気づいた。これはまことに余計なことでした。
以上、先週の土曜日から公開で、今のところ公開は二週間と聞いている。キリスト教映画のほとんどが十字架で終わりになっている中、考えてみれば、十字架は復活してこそ完結なのだ。クリスチャンでも十字架は信じていても、御霊の体での復活を観念的でなく、事実として自分たちもそうなると信じている方は少ない。
聖霊のバプテスマを受けていないということは、霊的なことや復活に対する確信というものが弱い。聖書ではこれを「証印」と言っている。繰り返すが、聖霊与えるためにキリストは人々の罪によって十字架にかかり、復活して罪を滅ぼされた。
罪が赦されてなくなったその上に聖霊が住まわれ主として働かれることができる。この映画を観て、復活の恵みを特別に感謝することができた。 ケパ





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映画「天国からの奇跡」

2016年05月24日 | 映画•映像
今週の土曜日からキリスト教関連の三部作の一つ「復活」が封切られる。是非初日の9時、または9時半に渋谷のヒューマントラストに出かけていただきたいと思う。その他の映画館はお調べください。(下写真は復活)
さて今日は試写会で三部作の一つである「天国からの奇跡」を観た。
今月の「復活」は、「パッション」の続編、キリストの復活がテーマである。来月は今回試写会での「天国からの奇跡」、再来月は心震わさせられる最高傑作「祈りの力」である。それぞれ聖書と信仰を実生活に適用する素晴らしい作品だ(試写会場で)
ではこの「天国からの奇跡」は何なのかと言うと、<神は困難をゆるされるが、それは私たちを愛していてくださるが故>である、と私は受け取った。それってすごく真逆のことのように聞こえるが、人間というものは、苦しまなければ真の価値が何かわからない存在だ。貧乏しなければお金の価値がわからないし、痛まなければ人の痛みにも共感できない。悲しみがなければ喜びも沸かない。
確かに神は、人間というものの真の姿を知っておられるのだ。だから聖書をひもとくと、モーセもヨセフもダビデも、みな神からこの上なく苦しめられ、試されたが、それぞれ愛された。困難なくして愛はわからない。

この映画はフィクションではなく、実在の家族をもとにしたものである。そして映画の中で出てくる妨害者たち、神の奇跡を受け入れられない一部の教会員たち、この群れではほとんどいないが、実は多くの教会では普通に居る。時には牧師までがそうだったりする。これは神を信じていないのではなく、自分の頭、知性で神を、信仰を理解しようとしているからだ。
しかしその信仰には真の喜びも感謝も、そして力もない。そのような方を含む、すべての方々に見ていただきたいと心から祈る。なお蛇足であるが、母親役を演じたジェニファー・ガーナーが教会で証をするシーンだが、感動した。
後で聞くと、それは演じてはいたが、クリスチャンである本人自身の家庭状況から、本当に悔い改めた心からのことばであったようである。どうりで迫真ものだった。 ケパ



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試写会

2016年05月24日 | 映画•映像
昨日のうちにUP出来ませんでした。 詳しい情報はケパさんからありますよ。
クリスチャン映画の試写会、今回は「天国からの奇跡」
恵みで三作全て試写出来ました。あっこれ抽選でしたが、早めに申し込みしていたから観れたかな?
もちろん全て劇場の大きなスクリーンで観ますよ。
28日が初日、入場者数でさらに上映される場所が増えるようです。多く方々が観る機会が増えるように祈ってます。
ドルカス


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映画「ROOM-ルーム」

2016年04月12日 | 映画•映像
 本年度アカデミー賞の主演女優賞をとった「ルーム」を観た。これは同名小説の映画化であるが、アメリカでの17才の女高生誘拐監禁事件を背景に、母子の戦いとその後のいやしを描いたものだ。
 映画は五歳になったジャックの誕生日から始まる。日常的なバースディーケーキ作り、それに立てるロウソクをほしがるジャックから、次第に母子の過酷な現実が明らかになっていく。ありがちなホラー的なキワモノでなく、どんな状況にあっても息子に愛をそそぎかける母の強さ、子どもの愛らしさと共にこの映画のテーマが描かれていく。
 ネタバレにならぬよう中心点だけを言うが、この映画の真のテーマは観る人に委ねられている。ジャックが徹底的に守られ、男性恐怖症にも、憎しみに包まれることもなかったことにある。だから解放後ジャックがもっとも速く過去を受け入れ、社会に適応し、母を幾度も解放する力になった。

   ・・・・なぜか?・・・・

 私の見方はこうだ。ジャックはむろん憎い犯人の子だ。しかしインタビューアーが明らかにしたように、生理学的なその事実を彼女はがんとして受け入れない。「100%私の子」だと。このことからいくつかの不思議が明らかになっていく。一つの部屋だけの世界で、二人は現実から互いの精神を守る架空の物語の世界にいることで守られたこと・…どうしてあそこまでジャックを男から隔絶しようとしたのか。どうしてジャックを心から愛し、男への憎しみから守ることができたのか・・・・など。そう、人がどんな理由があろうとも、憎しみに取り憑かれるなら、その憎しみの剣をしまっている「さや」・・・自分の心まで傷つけ病んでしまう。

 この映画のように、現状がどんなに悲惨で直視し難かろうと、物語を紡ぐことで一時的にせよ、そのような最悪のダメージを防ぐことができる。しかしこれは反面、きちんと現実を把握するバランスがあってからこそだ。彼女は現実をもきちんと把握し、脱出の知恵とタイミング、勇気を失わなかった。結果的にはかなり大きな心の傷を負いはしたが・・・・。
私も子ども時代、甘美な夢を描き続けることで、自分を守ろうとしていた。しかしこれは子どもだから許されたが、問題を先送りにし、ずれを大きくして問題をこじらせ、解決を遅らせるだけであった。精神を病む人々のケースで、いつまでも物語を紡ぎ続けようと、一つの部屋に閉じこもり続けてしまうことがある。時に病む人の部屋を現実はノックするのだが、少し扉を開けただけで真の自分は違うと言い、また元の部屋に戻って逃避するのだ。たとえ一般人でも神を信じない多くの人は、自分の罪を認めはしても、他者と比べてまだマシと慰めて、その罪が永遠の世界でさばかれるたましいの世界を受け入れようとはしない。これもまた、来たるべき現実の逃避に過ぎないのだ。
 現実の自分に生きるとは、かくも微妙で難しく見える。しかし確かな希望があるとしたら、それは私たち人間にではない。人間には希望はない。神に、信仰にある。なぜならすべての罪を神である十字架のキリストが私を負ってくださるからだ。すべてを赦されることで、ありのままの自分を受け入れられる。そのことなしに、自分というルームから出ることが、解放されることが私にはなかった。   


ケパ
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映画 「祈りの力」「復活」

2016年04月08日 | 映画•映像
今日はクリスチャン映画三部作の内、表題の二作「復活」「祈りの力」の試写会に行って来た。来月から、これに「天国からの奇跡」が加わって、一作につき3週間ずつ上映される。こうしてクリスチャン映画が三作、三か月にわたって公開されるのは、本当にうれしいし期待する。今回は北海道から沖縄までの全国公開でもある(ただし中国・四国だけは今の所計画がないσ(^_^;) またこの試写会、明日もpm2時から中野の「いのちのことば社」で「復活」が上映される。特に明日は参加者が少ないので、「どなでも来てください」のようだ。是非都合がつく方は行かれることをお勧めします。

「復活」は「パッション」と対をなす映画で、映画はその続きのように、十字架でキリストが死んだシーンから始まる。しかも視点はイエスや弟子たちではなく、処刑した側のローマ軍の司令官が主人公である。キリストの復活が、反対者の目から見ても、揺るぎない真実であることを描いている。
「祈りの力」は「復活」が福音派的に描かれているのに比し、カリスマ・ペンテコステの聖霊派的である。祈りという霊的な戦いが一組の夫婦を中心にして、ダイナミックに描かれている。映画のテーマは、私たちを支配しようとしているサタンとの戦いである。この映画は素晴らしく、私としては最高のAAA(トリプルA)の評価をつけたい。

最後に絶対に観ていただき、特に映画の中で語られていた「神に祈り求めるなら、先ず自分を神のものとし、神に従う祈りをするなら、神はその祈りを必ず聞いてくださる」という祈りの土台を改めて確認したい。 ケパ



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映画「家族はつらいよ」と、家族考

2016年03月21日 | 映画•映像
久しぶりに映画を観た。結婚して45年近い老夫婦の橋爪功と吉行和子が演ずる老夫婦。妻が誕生日プレゼントに花束をもらった事から、夫が祝いに「何を贈ろうか?」と聞くと、妻は450円で済む「離婚届けに署名捺印して欲しい」と。
すべてはこの老夫婦の離婚騒動から始まる、お笑い的な家族ドラマだ。隣のドルカスがあんまりクスクス笑うので、少なくとも3、4回は「シーッ」と注意しなければならなかったほどである。

ところが私は笑えなかった。実際にこれに近い体験をしている上、離婚届の紙に見覚えがあるので、その時のことを思い出さざるを得ないのである。きっと笑えるのは、そんな危機がなかった、幸せな家族の人だったのだろうと思う。

さて、結末はハプニング後のドタバタで終わるのだが、それゆえ詰めの甘さを感じさせられた。最後に次男の婚約者役の蒼井優が意を決して、義父になる橋爪に言った「(妻のこと、どう思っているのか、どうしてもらいたいのか)ちゃんと義母に答えを言葉に出して言って!」「言葉が大切なの!」がテーマらしいのだが、それだけで万事めでたし、メデタシというのは、あまりにも拙劣ではないか。

親子は血筋でつながっているが、夫婦の場合は、もともと他人同士。だから子どもが一人立ちすると、それまでの絆や互いの気持ちしかそこには残っていない。とこう思わさせられるのは、映画のような、神を知らない平均的な日本の家庭の話であって、この映画を観ながら、それが実にやりきれない。

私は子どもの時から、愛のある家庭を作りたかった。だから、家庭を持つ時は、ほんとうに大好きな人としか結婚しないとかたく心に決めて大きくなった。ところが心に決めた人と結婚できなくなると、そういう男だからイエズス会の修道院に入る寸前まで行った。
さて、そうまでした先の妻がガンで召天し、二度目の結婚を私はした。先のとは大違いで、人間的な愛以前の、ただ心から愛する神が導いてくださった相手という、それだけだった。しかし、結果として私たちは、この群れの中のベスト・カップルの一つだと自認している。
こうして私が体験として断言できることは、人間の恋愛感情ほど当てにならぬものはなく、それに支配されては人生を誤る可能性が高いこと。そうではなく、ふたりの間に神が接着剤としておられることがベストである。言い方を変えれば、神への愛が二人の愛に勝り、神が確かに二人を一つに導かれた確信が最善である。


最近ピアノのサスティーンの端子が壁に当たらないよう、木で保護する工作をした。
厚みを出すために二枚の板を木工ボンドで貼り合わせたが、このボンドは実に強力で、もし剥がそうとすればなんと接合部分より、周辺の板の方が破壊されてしまう。
このように、移ろいやすい互いの人間的な感情を当てにするより、神がふたりの間に居られることは、木工ボンドよりもはるかに強力な接着剤、土台である。
ケパ



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映画「オデッセイ」

2016年02月15日 | 映画•映像
アカデミー賞にたくさんノミネートされている「オデッセイ」を観た。アポロ計画のような火星探査の最中、船外活動員が嵐に(そんなものが火星にあるのか疑問だが)襲われた。あまりに急に来たためマット・デーモンが演じるマーク・ワトニー隊員は吹き飛ばされ、生命反応を失い、捜索しようにも探査機そのものまで倒壊しかける。結局マーク隊員は死んだとされ、探査機は寸前のところで火星を離脱、危うく難を逃れる。しかしながら隊員は火星で一人生き残っており、生存と地球帰還へのへの戦いがスタートすると言うストーリーである。
一年余り前にも似たような宇宙映画があって、船外活動中に隕石群に襲われ、地球への帰還が困難になったという映画があった。この二つの映画とも万事休すの時、救世主として中国のロケットが助けるというのは今回もおなじで、「どうしてロシアじゃないの?」とドルカスはのたまう。私はロシアよりどうして日本の名前がまったく出ないのか、歯がゆく思った次第てある。
でもまあ、仲間を思う勇気、絶対に仲間を見捨てないルールなど、いかにもアメリカらしいと思う。純粋に娯楽として楽しめる。
ケパ




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映画「Star Wars 7」 フォースの覚醒

2015年12月25日 | 映画•映像
題名から分かる通り、久しぶりの今回はハリソン・フォードの最後の登場らしく、渋るドルカスを連れて観に行った。そしてこういう映画は、少々高くても、せっかく映画館、3Dに限る。おかげで私は戦闘シーンで思わず顔を背けて避けてしまったり(; ̄O ̄)、さーすがの迫力。

ハリソンはこれまで何度か見ていたので驚かなかったが、レイア姫は、いきなりオパアちゃんになっていたので、自分の年を忘れてビックリポン。
ストーリーはこれまでと似たり寄ったりで、繋ぎあわせての苦心作?。しかし今回はForce(フォース)というもの、悪だろうと善だろうと、己を無にしてフォースに心を委ねると、急にパワーが全開っていうの、これって、Forceとはキリスト教で言う聖霊と悪霊のことであると考えると、大変わかりやすかった。

このForceの説明をハリソン・フォードが、ダーク・ベーダーになっちゃっている息子に語って行くところが興味深かった。彼は命をかけてそのことを息子に教え諭すのだが、結局は邪悪さに支配されている息子に殺されてしまう。しかしたとえ刺されても、息子に慈愛の手を差し伸べながら転落して行くシーンが美しかった。しかしたとえ死んでも、ちょうど殉教者のごとく、その死がこれから大いに逆転の礎になる、そう思わさせられた。
しかしちょっと注意しなければならないのは、キリスト教的というより、どちらかといえばゾロアスター教の善悪二元論的な面が強いことである。私たちの神はすでに十字架で完全な勝利を取っておられ、危ういシーンは無い。初めから神の勝利は決まっている。
まぁ、単純に活劇を楽しむという、お気楽な娯楽映画の視点でどうぞ。その点は楽しめます。ただし中身はありません。
ケパ


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