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ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

み言葉のなぐさめと力

2018年12月21日 | 聖書

時々昔の私の悪い癖で、ものごとを悲観的に見ようとする時がある。また、この能天気な私でも、人並みに恐れがやって来る時もある。

そんな時、こんなみ言葉を思い出す。

My flesh and my heart fail;
But God is the strength of my heart and my portion forever.
(NKJV)

下に和訳を付けるが、断然、英語詩篇の方が心にすーっと入ってくる。failとは衰える、落ちる、ダウンすると言う意味だ。my portion 私の安住の割り当ての地は、確かなのだ。これほど安心でき素晴らしいことはない。※たまたま私が判るレベルの箇所だったのであって、実際は貧弱な英語力です。

"この身も心も尽き果てるでしょう。しかし神は私の心の岩とこしえに私が受ける割り当ての地。"
(詩篇73篇26節 新改訳2017)

しかもこの後、28節、"しかし私にとって神のみそばにいることが幸せです"とある。本当にそうだ。たとえ私の体が衰え、心が萎えそうになっても、主よ、あなたの御そばに居られる幸せは、世の誰も奪うことはできない。
(キレイな私好みの色をしたガーベラ)



ケパ




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神はどこから語りかけるか?

2018年12月19日 | 聖書
今日はクリスチャンの方に耳寄りな話をしたい。

よく熱心なクリスチャンの証などで「〇〇と神様が確かに私に語ってくださいました」と聞く。が、よくよく聞くと、それは心の中とか思いの中に聞こえた事柄であって、実際に声としては聞いてない場合がほとんどだ。私には直接触れられた体験(人生がその一瞬で変わった)があるが、残念ながらそれは声ではなく、文字が視覚的に並んで来て、アレレと思いながら読み取ってみてびっくりというものだった。確かにそれは私にはピッタリなものだったのだ〈笑い〉。
それ以後は他の方と同じように、脳裏に浮かぶ示しであったり、声なき語りかけである。だから証する方には、ほとんどの場合アーメンと同意する。要は方法ではなく、言葉の中身がポイントなのだ。
〈下写真はTLEA船橋教会オフィスの一角にあるコレクション・それぞれ意味するものがある〉

ところで神が本当にリアルな声で、人に語りかけてくださる場合はないのだろうか?
これについて聖書ほど詳しくわかるものはない。特にモーセは別格だ。最初に燃える柴の中から声を聞き、召命を語られたモーセだったが、その後は常に神様と共に居て、その栄光で顔が光るほどになったのだ。では、モーセだけが特別だったのだろうか? モーセのようにではなかったが、モーセ以上に愛されたダビデのような、王と預言者が神の声を親しく聞いている。

そこで質問。「モーセから後の時代、神はどこから語りかけているのだろうか? その代表的な場所は?」

モーセは、神の語られた仕様に従って、幕屋神殿〈タバナクル〉をつくった。答はその幕屋の至聖所にある契約の箱。以下はその代表的な例。

サムエル記 第一 3章3~5節 新改訳©2017
神のともしびが消される前であり、サムエルは、神の箱が置かれている主の神殿で寝ていた。
主はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい、ここにおります」と言って、エリのところに走って行き
・・・・・〉とある。この時少年サムエルを呼ばれた神は、ちゃんと音声で呼ばれたはずである。サムエルはエリが呼んだのだと思って三度も行くが、これは老齢のため目が弱くなっていたエリが、いつものようにサムエルの助けを求めて呼んだと勘違いをしたからに他ならない。これは実際に声で聞いたのでなければ、そんな間違いはしないだろう。しかしその声はエリからではなく、至聖所に安置されていた契約の箱のふたの、ケルビムから出ていたのである。

写真は契約の箱をかたどったものだが、向き合ったケルビムの間から、神の声は出ていた。


ウン千年前、エルサレム神殿は崩壊し、契約の箱はヨシヤ王時代以降、特に記述はなくなった。おそらくはバビロンによるエルサレム神殿崩壊(紀元前586)以来、その行方は遙として知られていないのだ。ユダヤ人がわからないと言うことは、もはや私たちはこの世では、見ることも聞くこともできない。それでも私は時々、ケラブ(単数形)たちの羽を震わせ、神が声を出しておられる様子を想像する。

【ご紹介】最初の写真 教会オフィスの答えは右からメノラー、オイルランプ、ショーファー〈角笛〉、イスラエルの象徴であるザクロ、契約の箱(模型)だった。


教会オフィスで、この契約の箱上のケルビムを見るたびに「ああ、神の声をこの耳で聞きたい」と切に思ってしまう。お姿はともかく、父の声だけでもせめて聞きたいと、子が願うのはおかしいことだろうか?



ケパ、






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三版って言っちゃダメ?〜新改訳聖書の©

2018年12月17日 | 聖書
最近、新改訳聖書を引用した表記に「あれっ?」と思って、調べてびっくりした。

例えば東京アンテオケ教会のFacebookで「今日の聖書」という欄があって、そこには引用した後に次のようなコピーライトマーク©が添えられている。
※実は下のiPhoneなどのアプリで


聖句をコピーすると既に、この©マークが必ず付いています。
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

これって、新改訳聖書ということはわかっても、何種類かあるどれだか、分かりますか?
ええ、ちょっと見慣れていませんが、答えは第三版という意味です。

これまで私たちは礼拝で「(新改訳聖書)第三版をお読みします」と前置きしてメッセージ箇所を朗読していた。ブログでの引用も同じく第〇版の〇〇ですと。しかし下記のホームページを見ると、どうもこれは時代遅れで、もはや正しくないのぉ? と思ってしまう。

まずは下記「新日本聖書刊行会」のリンクをご覧いただきたい。


新日本聖書刊行会


これによると引用した場合、次のように明瞭にしておく必要があると明記されている。

※©とはコピーライトと読み、著作権のマーク

〈第三版の場合〉
例) 聖書 新改訳 ©2003 新日本聖書刊行会

〈新改訳2017の場合〉
例) 聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

実は新改訳聖書は、旧いものから調べて見ると、これまで著作権表記はバラバラだった。発行年もその都度で、下の新改訳聖書の流れが頭に入っていなければ???状態になる。第二版とか第三版とかが書いて無かったりすると特に。

①初版(第一版)1970年
②再販(第二版)1978年
③第三版 2003年
④2017 2017年

わかりにくくいろいろあった表記をこの度、2017が新たに世に出たのを契機に、大幅に見直したようです。第三版は止めて、©2003年と。

ここで大いに不思議に思うのは、©2017 以外の過去のものは©2003の第三版に十把一絡げでもあるまいに、まとめられてしまっていることです。この不思議を理解するポイントは、どうも差別用語への批判対応にあるようです。

さて実際に問い合わせてみたところ、いのちのことば社としては新改訳聖書©2003とか©2017表記に、実は余りこだわっていなくて、
代わりに第三版の〇〇書〇〇章〇〇節と、引用した箇所が特定出来ていれば良いようです。ですから結果として言えば、にわかに©を使わなくても【これまで通りで良い】のです。ナァーンダです。

ただ微妙なのは第二版のようで、差別用語対応のため、版元としては、あまり表記引用して欲しくないようようで、せいぜい新改訳聖書©1978として欲しいのではないかと推察しています。



ところで余談ですが、約半世紀ぶりの全面改訂の©2017は、おすすめできる聖書だと私は思います。理由は日本語が自然なので、言葉がすーっと入って来るんです。つまり、これまでちょっと引っかかっていた箇所が、グーンとなくなったということ。これはいいです。



ケパ



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四代目が待たれる必携の新聖書ハンドブック

2018年12月10日 | 聖書

十日前の今月1日、「聖書の学び方」と題して聖書を読んでいて、わからない箇所などはスタディバイブルで・・・・・と紹介した。しかしそれに忘れてはならない、とっても大切な竹馬の友「新聖書ハンドブック」を忘れていた。(写真は著者で牧師でもあった博士)

皆さんご存知の下記聖書箇所、それをもとにこの書が如何に優れているかを紹介しよう。

"しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。"(ヨハネの福音書 19章34節 第三版)

この「血と水が出て来た」について、少々引用させていただく。
[イエスは十字架につけられて6時間後、やりで脇を突かれた時にはすでに死んでいた。ある医学の権威は、心臓破裂の場合のみ、血液は心臓の外壁つまり心膿に集まり、血餅と水のような血清とに分離する」と言っている。もしこれが事実なら、イエスの死の直接肉体的な真因は心臓破裂であった。強度の苦悩と激しい血圧のために、イエスの心臓は破れたのである。イエスは世の罪のゆえに、傷心のあまり死んだというのは、文字通りであろう。人間の罪ゆえの苦しみは、人体の限度以上なのであろう。]


聖書を学ぼうとする者にとって、この本の重要さは言葉に尽くせない。また私たちの神学生は全員、この本を参考書またはテキストとして所有しておられるはずである。新改訳聖書をもとにした簡易にして必須の手引きと解説、註解、キリスト教史、神学がある。最も重要なことは、著者の聖書を神の言葉として信じる信仰である。授業だけでなく、ぜひ聖書とペアで必携の書として、漬物になるほど読み込んでおきたいと思う。

下の写真は所蔵している三代のハーレイ(ヘンリー・H・ハーレイ)の「聖書ハンドブック」である。これには少々説明が要る。所蔵は青い装丁のが再販、赤いビニル装が三版、緑のハードカバーが新聖書ハンドブックである。

1953年 初版(聖書図書刊行会)
1963年 再販(聖書図書刊行会)¥1,500
1980年 三版(いのちのことば社)¥3,200
2009年 新聖書ハンドブック(いのちのことば社)¥3,800

現在、新聖書ハンドブックが在庫切れなのに、増刷されていない。だから新しい神学生が入手に困っているらしい。私の予想だが、昨年末に新改訳2017、今年末に聖書教会新共同訳が出たので、それらに併せて新聖書ハンドブックの再版(第二版)が出るのではないかと思っていた。しかし1年経っても未だ出ないと言うのは異常事態だ。

いのちのことば社さーん、早く世に出して欲しい。けれどもみんなが持てるよう、税込¥5.000以内に抑えて欲しい。




ケパ




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罪深い女 〜 ルカ書七章から

2018年12月07日 | 聖書



今日の聖書箇所を、バラ園のベンチで読んだ。12月でもここには、秋バラの良い香りが漂っている。

私はルカ書のここを読むと、いつも平静ではいられず、感情が一気にこみ上げてくる。(※読者にもそんな人が多いかも)

想像してほしい。そこは裕福かつ土地の名士、パリサイ人の館である。そんな所に誰もが顔を背ける罪深い女が、客人の間に紛れ込み、衆人が見守る中で以下のことをし始めたのである。

"うしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして(高価な壺の)香油を塗った。"(ルカ7章38節 ©2017)

息を呑む沈黙の中で為された、これほど心を打つシーンが他にあるだろうか? たとえ映画でこれを再現したくても、このシーンだけはどんな名女優でも無理だろうと思う。第一、主の両足を濡らすほどの涙は、演技では出せない。またその涙量ほどの、己か境遇のいたましさ、その傷。恥や恐れとその 悔悟の情。たとえ命と引き換えにでも、この方から私は赦されなければ・・・・、その必死さとせつなさは、その人そのものでなければムリである。聖書はたんたんと描写しているが、それだけにリアリティが強く迫ってくるシーンである。

「多く(の罪を)赦された者が、(赦してくれた方をより)多く愛する。」
これは神にしか語れない、素晴らしい真実である。

教会で「証(あかし)」を聞く機会が多いが、いつもこの「多く赦された者が・・・・多く愛する」を思い出す。だから感動する証というものは、「己の罪をさらけ出し、神がどんなに哀れみ深い方であったか」を告白する証である。どうか勘違いしないで欲しい。確かに目の前に聞いている人は居るが、私たちは神に対して証しているのである。神が喜ばれる証とは、どのような証であろうかということを。

今現在、小なりとは言え牧師としての自分の立場があって、それで真実な証をもし自分が控えていたとしたら、それは神様を失望させており、非常にまずいことである。注意しなければならない。



ケパ





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どちらが易しいか? ( Which is easier?)

2018年12月05日 | 聖書


あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。(ルカ 5章23節 2017)
下の絵はイエス様の評判が国中に広まり、イスラエル中のこの道の専門家が、自分の目で見ようとイエス様の前に集まっていた時の絵である。彼らはこの時、イエス様を吟味していたのである。

余りにも大勢の人がイエス様の前に詰めていたので、中風の男を助けようとした人たちは近づけなかった。

そこで非常手段、板に載せ、天井に穴を開け吊り降ろしているところだ。

それにしてもこの箇所は、イマイチはっきり分からないところだった。「罪を赦す」ことと「癒やす」ことと「どちらかイージーか?」と問われても、人間にとっては、どちらも簡単ではない。
強いて考えれば、力系の癒しの方が結果を即求められるので、大勢の手前、しくじれないので大変だ、とあさましくも考える。
マァしかし、、、よく考えれば、たとえ癒やされても人はいつかは死ぬ。しかし罪が赦されたなら、それはイエスを信じたから、と受け取るならば永遠のいのちが与えられるので、そちらの方が大切なのかなぁ・・・・・・。
しかし、「どちらが易しいのか」っとeasyさが問われてる。これって全然違ってるんじゃないのか?

確かに以上のような受け取りでは、本質を得ていないと感じるのは当然だ。ポイントは、この時律法学者や、パリサイ人が思い巡らした以下の言葉にあるようだ。

「神への冒瀆を口にするこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」(ルカ 5章21節)

その通りだ。
イエス様が十二弟子を伝道のために遣わされる時、弟子たちにいろいろな力と権威を授けられた。悪霊の追い出し、死人を生き返らせ、あらゆる病を癒やすなどである。しかし一つだけ、彼らに託されなかったものがある。それは「罪を赦す」権威である。これは後の初代教会時代でも、そして現在でも不変である。
混同し易いことに「神に罪を告白すれば(神は真実で正しい方なので)赦される」ということがある。これは罪の赦しは神のみという基本に抵触しない。
人の罪を赦すということは、パリサイ人たちが言うように、「神お一人のほかに」できないことなのだ。だから瞬間的にeasyさの結論が出る。「罪を赦す」方は人には不可、考えるだけでも恐ろしい。それに比べ「癒し」の方は、これも神の御心なのだが、神から付託されれば人間でも可能なものだ。だから、こちらの方が易しいと言える。

しかし以下はあくまで私の思いなので割り引いて聞いていただきたいのだが、付託といっても癒やしはあくまで神がされるもので、たとえ人が神に願って祈っても、神の御心無しに癒やしは起こらない。
たとえ高名な癒しの器がいたとしても、その方は臨在の中で、聖霊を通し示される神の御心、ご意思を、ただ聞き従って口に出し、手をかざして行っているだけだと思っている。決してその方の力ではないはずだ。だから人にではなく、主に感謝し、主を崇めよう。

そうしたとしても高名な主の器さんは、「恩知らずだ」と、決して怒らないはずだ。自分を通してあらわされた神の業に、ますます畏れ神をほめたたえているはずだから。
※それゆえ、過去カトリックが行った免罪符がプロテスタントの起こりとなったし、現在でも告解(ゆるしの秘蹟)を行っていることを見逃してはいけない。

とすれば、このひどい中風を患っている人に対して、罪の赦しを言い渡したイエス様って、希代のペテン師で神を冒涜する者か、それとも本当に神なのか、どっちかだ、ということになる。
そのとっちかを封じるために、イエス様は引き続き瞬時の癒しを行われ、ご自分がどちらかであることを、これ以上ないほどの完璧な証明をされたのだ。
※イエス様が神であることは、実はイエス様によって宿主から追い出された悪霊の方が、1番よくよくよく分かっていた。

これを見たイスラエル中のパリサイ人や律法学者たちは、みな専門家でプロなのに、まったく逆の結論である大ペテン師 = 神への冒涜 という結論を出してしまう。

彼らは予断を持っていた。ガリラヤからは預言者は(ヨナを除いて)出ない、やがて来るメシアは大工のせがれのような貧しい者ではなく、威風堂々、王らしく登場するはずだ、と。しかしこのこのイエスは、ことごとくそのイメージを破っていた。
次に彼らはイエス様のメッセージや、なさっている驚くべき事柄を「妬みと羨望」の目で曇らせてしまっていた。ガリラヤという田舎育ちで、大した学問もしていないはずのイエス様によって、どんなに聖書が明瞭に解き明かしされても、どんなに膨大な癒しや奇跡を目の前で見させられても、彼らにはサタンの仕業としか見えなかったのである。

イエス・キリストははじめから「罪を赦す」究極的な癒しをされた。同時にそれは、ご自分が神であることを隠そうとはされなかったことになる。そしてそれを【冒涜】としてしか受け取れなかった彼らは、次のみ言葉にふさわしい者となったのである。

「しかし聖霊を冒瀆する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」(マルコ 3章29節 新改訳2017)



ケパ


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聖書の学び方

2018年12月01日 | 聖書


今日は私流、聖書の学び方の公開。ところでいきなり余談だが、今日から日々の聖書日課は、「ルカによる福音書」に入る。これがいきなり長いけど面白い。異邦人向けは、やはりすっと入る。

皆さんは、聖書を読んでいて、「あれれっ」とか、「どういうこと?」と思われたことはないだろうか。私は福音派の伝道所に通っていた高校生の時から、その疑問をそのままにすることができなかった。必ず質問をしていた。つまり質問魔だった。
これは皆さんにもおすすめしたいのだが、疑問をあいまいにして、やがて忘れてしまうのでなく、その都度祈って聞き、調べる、ということが、いかに大きな違いを生んで行くかということだ。

その方法だが、昔、クリスチャン青年となり、自分がCS(Church School )の教師になってからは、事前に聖書辞典や注解書を読んで、生徒の質問に答えられるようにしていた。しかし注解書というのは危険な要素を含んでいる。それはその人、その属する神学を反映したものだからだ。(下写真 上から「新改訳聖書2017引照付き」「新改訳聖書第三版チェーン式」「FireBible=Full Life Study Bible Global Editionの日本語版」「NKJV Study Bible」)

それで今では写真のような、主にスタディバイブル(Study Bible)をいろいろ読んで調べ学んでいる。注解書は解釈だが、チェーンバイブルをはじめこれらは、聖書本文にくっついている、ということは理解のための断片的解きほぐしのようなものである。確かに解釈も多少含まれてはいるが、それは聖書本文理解のためのものであって、それを逸脱しないよう節度を保っている。私はこれでだいたいは解決している。

※付け加え
聖書を学びたい一般信徒の方で、時間に余裕のある方は、まずは一般的な縦糸(キリスト教史)を頭に入れ、次に横糸(各書の概観)も最低、チェーン式程度のものが加わっていると良いと思います。



ケパ





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権威ある者として

2018年11月17日 | 聖書
最もシンプルな福音書であるマルコ伝、その1章22節に"人々はその教えに驚いた。イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。"(新改訳2017)とある。

今までこの箇所の権威とは、分かるようでいてイマイチぴんと来ないところでした。へりくだりと愛に満ちたイエス様が「権威を持って」ってどんな感じなのかな?と。しかし聖書にふれて半世紀以上が経ち、近年は何度もイスラエルに行ったり、律法学者(ラビ)について理解を深めるうち、突然開かれる「わかった!」がこの権威でした。

律法学者とは、要するに学者。学者というものは、必ず根拠・・・・権威ある出典をもとに、自説を説明する。自分の意見や見方はその権威とされる根拠の上に立てていく。論理的と言えば言えるけれど、聞いていてよほど興味があれば良いけど、基本じれったいし、わかりにくい。

律法学者、ラビ的な方のメッセージは、彼らはその根拠をミドラーシュ(口伝律法)やタルムード(成文化されたもの)などを引用し、「はあぁーすごい」たも思うけど、これって単なる解釈の積み重ねであって、確かな聖書ではない。人間の理解をあたかも聖書のような扱いをするが、要注意だと感じる。(膨大なタルムード)

一例を挙げよう。アブラハムの妻サラがヘブロンで死んだ。そしてマクペラの洞窟に葬られている。これは確かに事実だ。しかしその間の事情を、ミドラーシュはアブラハムが息子イサクをモリヤ(エルサレム)の地で犠牲にするためと気づいたので、高齢にも関わらず命がけでベェル・シェバから追いかけ走って、ついに途中のヘブロンで息絶えた、それで墓がこの地にある、とするのである。

しかし聖書は簡略にこう記している。
"サラの生涯、サラが生きた年数は百二十七年であった。
サラはカナンの地のキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは来て、サラのために悼み悲しみ、泣いた。
"(創世記 23章1~2節)
だからミドラーシュが真実であるか、実はわからない。ミドラーシュがもし正しければ、イサクは36歳ぐらいであった、ということになる。「ええっつ36 ! 」である。

しかし聖書は神が預言者などを通して語られたものである。もちろんイエス様もご一緒である。こんな人間的理解を積み重ねたようなミドラーシュのような面倒くさいこと抜きに、単刀直入にみ言葉の真理を語られ、それは聞く人の霊・魂を射抜いたことであろう。どんな律法学者でも、ぐうの音が言えない真理であった。そのことは後ほどのイエス様とパリサイ派、律法学者たちの対決で明瞭に明らかになる。
イエス様は田舎のガリラヤ育ちの、ただの大工の息子である。しかしどんな最高の学者たちをもってしても"その日から、もうだれも、あえてイエスに質問しようとはしなかった。"(マタイの福音書 22章46節)状態となるのである。

権威とは真理であり、真理は神から来る。そのことを「権威ある者」と聖書は語っているのだった。
私はこの権威あるお方、イエス様が、人となられた神であることを心から幸福を感じつつ、信じる。





ケパ





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対照的なペテロとパウロ

2018年09月27日 | 聖書
キリスト教の代表者と言えば、イエス・キリストを除けば、ペテロ、ヨハネ、パウロである。聖書の分量や信仰義認という教えの土台で言えば、パウロが一番であり、キリスト教のことを別名パウロ宗教と呼ぶ人もいるぐらいである。しかしペテロは筆頭弟子、ヨハネは黙示録を書いた最後の使徒というように、それぞれ重要な使命を果たしている。(ペテロ)

ところでペテロとパウロは実に対照的な存在である。ペテロは異教の地ベッサイダ生まれの漁師だったが、カペナウムにあった妻の実家に婿入り同然の暮らしだったと思われる。

イエス・キリストはペテロをおそらく最初の弟子とし、「あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ)と呼ばれます。」と預言している。ケファ(私は第三版までのケパ)とは岩のことで、信仰の堅さを予表し預言したものだ。このペテロの家のカペナウムを拠点として主イェスは公生涯を進められた。

漁師だったペテロは直情径行と言うか、素直で熱血漢でもあった。インテリジェント性には少し欠けようと、誰よりもイエスを愛し、信じ、忠実であった。ヨハネとともにイエス・キリストの証人として唯一無二の存在である。

他方パウロは、ベニヤミン族の生粋のユダヤ人でありながら、ローマ植民地のタルソに生まれ育った特権階級、ローマ市民であった。ローマ植民都市出身の富裕層で特権階級、バイリンガル、ガマリエル門下という当時最高の律法学の系譜と言うインテリジェンス。比較して喩えるなら、ペテロが庶民代表、パウロは逆にエリートであった。(知識の象徴である本を持つパウロ)


生まれ育ちだけではない。キリストとの出会いも好対照である。ペテロは最初の弟子であった。(マタイ4章17~20節)この時、ヨハネ伝によればペテロはすでに洗礼者ヨハネの弟子であった弟アンデレによって、イエスに引き会わされ、イエスが神の子、神の子羊であることを知っていた(ヨハネ1章36〜42)ので、何のためらいもなく従ったのである。※時折りメッセージで聞くが、弟子としての召命までに、すでにペテロはイエスと会って、使命まで聞かされていたことを忘れてはならない。(ペテロと鶏鳴は聖書の重要な記事である)

ペテロはイエスと生活を共にし、重要な機会にはすべてその場にいた生き証人であり、キリストの昇天以後を託された最重要人物であった。彼の言葉には、その人柄からみて偽りが全く無く、証人としてこれ以上ないと言える人物であった。

だから以下に述べるパウロがどんなに才能があって優れていたとしても、事実としてのイエス・キリストが確固として存在しなければ、全くそれは空しく絵に描いた餅となる。その目的にペテロは完全である。
付け加えるなら、独身を貫いたパウロと違ってペテロは妻帯しながら各地を巡回した。だから私は生き返ったドルカスと共に歩んでいる。

対するにパウロはその真逆である。最初、彼はイエスとその弟子たちを、自分を神と名乗る冒とく者、不思議を行って大衆を扇動する危険な一派だと見なしていた。だから真のユダヤ教を守るために、イエスとその弟子たち異端者たちを根絶しようと人一倍熱心に活動し、実際、ステパノを殺害した時の証人でもあった。
それだけでなく、さらに迫害の手を外国にまでも広げようとしたその時、ダマスコを前にして天からの強烈な光によって打ち倒され、
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」(使徒の働き9章)と強制的に神に召されてしまった。敵対者にして迫害者No.1であったパウロを、神権で持って宗旨替えさせたのである。これはペテロと大違いだ。(ダマスカスはの道でのパウロ)

この二人はしばらくして、ユダヤ人社会にはペテロが、異邦人社会にはパウロがと、互いの伝道するエリアを棲み分けるすることになった。
ペテロの属したエルサレム教会は、すぐに主の兄弟ヤコブがペテロを抜いて指導者となり、ペテロは都エルサレム以外のユダヤや少し足を伸ばして巡回するようになる。ユダヤはローマに反逆し、A.D.70に亡ぼされ、世界に散らされると同時にエルサレム教会も消滅した。

こうして最終的に残ったのはパウロの異邦人キリスト教会であり、もしパウロなかりせば、ユダヤ教の新興一派的なイエス派は、割礼を厳守するユダヤ教の中に取り込まれて消滅していたことだろう。しかしそうならなかったのは、最高度の律法学を学んでいたパウロが、ユダヤ教と決別した「信仰義認」の神学を打ち立てたからである。パウロはそのために神が備え、強制的に引き立てた人物であって、全世界対応にして最もユダヤ教を知る最適で完全な人物であった。

ペテロにしろパウロにしろ、神の計画はどんなに完全であるのかを、この二人を通して見るのは、誰も一致するところだろう。





ケパ


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イチヂク

2018年08月28日 | 聖書
今日FFBお友が、イチジクの実のことを詳しく調べて書いてあった。イチジク大好きなんだそうでね、私も参考になりました〜



私はイチジクというと、聖書のこの箇所思ってしまうのよ。

道端に一本のいちじくの木が見えたので、そこに行って見ると、葉があるだけで、ほかには何もなかった。それでイエスはその木に「今後いつまでも、おまえの実はならないように」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。
マタイ 21章19節 新改訳2017



イエス様が、子ろばの乗り都に入城されたその翌朝、再び都へ帰られる途中の出来事で、
イエス様はなぜイチジクの木に向かって「お前の実はいつまでもならないように」と、言われたのかなあ、と、疑問だった。そして不思議だった。(たとえ話しですよと、ケパさんに言われましたが)

イエス様ぁ。実がついてないからと枯れよは、ないでしょう⁈ 来年は実がつくかもしれない‥それは誰かが栽培してるのでは?‥などとその書かれた言葉のみで思ってた。

数年前に、この箇所からケパさんのメッセージがあったので、ようやく疑問解消の糸口があったのですけど

イエス様が、空腹を覚え木に近づいたその時は、初なりの実(バーグ)のつく時期で、商品価値のない実であったこと。
この時期は誰もがそれを採って食べても良かった。
それで空腹を覚えたイエス様が、木に近づいたら葉しかない、その時期(春)に実がつかないという事は、その後(夏〜秋)に良い実(テエナ)を付けないだろう、役に立たない木であるのだなぁ

確かブログにもケパさんが、書いていると思いますから、探して紹介しますね。

植物好きな私にとって、聖書においても植物の名前を見ると、そこへ目が行きよく知りたいな〜
と思ったものです(今も同じですけど)
このような切っ掛けでも、聖書開く事が面白く成る動機も良い(๑˃̵ᴗ˂̵)でしょ〜❣️


⬆︎は絵葉書。以前エルサレムのGarden Tombで買い求めた、お気に入りのイチジクの一枚です。(ちなみにこのカードの裏には、士師記 9:11の一節が書いてある)

イスラエルチームが、今年も10月末から遣わされますが、私たちは再び遣わされることを願い祈りつつ、
今回は二人で執り成し隊ですね〜と、祈ってるのですけど。

ドルカス




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