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ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

映画「沈黙ーsilent」感想

2017年01月23日 | 映画•映像
「拷問シーンばかり長くて、苦痛だった」という声を耳にしたが、実際に鑑賞してみると、それほどではないと私は感じた。長崎は西坂公園の「日本二十六聖人記念館」に行って、実際の資料を見る方がよほどきついと思う。

それはともかく、映画の第一感想はこれまで2回も触れてきた如く、知らない人たちが制作すると「やっぱりこんなもんだろうな」である。
(写真は同じ村人の海中十字架刑を見せられているシーン)

この映画は原作には忠実であると思う。映画と原作で、深刻な難題としているテーマである「神の沈黙」だが、ハッキリ言えば、神さまと霊的に交わったことのない、つまり真の神を知らない人たちの苦悩話である。そういうクリスチャンは、それまでもなかったし、この期に及んでも「神の声は聞こえずー沈黙」、にワザも起こらない、は当然ではないか。
ただ困ったことに、この国では、私自身も過去そうであったように、神は知っていても、神と直に交わったことのないクリスチャンがほとんどなのだ。聖霊なる神の力もわざも、聞き従っての召命も理解できないクリスチャンにとって、「血肉の命よりも霊のいのちを優先させる=キリストを否まない」殉教とはかくも深刻なテーマとなる。そうなることは分かるが、どうかすべての人が【聖霊のバプテスマ】を祈り求め、その恵みに与って欲しいと切に願う。

ケパ


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映画「アイヒマンを追え!」

2017年01月11日 | 映画•映像
映画「アイヒマンを追え!」をヒューマントラストシネマズ有楽町で観た。トーホーとかの大手の映画館では観れないのが残念だ。

私は高校生の頃から隠れキリシタン化しており、「沈黙」「アンネの日記」「アウシュビッツ」などの本から始まってユダヤ人問題に関心があった。だからホロコーストの最高責任者アイヒマンについて、もちろん知っていた。1960アルゼンチンでモサド(イスラエルの対外諜報機関)によって確保され、秘密裏にイスラエルに移送され裁判の後、絞首刑にされた。 ご存知の方も多いと思うが、このナチスによって殺されたユダヤ人はおよど600万人ほどで、これは現在イスラエル国に住んでいるアラブ人を除いた全ユダヤ人とほぼ同じ数である。単なる虐殺ではなく、アイヒマンなどによって、じつに理性的に生前と秩序正しく行われた・・・・実に恐ろしいことである。私は本映画を観るまでは、あれはイスラエルによる民族抹殺という人類への罪に当たる正当な裁きだと思うこと以外、何も分かっていなかった。 ドイツでは大物アイヒマンを裁けなかった理由がよくわかった。 (ゲシュタポ時代と裁判時代)

戦後のドイツ国家機関に、優秀だった元ナチ党員が数多くいて、彼らは連携して戦犯の追求から逃れようとしていた。だから元ナチ党が多いドイツではアイヒマンを裁けなかったのだ。この映画は反面、「我々日本人は、自分たちの戦争責任をどう受け止めているのか?」と言う疑問が湧いた。過去を曖昧にして、未来はあるのだろうか、と? なぜならこの点が曖昧だからこそ、韓国や中国に付け込まれ、どう見ても不当な反日に、肝心の日本国内が一致して反論できていない状況があると思うからである。 (逮捕当時の新聞)

と同時に、この映画は、何が正しいのか、と言うことを問われる映画である。国家反逆罪を犯してまで、正義を追求すれよいのか。 ケパ
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沈黙(遠藤周作)ーSilence

2017年01月09日 | 映画•映像
英語でSilenceと言うと、①に静寂とか言う意味と②に喋らないという「沈黙」の意味がある。しかし日本語で「沈黙」と言うと、「黙して喋らない」という意図的な意味が’強くなる。

「沈黙ーーーSeilence」というマーティン・スコセッシ監督の映画がもうすぐ日本公開される。これは遠藤周作の歴史小説「沈黙」の映画化であり、ハリウッドの最高クラスの監督による原作に忠実な映画化であるという。個人的にはこれは日本キリスト教関係者にとって、未曾有の出来事であると思う。

ハリウッド映画というと、西部劇のように悪者VS正義というわかりやすい構図で描かれることが多いが、このアカデミー賞常連監督をもってしても、30年近くの年月をかけなければモノにならないほどの精神性が深く、突きつけられたもののようだった。それはそうだろう、主役のロドリゴはともかく、もう一人の主役に匹敵するキチジローをどう見るか、嫌悪すべきキチジローに己を投影し、キチジローに人間の弱さと神の視点をどう持っていくか? それは人類の永遠の課題だからだ。

小説「沈黙」に関して、私は平静ではいられない。確か高1か高2ぐらいで読んだと思うが、その頃の私は隠れキリシタンそのもので、親に隠れてはこっそり教会に通っていた。中1で読んだ「狭き門」で神を確信して15でやっと見つけた教会に通い始めた。親兄弟、親族はもちろん、近郷近在にキリスト教会は無かったし、家族にバレれば禁教令を受けてしまうのは肌身で知っていた。そんな中で、心の灯火のように聖書を貪り、神を求め、すでに心は信者であった。が、この作品は私を心胆寒からしめた。

「お前は、命をかけてまで本当に信じておるのか❓」
「もし生半可に信じ、それで転んでしまうぐらいなら、偽りの罪を犯すよりも信者にならぬがよい❗️」

私は怯えた。「お前は死ねるか」が何度も脳裏に何度もフラッシュのように光り続けた。卒業が迫ったある夜、末期ガンに冒された老牧師が私に、天国に行く前の最後の願いとばかりの勧め、「洗礼を受けませんか」を断ってしまった。その後、上京した大学で学生運動に挫折し、二十歳でバプテスマを受けたのだが、断った事の後悔はずっと尾を引いた。三十年経って、すべてが益とされる信仰、聖霊のバプテスマを受けて解放されるまでの、痛んだ過去と「沈黙」だった。

日本公開にあたって私は、この映画が原作に忠実というので、ぜひ次の諸点に注意して観ていただきたいと思う。映画でロドリゴが踏み絵を踏む時「踏むがいい‥‥‥‥‥」と聞こえたあの声は、神からのものでは決してなく、それはサタンもしくは本人の肉の声であるということ。それから、神がロドリゴに対して沈黙を守られたのは、ロドリゴの信仰がユダのような世的、肉的な神を引きずり落とすものであって、そのような信仰に神は答えられないのが当然であるということ。
この特に「神が答えてくださらない」というのは、神に聞き従う私たちの教会の群れでも、結構、問題になる点である。真に新生し、聖霊のバプテスマを受けなければ、困難なことなのだ。曖昧なままでは絶対済まされない土台であって、当時のカトリックにおいても、当然かなりの教役者(司祭以上)が、内住はあっても聖霊を受けていなかったのではないかと推察している。

次にキチジローについてである。キチジローへの見方は、信徒であるか、牧師のような教役者であるかによって、対応は異なるだろう。信徒としては裏切り者、軽蔑すべき弱さかも知れない。しかし己を厳しく吟味すれば、キチジローを責めるどころか、同じ弱さを持つ者としての哀しみを彼我に感じるのではないか。
牧師としてはどんなに自分を売ろうと、許し愛する人物である。だから踏み絵を踏まず、殉教できる人は、神に力を与えられ祝福された人である。己の人間的な力では、殉教は難しい。

さてここで見落としてはならないのは、聖霊の力である。ロドリゴは必死に神を求めたが、それはここまで尽くした自分のための神の奇跡を求めたのだったーー神は黙したままであった。殉教とは、霊が肉に勝る勝利であり、はかない現世よりはるかに勝る永遠のいのちが確かにあることの神の栄光である。やはり聖霊のバプテスマが決定的に重要である。それを裏付ける次の聖書の言葉がある。

✝️福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。(エペソ1:13-14)


キチジローもロドリゴも、惜しむべきことに、聖霊のバプテスマを受けず、したがって神と交れず(=沈黙)、聖霊の力を知らず、聖霊の証印を得てはいなかった。その為すことは神からではなかった。使徒の働きに依れば、聖霊のバプテスマを受けないことは、初代教会からして大きな問題であった。聖霊のバプテスマが、初代一世紀だけのクリスチャン限定であるなどとは、聖書のどこにも書いてない。受けていないものが増え、自分たちの自己正当化のために、「あの時代だけの必要」で、「聖書がある今は必要ない」などと弁解し、なまじ教会で地位があるため、真のクリスチャンを迫害するーーこれはイエス様の受難と全く変わらない構図なのだ。

どんな時代でも神は不変である。つまり、この「沈黙」シリーズは、それが小説だろうと映画だろうと、聖霊のバプテスマを受けていない信仰者の、それがための(当然ながら)挫折した物語であることは、しっかりと押さえておかないといけない。聖霊を受けるなら、神の力を受ける(使徒1章8節)のだが。

聖霊のバプテスマがどんなに当然視されていたかは、まずもって聖書で確かめていただきたいと思う。ご参考までに三箇所をあげる。

1 ヨハネ伝20:20と使徒1:5 ・・・イエス「聖霊を受けなさい」これは信じていた人たちにであったこと。
2 使徒8:14-17・・・ペテロとヨハネが。
3 使徒19:1-6・・・パウロが。

最後に、gooのサーバーが不調で書ききれず、早朝にならないと記事をお届けできなかったことをお詫びします。

ケパ






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映画「海賊と呼ばれた男」から日本のリターンマッチを見る

2016年12月17日 | 映画•映像
昨日、映画「海賊と呼ばれた男」を観た。
民族系石油会社(英米のメジャー石油資本でない、日本企業をこう呼ぶ)の雄である出光興産を今日ならしめた創業者 出光佐三の一代記である。佐三は学士出であっても、丁稚としてスタートする異色人間だった。事業家としては門司という一地方で、漁船の燃料小売店から出発した。しがらみにとらわれない発想と熱意で、事業は国内から満州へと発展していく。

映画の核心は出光佐三とメジャー石油との戦いである。それまではエッソ・モービル・シェルなど七つの英米系石油会社(セブン・シスターズと呼ぶ)が、世界の石油資源を独占してきた。古くはアラビアのロレンス、第二次世界大戦で、ナチスのロンメル戦車軍団とアメリカのパットン戦車軍団の大戦車戦が有名だが、これはヨーロッパではなくエジプトや中東での砂漠の戦いである。もちろん石油争奪戦だった。

日本が英米相手に太平洋戦争に踏み切ったのも、ABCD包囲網の締め付け、それは主に石油だった。これに耐えかねた日本は、当時シェルのインドネシア原油資源を確保しに戦端を開いた。石油一滴は血の一滴と日本人は思い知らされた。
これらすべての惨禍の背後に、セブン・シスターズと呼ばれるメジャー石油資源の独占が見える。

こういう背景を知るなら、出光佐三のメジャー石油に対する戦いは、少し前に三百万の犠牲者を出して負けたメジャー石油に対する、執念のリターンマッチとも言える。彼に深く共感を覚えざるを得ない。

映画では割とサラッと描かれているが、日章丸は最も安全が要求されるタンカーでありながら、機雷と英軍艦船によるイラン近海の海上封鎖を突破するという、生死をかけた大勝負に出た。そしてその結果成功して石油資源を確保できたのは、ただ出光という会社が生き延びられたというより、誰もがなし得なかったメジャーによる石油支配に、風穴を空けた世界史的な快挙であったと言える。もちろんこれを命じた社長の佐三は、会社の命運だけでなく、自身の命をも賭けていたことが映画で明らかにされている。

余談だか私は普段これも民族系のENEOSを利用している。しかしこの映画を観て、これからは二位のアポロのどちらにしようか、ちょっと迷う気分だ。

※1960年のOPEC創設などを経て、1976年、サウジアラビアでの採掘権をメジャー4社が返還して、セブン・シスターズによる石油支配は終わりを告げた。
ケパ



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イスラエルダイジェスト

2016年12月02日 | 映画•映像
2016イスラエルチームダイジェスト版を

ブックマークから見ることができます。
ご覧になってください。チョット対応が遅くなりました。 ドルカス



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ハドソン川の奇跡

2016年10月07日 | 映画•映像
「ハドソン川の奇跡」を観た。トム・ハンクス主演で原題は機長の愛称「サリー」である。
この映画は誰もが知っているあの出来事を映画化しており、私たちは機長が乗客全員155人の命を救った英雄として知っている。しかしこの映画は直後の事故査問委員会から始まる。
「両翼のエンジン損壊というが、左のエンジンは実はまだ生きていた」、事故当時の状況とデータからシュミレーションしたら「ハドソン川への不時着を強行せず、飛行場に引き返せば無事に帰れた」と査問委員会は容赦ない調査と証拠を突きつける。そうなると機長は、瞬時に正しい選択をして大勢の人を救った英雄どころではなく、「乗客の命を盾に、危険な水上不時着をした売名家」になる。
映画はそのように責められ、重圧をかけられていく機長の心をクールに描いて行く。「英雄」視されることが、苦痛になっても行く。

この後、判断に要する空白の時間、35秒間が無視されていたことが明白になって、逆に機長の判断がどれほど優れていたかが証明され、大逆転の結果となった。これは事実に基づくだけに、観る者を非情な危機的な緊迫感の中に陥れ、また大きな安堵に導く優れたドラマである。
私は特に映画の中で、機長の妻が言うシーンに心惹かれた。それは、機長の職を失い、何もかも失うかも知れない不安や恐れの中で、まかりまちがえば全員死んでいたかも知れない155人の中の一人として、機長である自分の夫もいた、その事実に気がついて、「生きていてくれて良かった」と言うシーンである。

確かに明日を思い煩うのではなく、(神によって)今を生き、生かされていることを感謝し喜ぶ、これが一番だ。

だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。(マタイ6;34)

ケパ


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映画に

2016年09月22日 | 映画•映像
1日雨降りだった今日。夜になって思い出した様に、映画に行こうと引っ張り出してくれて、先月に続いてディズニー映画で、『BFG』を観に出かけた。
前回の映画なジャングルブックの様に、実写とCGの組み合わせた映画の作り方も楽しめたけど、
ロンドンの真夜中のある日、巨人BFGに“巨人の国”へ連れ去らてしまう孤児院(日本では児童養護施設ですが)に住む好奇心旺盛な少女ソフィの心温まるお話し。

ひとりぼっちのソフィと、巨人にしては優しすぎる孤独なBFGと心を通わせ、いつしかふたりの間“奇妙な絆”が生まれてゆくが、BFGとは正反対のさらに大きく凶暴な巨人たちよる恐るべき計画との戦いに‥‥
そんなストーリーだった。

いつもだったら、字幕スーパーで見るのが好きなんだけれど、今回は吹き替えがよかったかも。その巨人BFGの話し方が、なんとも優しい言葉遣い。なぜってBFGは言葉がよく知らない。ソフィが(学校通えなかったから言葉知らないのです)と女王陛下にお答えする。
このニュアンスは、英語だったら私にはわかんないね〜
だから 私にはほんのりと良かったかな〜
しかし、ケパさんには見るには耐えられいと この世では考えられないことばかりだと‥‥
そうね〜 大人の楽しむ内容では無かったわね〜〜

ちなみに『BFG』とは 『ビックフレンドジャイアンツ』の愛称
ドルカス



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ジャングル・ブックにみる、CGの世界

2016年08月27日 | 映画•映像

この映画は、主人公以外は、全部CGだと思っていたら、やはりそうだと言う。主人公の激しい動きに合わせてジャングルが動くし、オオカミや巨大な熊、ヒョウも仲睦まじく主人公とじゃれあい、絡み合っていく。普通は光と影の不自然さなど実写とCGの合成にありがちな不自然さが、この映画では全くない。ここまで映像の技術は進んで来たのだから、改めて驚く。

この映画は、現代の画像技術はここまでホンモノそっくりに出来るんだよ、そういう意味で観ておくのも悪くはない。なぜなら、近未来、この手で私たちをだまして判断を誤らせたりするようなことが、起こりそうな気がするからである。

この映画で一つだけ大いに疑問に覚えたのは、ジャングルなのに虎か悪役で出てくる事である。普通はジャングルと言えばアフリカかアマゾンである。アマゾンは別だとして、「はて、アフリカにはライオンは居ても、虎がいたっけ?」

その疑問が昨日のNHKのドキュメンタリーで氷解した。インドではライオンが絶滅寸前であったらしいが、猟を禁止し森を豊かにして、なんとか盛り返しているらしい。そうか、インドでならライオンがいるぐらいだから虎がいる。しかも特別デカい、かのベンガル虎が! この映画のジャングルは、インドが舞台だったのだ。そういえば少年の父親はターバンを巻いていたし、少年自身はアフリカの子ではなく、インドの子のようであった。不覚!
ケパ
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映画「祈りの力」

2016年07月19日 | 映画•映像
ブログ映画「祈りの力(WAR ROOM)」

この映画の冒頭はアメリカ陸軍のWar Room(つまり作戦室司令室)から始まる。これがこの映画のテーマ(主題)を端的に言い表していた。何でもそうだが、良い映画というものはテーマがシンプルで鮮烈だ。つまり多くの人が容易には信じようとはしないサタンの存在、これを大胆に描いている。こう言うと私たちはすぐにオカルト的な映像を思い浮かべ想像しがちだが、この映画はその対極にある。全く無い。ただ無いだけでなく、「失望」「拒否」「怒り」「悲しみ」‥‥‥これら私たちの心の働きである感情が、実はサタンに操られ支配されたものであることをあぶり出して行く。

これ以上はネタバレの禁則を犯しそうなので慎むが、これら実はサタンが巧妙に自分の身を隠しながら私たちを支配し破滅させようとする策略に対し、まさに対抗しての必勝の「War Room(作戦司令室)=神への祈りの戦略」が描かれていく。これはまさに戦いであり、勝つための兵士としての訓練、つまり悔い改め・あわれみ・ゆるし・愛・聞き従うという訓練のストーリーなのである。兵士として訓練を受けると、良心が研ぎ澄まされ、かつての自身の不正を憎み、世的には愚かでも自分で自分を告発していくトムの様子が、生ける神の証ともなっている。

私ごとで恐縮だが、この映画のテーマ、「(サタンとの戦う)祈りの力」は真実であると言える。身を隠し、人を破壊的な感情に満たすサタンに対し、悔い改めて心から神を信じ、神の言葉と力によって戦わなければならない。クリスチャンたちよ、もしあなたが苦々しく思っていることがあり、許せない人がおり、時々気分を害し不機嫌になったり、怒ったりするなら、あなたは神のものでありながらサタンに支配されている肉のクリスチャンだと言える。私自身を含めて、あらためて深く気づかされて、霊的な戦いに送り出してくれる素晴らしい作品だと言える。


ケパ
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祈りの力

2016年07月19日 | 映画•映像
これから観るの。
観終わったら感想はケパさんが担当します。試写会に次いで2回目。見落とした場面もしっかり見ます。
ドルカス



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