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ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

原理主義

2018年07月23日 | 聖書
イスラム教の原理主義、ISは国としての現状は滅亡寸前であるが、インターネットメディアを通しての影響力は現在も健在であるという。若者たちを惹きつけて止まないと言う。なぜだろうか?

それは彼らISがイスラム的には非常に正しいからだと、日本のイスラム研究者は指摘する(※ 飯山陽著「イスラム教の論理」より)。かつては教役者に独占されていた教典コーランが、今やネットやスマホの普及によって、一般市民にも理解できるようになった。そこで明らかになったのは、私たちが高校で習った「コーランか剣か」が正しいのであり、異教徒に対するジハード(聖戦)」は全イスラム教徒の義務である、と言うことであった。つまりイスラムの正しい教えとは、全世界はイスラムによって征服もしくは統一されなければならず、それをしない穏健なイスラム教は堕落しているというのが、そもそものムハンマド(マホメット)の教えなのだ。この教えに忠実に従って、手段を選ばず世界征服を目指すのがイスラムの原理主義なのだ。。

イスラム原理主義は、世界の平和にとって危険極まりないものだが、これと一緒くたにされて超誤解されているのが、キリスト教の原理主義である。原理主義と言うからには、キリスト教の場合は聖書に忠実ということになる。イスラム教では、コーランが最近になって公開されたのかも知れないが、キリスト教では15世紀のグーテンベルクの印刷機の発明以来、(印刷機の発明者グーテンベルク。先ず聖書を印刷した)

聖書が大量に出回り、流布されてきた。つまりキリスト教のプロテスタント信徒は、みな原理主義から起こってきま歴史があるのである。
聖書を人々が手にした時、免罪符は全く神の御心に背く犯罪的なカトリックの欺きであったし、七つの秘蹟は組織の特権化を図るものであった。たた、法王の権威はマタイ伝16章の単なるこじつけであった。(ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂。免罪符はこの建設費のためであった)

私たちの群れ、これは言うならば聖書を唯一の拠り所とする、プロテスタント信徒の中のプロテスタント、言うならば原理主義そのものである。聖書は、"神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。"(ヨハネの福音書 3章16節)
と、神の愛を宣べ伝え、イスラムの世界を征服とは全く異なって、
"イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」"(ヨハネの福音書 18章36節)
と現世を否定された。最終的には現世も含むが、クリスチャンの国とは、霊的な神の国なのである。




ケパ




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己れの実を見る

2018年07月14日 | 聖書
御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。」(新改訳2017 ガラテヤ5:22~24)

これは明後日の聖書箇所だが、クリスチャンの間において、〈肉のわざ〉や〈御霊の実〉で偽預言者などを見分ける時などに用いる。また一般的な教会の役員などを選ぶ際にも、その人の社会的な地位や見かけ、能力からではなく、正しく選ぶ際には必要なことであろう。しかし冷静に自分を振り返って、この御霊の実がはたして自分に実っているかどうか、時々は振り返って自分に適用し、祈り求めて行く必要があるではないだろうか。

この前にパウロは「御霊によって歩みなさい」(16節)と言っている。そうすれば、これら聖書の実がつくはずだと。つまりこれは、各自が御霊の実によって歩んでいるかどうかのチェックリストだと考えると、とてもわかりやすい。

特に肉のわざである「ねたみ」「憤り」などは、ハナから、無理!と諦めている方が多いのではないだろうか? 「そんな人間になれる訳がない。もう人間じゃない!私は私。生涯悔い改めていれば良い」と言うような声が聞こえて来そうである。しかし途上人の私が言うのもおこがましいかも知れないが、「聖霊のバプテスマ」と新生や、それに続く「神(聖霊)の力」をご存じないから、そう思われるのだと思う。

山をも動かすからしだねの信仰や「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます」(マタイ19:26)のイエス・キリストの言葉は真実だ。もしこの御言葉が信じられないのであれば、御前に立つ時、「これからあなたの行く天に、あなたの宝はありません」と宣告される可能性がある。

自分の力を見るのではなく、神にのみ希望を置き、信じ祈り求めて行く時に、いくつかの試練を通されながら、自分自身の御霊の実に、神の力と栄光を確かに見ることになる。それは聖霊の証印であり、ますます神を畏れ、栄光を帰し、敬い愛するのだが。



ケパ





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聖書「新改訳2017」を買う

2018年07月04日 | 聖書
新改訳2017という聖書が昨年末に刊行された。普通なら新改訳聖書第四版となるはずだが、このように聖書名まで変えて登場した。
これには意味があって、初の全面改定(つまり、初版の第一版以来約五十年ぶり)だという。確かに第三版は差別用語などの置き換え中心だったし・・・とは思う。

しかし実際に読んでみて、新改訳は新改訳、全く別な訳文聖書になっているわけではない。ただ、言葉が読んでいて、スーッと自分に入ってくる、非常に伝わる日本語になっていると思う。まだ確認はしていないが、「原文が透けて見える」と宣伝してあった。新改訳らしく原文に忠実さを心がけたのであろう。ただしこれは聖書の原文(原典)は未だ発見されておらず、ほぼそうであろうという写本があるだけなので、誤解を招く表現だ。(左は従来の愛用の聖書。この特大サイズは第二版だけで、これ以降は出ていない。今回の購入はこの更新となる)
(今回更新する過去最大のサイズの第二版の特大聖書と比較。左側の今回のは少し小さくても、二版の特大聖書とは変わらない文字サイズなのがうれしい)

まぁしかしこれは、原文への忠実さ、翻訳の完成度において、現時点ではおそらく最高峰であろうと思う。三版は買わなくても、2017のこれは買い替えておいてもそんでは無いだろう。

私はこの新改訳2017が出た時、革装の大型版が出るまで待つことにし、半年後の先月の末、ようやく発売されたという知らせを受けた。それで昨日帰り道、新宿で買って来たと言うわけだ。経済が苦しい中でも、聖書だけは、とドルカスも賛成してくれた感謝な買い物である。

さて装丁だが、これは紙質や文字、割り付けも、第三版のものとまったく変わっていないように見える。ただ本文が、旧約が1568頁→1635頁へと大幅に、新約は503頁→519頁と、全体でいえば80頁も増えた。それだけに全体がキツキツに無駄なく収まっている感じはある。これだけ頁数が増えたのは、すべてに見直しをし、忠実たろうとすればするほど長くなる翻訳の苦労を感じる。
本文以外では巻末の地図がこれまでと全く別物になっている。これはおそらく紙質を全体と合わせ、耐久性を増すためであっただろうが、地味になってしまい、これが唯一惜しむところである。



ケパ





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栄光のイスラエル十二部族

2018年07月02日 | 聖書
栄光のイスラエル十二部族(下図は父ヤコブが遺言した十二人の息子を表すもの。4番目のライオンがユダ)

かと思いきや、まったく逆である。神に選ばれた民、イスラエルの十二部族はおどろおどろしさで満ちている。人間の本質が罪であることをまったく隠していない。私が聖書を本当に神の言葉だと分かるのは、まさにこの点である。(出エジプト後、苦しい四十年を経て、約束の地に入った十二部族)

考えてもみてほしい。個人でもそうだが、特にそれができる権力者は、過去の出来事や歴史を自分の都合の良いように変えようとするのが通例である。ところが聖書は赤裸々である。それだけに真実である。類が無い。

アブラハム、イサク、ヤコブの三代から、神は約束を成就させるための十二部族をお立てになった。3代目ヤコブ(イスラエル)に二人の妻と、その側女の計4人から十二人の息子達が誕生したのである。これが十二部族の長である。

しかし、長男のルベンから三男のレビに至るまでが、さんざんである。長男のルベンは父のそばめビルハと寝る。実母ではないにしても、これは父権への冒涜、重大な罪である。次男と、三男のシメオンとレビは、妹ディナを汚されたことを怒ってシェケムの町の人を、父の意に反しだまして虐殺してしまう。弟ヨセフに対しても、殺すことを主張したであろう。非常に血まみれな二人だ。

こうして四男のユダに神の栄光と祝福が移った。ユダは兄たちの弟ヨセフ殺しに加担しないで、逆に「弟を殺し、その血を隠したとて、何の益になろう。」と言って守った。奴隷からエジプトの宰相となった弟ヨセフが、実弟ベニヤミンをエジプトに連れてくるよう強要した際にも、ユダは自分の命を差し出してベニヤミンを愛している父を守ろうとした。ユダは兄弟の中でも非常に立派で男らしい男であった。(エルサレムの市章)

ユダが三人の兄たちを抜いて、イスラエルの長子的存在となった後に、ダビデも、イエス・キリストも、この全部ユダ族から生まれ、現在のイスラエルも、イスラエル人=ユダヤ人と呼ばれるように、主体はユダの末裔である。

最後にこのユダも、まったく落ち度が無かったわけではないことを付け加えておく。

ユダはなんと、売春婦に変装した長男と次男の嫁であるタマルに気付かず、結果として子をもうけてしまうのである。これは息子をさらに失いたくないための、ユダの義務違反に対する抗議でもあった。その後、タマルが妊娠していることで、その姦淫を裁こうとした衆前で、ユダは売春婦に与えたはずの証拠を突きつけられて、赤っ恥をかく。

聖書は誤魔化しのない記事で、アダムから始まった人間というものの本質、罪人であることを明らかにしているのだ。そしてイエス・キリストの十字架の罪の赦しがセットされているのだ。すべての人は罪人であり、キリストの十字架なしに人は救われない。



ケパ




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聖書が生活に生きていると

2018年06月25日 | 聖書
欧米は例外なくキリスト教国で、何気ない諺(ことわざ)も聖書に根ざしていることが多い。「羊の皮をかぶったおおかみ」(マタイ7:15)、「笛吹けど踊らず」(マタイ11:17)などである。中には日本に帰化したような「目から鱗(うろこ)」(使徒9:18)みたいなものまである。

キリスト教国では、少し前までは皆、日曜日には教会に行って聖書の話を聞いていたわけで、自然、誰にも通じる聖書にちなんだものになる。

ところで最近ある牧師家庭のブログで、こんな話が載っていたので引用したい。これは妹が姉におねだりし続けて、ゲットした話である。
ーーーーーーーーー
怠け者の裁判官に、正しい裁判を求めた人のように
「ファミマにいこう!ファミマにいこう!」
といい続けたら
最後、チョコとティラミス買ってくれました。笑
ーーーーーーーーー
これは聖書ルカ18:1-7の話「(不正な裁判官へ裁判を求めるの)しつこいやもめのたとえ」からの引用である。
つまり、おねだりしても、なかなか買ってくれない姉を「不正な裁判官」ではなく、「怠け者の裁判官」として言い換えているわけで、これは大いに笑えて、ナールホド、うまい❗と大受けの話となる。

聖書が日常生活に溶け込んでいないと、こんな風にその場に合わせた見事な引用は出来ない。この牧師家庭では、姉妹間でそれが難なく出来ているわけで、生活の中に信仰が生きていることがわかる。

皆さんも、こんな家庭のように、聖書を土台にした笑い話や例え話ができていたら、すてきだと思われないでしょうか?




ケパ




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岩だぬき

2018年06月19日 | 聖書
先週、私のFacebookお友で、「ヤモリ」のことを、AさんBさんCさんの三人がそれぞれ話題にしていて、なになに?これ❣️と思って不思議だった。
それも、全員聖書を知るクリスチャン。

勿論私には喜ばしい爬虫類でない。のだけれど‥‥
Aさんは、部屋の隅に出た。とびっくり泣きたくなったと大騒ぎしたことを。

Cさんは久しぶりにやもりをガラスケース下から、吸盤までも観察出来たと喜んだというお二人に、


手持ちのDバックの👆のアップリケ気に入ってるという理由を、
聖書を通して興味深げな話題を書かれた某教会の牧師さん。その
✝️聖書箇所を紹介すると、
それぞれの反応があって、

Aさんは、ヤモリにはそっと退出を願おうと祈り、
Cさんは、さすがに興味のある分野の話題らしく、「聖書 箴言30章読みました。ヤモリ以外の、とくに、岩だぬきに興味ある

と、岩だぬきに興味持ち、それにはつい私もニンマリ😅
岩だぬきはイスラエルに今もいるのよ。とコメントしたら、その反響が面白く広がっていた。

"岩だぬきは強くない種族だが、その巣を岩間に設ける。" 箴言 30章26節

'16年の11月のイスラエル派遣で
ガリラヤ湖西岸のアルベル山に登った時、祈り中に私は見つけた〜


しかしです。かなり離れた位置でiPhoneカメラなのでこの程度。🔵印よく見てね〜
全部で4匹見つけてね。PC blogの方が見つけやすいかと、思いますが‥

岩たぬきの姿顔‥は、
ググって見つけたこの写真で見てね。

やはりこちらの牧師夫妻も、イスラエルで撮影だったのでしょうか。

いつの日か、Cさんと彼女の家族と共に、イスラエルツアー参加を密かに祈ろうかな。

PS
Facebook。かなり面白い。動画も情報も満載です。


ドルカス




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聖書からの「示し(レーマ)」考

2018年05月14日 | 聖書
聖書---それは神の言葉であり、人類へのメッセージである。しかし単なるメッセージではなく、驚くべきメッセージである。

聖書なかりせば、教会やキリスト教はもちろん、今日の世界を無かった。自由、平等、人権はキリスト教の価値観である。

ただしその聖書に、多様な接し方があることは認めなければならない。私は聖書が全部か、または部分的、断片的に神の言葉だとする「揺れる土台」の教会信仰の中で長く生きた。ただその中にあっても私は、個人的に全体が神の言葉として信じていたが、聖書の記述の食い違う個所にイマイチ確信が持てないでいた。

しかし信仰を持って三十年して神にふれられる体験をし、カリスマ派になってからは、なんと愚かなことで迷っていたのかと思う。聖書は全体が神の言葉であって信仰により、筆者である聖霊によって読むのである。
すると新たな読み方に遭遇するようになった。信仰の書であるから、信仰的な受け取りを最優先し、ある意味で論理を無視して読み取れば良し、とする読み方である。いわゆる「示し」的な読み方である。この場合、論理的な読みを「ロゴス」と言い、示し的な読みを「レーマ」と考えても良いかもと思う。しかし実際にはレーマであっても、御心の正当なレーマかが問われる。

わかり易くするため、その一例を挙げたい。

"バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。"(マタイの福音書 11章12節)

このみ言葉をもとに、「皆さん、天の御国が危うくなっています。イエス様の時代、天国は実は危うかったのです。私は今朝、御国が敵から守られるよう、皆さんと共に祈ることを示されました」と語った説教者がいたとします。(こんなメッセージを聞くと、ミヒャエル・エンデ作の「はてしない物語」、映画の「ネバーエンディングストーリー」を私は連想してしまう。そこでは想像の世界が激しく攻められ、危うい)

これは説教者が「示されました」と言っている限りにおいて、その方への示しをとやかく言うことはできない。示されたことは個人的な示しで他者がとやかく言えるものではないからだ。しかしそれが一旦メッセージとして、自分以外の人びとに語られるとなれば、「証」としてならともかく話は別だ。

なぜなら、この説教者の理解は聖書全体から言っても誤った受け取りであるからだ。神の国が激しく攻められている? そんなことはありえない。「いや、そう書いてあるじゃないか! 」確かにその通り記述してあっても、違うのだ。

聖書全体を何度も読み、神様について程度の差はあっても分かりつつある方なら、「御国は激しく攻められています……奪い取っています」に違和感を覚えられるのではないだろうか。私たちが永遠に住む天の御国がそんな所だなんて・・・そんな馬鹿な」と。神は全能であり全知、永遠であり、十字架でサタンに勝利された、何よりも愛のお方です。そんな馬鹿な、と。

この箇所は「バプテスマのヨハネの日から今日まで」がポイントになる。それまで黄泉の国の深い淵で分けられていた、アブラハムの懐と呼ばれる天国的な世界が、キリストの十字架と復活で、天のエルサレムという神の国になった(ルカ16章19節〜を参照)。バプテスマのヨハネは旧約時代の最後にして偉大の預言者であって、彼はメシアが来られたと言う福音の先備えである。

そしてこの時代の人々は、何とかして新約の、罪が完全に赦される恵みの中に入ろうと、激しくまるで奪い取るがごとく望み、祈っていた。幼子イエスを祝福したシメオンや女預言者アンナスはその代表と言ってよい。福音と十字架の恵み、それは何とバプテスマのヨハネより偉大だったから。(マタイの福音書 11章11節を参照)

またその上述の様子は、まだ薄暗い明け方、囲いの中に閉じ込められた羊達が牧者を待ち、たっぷりの露を含ませた若草を食べたさのあまり、牧者が開ける門の前で押し合いへし合い、一番先に我先に出ようと争っている様子を連想ささる。このことを「激しく攻める者たちがそれを奪い取って」と言い表しているわけだ。(ミカ書 2章13節参照)

このように、聖書全体から違和感を感じること、それを大切にし、神に祈り解き明かしを求めることが正し聖書理解を得、神の奥義を学ぶことになる。特に説教者は示しだからと言って、よく吟味をしないで語ってはならないと思う。

聖書を読むこと、そして示されることは、大切な恵みだ。ただ、預言に限らずどんなことでも吟味すること、本当に神から来たのか、は忘れてはならないことだ。
神の言葉を取り次ぐ説教者なら、自分への示しや受け取りを語る時に、それが本当に他者に適応するものなのか、絶対に祈りと吟味が必要です。自分は罪ある人に過ぎないのであって、誤り易いし、もしそんな所があったとしたら、悔い改め、信者に自分の誤りを公表訂正する謙虚さが、かえって神に義とされ、引き続き用いられて行くポイントだと私は思っています。




自戒をこめて、ケパ






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三つの謎、答えさせていただきます

2018年05月02日 | 聖書
皆さま、お待たせしました。それでは三つの謎解きの答えを明かしさせていただきます。なお、独断的推察ですので、よろしくお願いします。

(一)「エルサレムから離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」に違反。
これは使徒1:4にある命令である。それなのに弟子たちはガリラヤに帰り、元の漁師のようなことをはじめていた(ヨハネ21章)。これはどうなってる?

【ケパの解釈謎解き】
○弟子たちがガリラヤに行ったのは、そもそもがイエス様の命令(マタイ28:7,10)である。それなのにイエス様の「エルサレムから離れるな」は、ペンテコステ(聖霊降臨)が近づいており、教会のスタートが始めからバラバラではふさわしくないからである。

つまりこの一見矛盾した指示は、イエス様は復活直後に弟子たちに、「(迫害と妨害のユダヤ人たちが少ない)ガリラヤで待っている」ので来なさい、と指示。
→そこで弟子たちはすぐ、翌日にはエルサレムを出発。三、四日の道のりを経てガリラヤに到着。八日後にはトマスと共に主にお会いした。ペテロたちが漁をしたのはガリラヤの安心さと、復活後の四十日、その多くの日数を主と弟子たちがガリラヤで過ごしたことを暗示している。この養いの期間には「私の羊を飼いなさい」などのペテロの再召命があった。
→七週の祭り(シャブオット)が近づいて来たので、弟子たちはかなり早めに再びエルサレムに戻った。
→弟子たちはイエス様の昇天直前に、「(最初の聖霊のバプテスマ=ペンテコステを受けるため)このままエルサレムに留まっていなさい」との指示を受けた。そしてオリーブ山でイエス様の昇天を見送る。
→その一週間後、祭りの日に集まって祈っていた120人全員がペンテコステを受け、教会が発足した。

つまり結論は、時間と段階が違っての指示であって、両方とも矛盾しない。

(二)マリアにだけ「さわっちゃダメ」❓
復活されたイエス様が最初にその姿を現されたのは、マグダラのマリアにだった。しかしそのマリアに対してだけ、イエスは「わたしにすがりついていてはいけません」と言われたのだ。しかしその後、弟子たちに息を吹きかけられたり、トマスには「手を伸ばして、わたしのわき腹に入れなさい」と言われている。この違いは何だろう。マリアが女性だったから?それとも他に?

【ケパの解釈謎解き】
これはどう見ても、マリアに会われた時のイエス様は、この時、まだ御霊の体になっていなかったと思われる。それなのにマリアに会われたのは、使徒たちを含めイエスに付き従った大勢の中で、信仰も貢献度も、最も高かったマリアへの特別な配慮だったと思われる。
この直後、イエス様は天の父に会われ、御霊の体に変わられたはずだ。御霊の体になるともはや霊体ではない。実体があるのでさわられてもOK。魚を食べたりすることができた。それなのに壁を通り抜け、ひとっ飛びで距離の移動もできる。年もとらない永遠の体である。

付け加えだが、近頃の歯科診療では、例えばある歯がグラグラ動いたりする場合、接着剤で周りの歯とくっつけて固定したりする。そのやり方だが、医師が接着剤を塗って、そこにある光線を当てると一瞬で硬化して接着完了となる。御霊の体もそんな感じで、神様にお会いすると、一瞬で御霊の体に変えられるんじゃないかなと思うのだが。


三)見ただけで、何が分かって、信じた?
これは「そして見て、信じた。」(ヨハネ20:8)の箇所で、ペテロとヨハネは墓に入って、それでイエス様の復活を信じたとあります。墓に入って、見ただけで、どうして分かったのでしょうか? 説明を試みてください。

【ケパの解釈謎解き】
○これは、ペテロとヨハネが見た墓に置いてあった包帯のほどき方が決定的てあると思う。
"彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。"
この記述によってすぐに想像されるのは、バイク乗りが、フルフェイスのヘルメットを脱ぐような仕草だ。復活直後のイエス様も半身起き上がって、ご自分で頭部をぐるぐるに巻かれた亜麻布を両手ですぽっと脱ぎ、自分のそばにそっと置かれた様子が想像できる。

○そのほか、もし遺体が盗まれたのなら、持ち出す前に亜麻布を外したりはしないだろうし、頭部と二つに分かれたこの場の状況から、ペテロとヨハネの二人には、よみがえったことしか考えられなかったはずだ。

だから、見て、信じた。そして生前の、復活するという師の言葉をも同時に思い出した二人に、目撃者としてのリアリティがある。





ケパ






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三つの謎解き

2018年05月01日 | 聖書
聖書を誤りなき神の言葉として信じる、それは素晴らしい恵みが与えられると言うことでもある。

そして信じれば信じるほど、聖書の些細な、一見「食い違う?」箇所が気になってくるものである。イエス様の言葉によると、「聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え」(ヨハネ14:26)とある。これは弟子たちだけでなく、信じる者すべてに適用できるもので、是非この恵みを共に得たい。そして恵みにより、一見食い違いに見えるところが、逆に聖書が神の著作である完全さが分かり、福音の真理のいったんに触れた喜びと、神への賛美が沸き起こるのである。

そこでだが、通読でヨハネ福音書を終えられた場合、私が感じた次の三つの不思議に答えられるだろうか?
(一)「エルサレムから離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」に違反。
これは使徒1:4にある命令である。それなのに弟子たちはガリラヤに帰り、元の漁師のようなことをはじめていた(ヨハネ21章)。これはどうなってる?

(二)マリアにだけ「さわっちゃダメ」❓
復活されたイエス様が最初にその姿を現されたのは、マグダラのマリアにだった。しかしそのマリアに対してだけ、イエスは「わたしにすがりついていてはいけません」と言われたのだ。しかしその後、弟子たちに息を吹きかけられたり、トマスには「手を伸ばして、わたしのわき腹に入れなさい」と言われている。この違いは何だろう。マリアが女性だったから?それとも他に?

(三)見ただけで、何が分かって、信じた?
これは「そして見て、信じた。」(ヨハネ20:8)の箇所で、ペテロとヨハネは墓に入って、それでイエス様の復活を信じたとあります。墓に入って、見ただけで、どうして分かったのでしょうか? 説明を試みてください。

※この答えとして、私の独断的推察は次回のケパ担当で❗
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肉食獣は居なかった?罪がない世界とは

2018年03月26日 | 聖書

意外と知られていないことだが、天地創造時からエデンの園でアダムたちが罪を犯すまでは、ライオンも狼も肉食ではなかったようだ。

その根拠〜創世記1章には次のように書かれてある。

【地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。】(創世記1章30節)

つまり【すべての獣】に緑の草が与えられたのであって、例外は無かったことになる。またこのことはおそらく、次のような描写の通りであったと推察される。
【狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。】(イザヤ11章6-7)

なんという麗しい情景であろうか! これは後に来る新しい世界のことであろうが、失われた世界も同様な感じであったと見る。
私たちは過去には戻れないが、しけし新しいエルサレムが天から降りてくるその時には、かつてのエデンの園よりはるかに素晴らしい世界が始まることを知っている。

【御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。】(黙示録21章5 節)
【また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。】(黙示録21:1)、この新天新地には、

【もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。】(21:4)

と、次に来る世界とはのろいの無い(黙示22:3)世界だと言われている。これは肉食獣が居なかった天地創造の時の回復以上の世界となる。神の栄光が太陽や月に取って代わって輝く世界。なんと待ち遠しいことか。ハレルヤ❗

※補足
ちなみに、動物が初めて殺されたのは、おそらくアダムたちが罪を犯した時である。なぜなら、次のような短い記事があるので。

【神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。】(創世記3章21)

旧約聖書では罪のあがないとして、動物の血を流すが、その始まりも人の罪を覆うためのものだったと言える。その意味でも血は罪のしるしであり、十字架のキリストの血によって、完全に覆われたものなのである。

ケパ






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