goo blog サービス終了のお知らせ 

ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

年間聖句

2019年11月06日 | 聖書
TLEA 2020年度の年度聖句が。この日曜日3日の新年礼拝で発表されました。ハレルヤ

Ⅱ歴代誌20章15節、17節です。
この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。
この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ

このフォトは昨年
朝のガリラヤ湖。早天時湖畔。静かでした
ホテル内でも、、そらそろ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ことば

2019年09月10日 | 聖書
はじめに神が天と地を創造されたが、それはそこまでで、混沌であり、認識されることはなかった。そのための光がなかったからである。だから、まず光がなければならなかった。
"神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。"(創世記 1章3節 ©2017)

実にすべては神のことば「光、あれ。」からはじまった。真っ暗闇では、私たちはそこに何か「ある」ことは分かっても、把握することができないからだ。



初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(ヨハネの福音書 1章1節 ©2017)
ヨハネ福音書では、さらにことばが神であるとさえ言っている。

「ことば」がどれほど大切なものか、最近私は障害のある児童のための施設で、指導員として関わるようになって、このことを痛感した。ほとんどことばが話せない子どもたちがかなり居るからである。
ことばが話せないからと言って、決して物事がわからないわけではないし、コミュニケーションが取れないわけではない。しかし、ことばがあることで、名前があり、すべての認識が始まるのだ。
ことばが発せられなけれぼ、うまく自分の気持ちを伝えてたりができない。理解し合うことも困難である。そうなるとおそらく、人間の思考力=知性も、おそらくことばが土台である。

してみると私たち人間の知能は、ことばに依拠している。ことばは神からのもので、神の似姿、これを大切のしよう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ビバ!黙示録

2019年07月03日 | 聖書
黙示録って素晴らしい。
 
黙示録の通読が明日で終わりになる。と言うことは、再び新たな通読が金曜日から始まると言うことになる。多くのクリスチャンにとって、かつて私がそうだったように、黙示録とは難解で、裁きに次ぐ裁きのおどろおどろしいものと今でも受け取られているのだろうか?
 
私がこの群れ(The Light of Eternal Agape 略称TLEA )に来て、驚いたのはリーダーのP牧師が黙示録に情熱を傾けておられることだった。そして語られる時は、心なしか少し嬉しそうに見受けられることだった。そしてこの預言書を大胆に現実にあわせて読み解かれることも。
 
私は信徒の中では、聖書オタクと呼ばれたこともあるほどだったが、これには参った。バプテスマを受けてから三十年余り、ただの一度も黙示録のメッセージも、まして講解など聞いたことがなかった。黙示録はブラックボックスだった。
 
不思議なことに、恐怖心なしに聖霊の導きで読むと、黙示録は二千年にわたる、膨大な聖徒たちの種蒔きからの刈り取り、たましいの大リバイバルであって、気の遠くなるほど多くのクリスチャンの祈りの結実であることがわかってくる。そしてそれは今生きている私たちがまさに、第四コーナーを回ってのラストランナーなのだ。
神は愛するご自分の子どもたちに、あらかじめことわらずに事を進められるお方ではない。私の人生においても、前妻の召天とその後の召し、結婚について、私はあらかじめ語られていて、かつ、選ばされた。その後も節々で・・・。黙示録は全世界への告知であり、天地創造からの七千年?にわたる神のストーリーの最終章である。そんな場に、なんとこの私たちが居わわせる、これに興奮しない人はまずいないはずだ。
 
かつてはわからなかったあらゆることが、現在ではかなり明確な姿を現してきた。イスラエルの復興、次第に国としての姿を現してきたEU、ロシアとその宿敵だったはずのイラン両国の関係、アメリカの没落などなど。
しかしある人は言われるかも知れない。全人類の半分の人が、わずか三年半の間に死ぬ、それがそんなに嬉しいのですか?と。
いや、そうではない。これは信仰のレベルで言っている。たとえ、この血肉の体の命が百年から二百年生きようと、その人が十字架を信じ、永遠のいのちを得なければ、それはむなしく滅びるのだ。しかしすぐに死ぬとしても、その前に主イエスとその十字架を信じれば永遠の魂の救いがあり、血肉の体と命は失なわれようと、それは取るに足りないことなのだ、と。つまり人の血肉の命は、神を信じ真のいのちを得るチャンス的状態期間なのだ。
 
黙示録は西暦1世紀の終わり、最後の使徒ヨハネが聖霊によって書いたもの。当時のドミティアヌス帝による大困難を背景に書かれたものだが、その宛先である自分の監督下にある小アジア七つの教会のはずが、なんと内容は二千年後の今の私たちに、なのだ。これはもう、秋元牧師だけでなく、みなさん興奮するわけだ。
 
不思議な書。恐れていては、書かれていることがチンプンカンプン、怖いだけの読めない書。しかし聖霊を受け、肉に死んだ身で読むなら、作品の中の聖徒の一人に成り代わっている書。驚くべきこの時代にへの預言と計画の書、である。共に読み進めて参りましょう!
 
 
 
 
ケパ
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖徒たちの祈りによって始まる患難時代

2019年06月21日 | 聖書
私たちが生きているこの時代に、聖書が預言している七年の大患難時代がやがて来るだろうことは確実である。(簡単に学べる大患難時代は下のリンクから)
今回黙示録を読んでいて、次の2点が気づかされた。その前半3年半には多くの人々が死ぬ。封印の時代に1/4、ラッパの時代に1/3、併せてなんと全人類の半数1/2が死ぬと言っている。どんなに聖書がこれまで100パーセント正しく預言してきた事実を示しても、おそらく多くの人は信じないだろうし、クリスチャンでも受け入れがたいかも知れない。また、前回の聖書の数字解説で述べたように、これは象徴的な数だと受け取るかも知れない。しかし私が声を大にして言いたいのは、これはユダヤ的数字の比喩表現ではないことだ。と言うことは、割合であり、ほぼこのくらいの実数となる(75億の半分)可能性が高いのだ。
 
となると、これを空恐ろしいと誰しもが思うだろうけども、実は神が全世界を2度滅ぼされることまで聖書は預言されていた。最初は水で。次は火である。ノアの大洪水では8人の者しか生き残れなかった。今回は最終的には太陽も星々も海も無くなり、天の都が降りてきてそこから新しい川が流れての別天地になる。全く異なった永遠の世界、霊が実存する聖なる世界なので、もはや血肉で生きている人は存在しなくなるはずだ。
 
患難時代の前半の3年半に人類が半分死んでも、結局7年の終わりにはサタン以外の多くの人はエルサレム周辺で死ぬ。こらに参加せず生き残った人々は千年王国の時代を経て、最後の大審判で結局は全員裁かれて終わりを迎えることになる。これら全体が火の裁きであると称されているわけだ。だから血肉の体に希望を持っている方には、それはない・・・一刻も早く永遠のいのちを得てくださいとしか言いようのない、神が定められた計画である。
 
ところでこの大患難時を迎えるに当たって、特に聖徒たちの祈りがあることに今回特に気づかされた。
 
先ず封印を開く時代(1/4の人が亡くなる)の前に、二十四人の長老たちが多くの天使たちとともにささげる金の香ーーそれは聖徒たちの祈りそのものだったとある(黙示録5:80-11)。
 
次にラッパの時代(1/3が亡くなる)の前にも、多くの聖徒たちによって祈りがあった。
「別の御使いが来て、金の香炉を持って祭壇のそばに立った。すると、たくさんの香が彼に与えられた。すべての聖徒たちの祈りに添えて、御座の前にある金の祭壇の上で献げるためであった。香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。」(黙示録8:3-4)
とある通りである。
 
これら聖徒たちの祈りとは、およそ次のようなものではなかろうか。
「血肉の命を失われようとする皆さん、それは必ず滅ぶものです。この機会にぜひ、罪を悔い改め、十字架の主イエスによる罪の赦しを受けてくださーい。天国で私たちと一緒に新生の交わりを致しましょーう。血肉の命がある時が、最後のチャンスなんですよー。」
この聖徒たちの祈りと、実際、迫り来る死を前にして、後の雨と呼ばれる大リバイバルが起こっていくのだ。今回私は、これが祈られての災いであることに、目を開かせられた。クリスチャンたちが災いを祈るはずがない。だからこれは、素晴らしい大収穫の祈りなのだ。
 
また後半の3年半には、死に関する記述がない。どうして前半より、さらに大きな患難時代のはずなのに、と疑問をもったが、死ぬよりも生きることの方が辛い時代って、想像ができないものの、確かにそうなのだろうという気がしてきた。「その期間、人々は死を探し求めるが、決して見出すことはない。死ぬことを切に願うが、死は彼らから逃げて行く。」(黙示録9:6)これは前半の中での五カ月だけだが、これが三年以上も後半で続くとなると、死ぬ以上の患難であろう。
 
となると、後半の3年半は、前半よりも確かに格段に厳しい時代であることに納得する。
付け加えだが、額に印をつけられたクリスチャンたちが守られるとある。自分の額を指して、ここでしょうか?と聞く人が出るかもしれない。
聖書には「証印」「焼き印」という表現で、真に神を信じ、自分をささげたクリスチャンを神の所有として現している。自分の罪深さがわかり、聖霊のバプテスマを受けた人はこの意味が分かるはずである。またそのような人は、聖霊様が反応して、おそらく一瞬ですぐにわかるはずだ。反キリストが666の帽子とかネクタイをつけて現れる(笑い)はずがないように、おそらく外見的に一目でわかる証印を付けられるはずがないので、心配でも自分の額にない、無いと慌てられないように。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「十四万人四千人」考

2019年06月19日 | 聖書
 
【はじめに】
144,000人。これは黙示録7章4節の中にある数字である。これを実際の数と受け止めている人々もいるようであるが、私はそれは違うのではないかと思っている。
 
 
 【黙示録の数字について】
黙示録には、46912と数字が出てくるが、これらはいずれも象徴的な意味で用いられている。例えば1節の「四人の御使い」「地の四方」「四つの生き物」とあるように、古来世界は広げられた一枚の地図のごとく、四角いものと考えられていた。4とはその四方の全地を表す数字だ。
7は不思議な数で、どうやっても割る数(約数)が無い。だから完全数として位置づけられている。だからその一つ少ない6は7に足りない、2でも3でも割れる不完全数である。その意味で6は、神に比べ不完全な存在である人を表す数だとも言える。したがって文字通りの意味にとって、666という数字を忌み嫌うか、または恐れる方は、少し頭を冷やされてみてはいかがだろうか?これは神とは程遠い、完全な人間を装ったサタンの象徴であろう。
 
 
次に12である。これは今は現存しないイスラエルの全部族であり、新約においては神の民を表す。24人の長老については、倍数という完全な神の民とも、あるいはイスラエル十二部族とイエスの十二使徒を合わせた数とも言える。
 
【14,4000人】
仕上げは14.4000人である。その前に千という数についてだが、私たち東洋人とはその感覚が異なる。東洋人にとっては万、億、兆と四桁ごとに位取りするが、金銭でもわかるように、世界的には三桁の千単位である。聖書でも百人隊長、千人隊長はあっても、万人隊長は見られない。2019年の呼び方も英語ではthousandを使わずtwenty -nineteen と言う。つまり千以上は数えることが難しいすうじであって、=たくさん、たくさんなのである。
 
また一辺の自乗である平方は、単に面積という広さを表すより、膨大さを表す意味があると思える。これらのことを勘案するならば、14,4000人の意味は次のように明らかになる。《12×12=144×1,000》とは《漏れ一つない、霊的イスラエル全部族、膨大なそのすべての神の民》である。このように見ていけば、14,4000人とは、9節から後に続く言葉「その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。」という本体の先触れか、あるいはその象徴的な意味であることがわかると思う。
 
 
【結論】
こうして見れば、私としては、14,4000人が実際の数であって、彼らだけが印を押された特別な存在だと見ることに、同意できない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖書預言の終末が近づいている

2019年04月16日 | 聖書
現在、国際情勢は非常に大きく動き、一昔前には考えられなかった世界の情勢が変わってきている。つまり北の国ロシアが、遠いイスラエルを攻める環境が整いつつあるのだ。
 
エゼキエル書では、その38章に次のような預言がある。
下の文中でゴグとは、メシェク(モスクワ)とトバル(トボリスク、つまりウラル山脈東側=シベリヤの中心の街の意)の大首長だから、現ロシアの全体を指していると思われる。15節にも「北の果てのおまえの国から、多くの国々の民とともに来る。」とある。
また、マゴグとは、黒海とカスピ海沿岸の地(はんちゅう)を指すので、これも広い意味ではゴグの範疇に入るだろう。これら北のゴグとマゴグを主力とした軍勢に、ペルシャやクシュ(エチオピア)にプテ(リビア)などの軍勢も加わった多国籍の大軍勢が、平和条約で安心しているイスラエルを攻め来るという預言である。
それゆえ、人の子よ、預言してゴグに言え。『神である主はこう言われる。わたしの民イスラエルが安心して住んでいるとき、まさに、その日、おまえは知ることになる。おまえは北の果てのおまえの国から、多くの国々の民とともに来る。彼らはみな馬に乗る者で、大集団、大軍勢だ。おまえはわたしの民イスラエルを攻めに上り、地をおおう雲のようになる。終わりの日に、そのことは起こる。ゴグよ、わたしはおまえに、わたしの地を攻めさせる。それは、わたしがおまえを使って、国々の目の前にわたしが聖であることを示し、彼らがわたしを知るためだ。」エゼキエル書381416節聖書 新改訳©2017
 
このエゼキエル預言のポイントはロシアとイスラエルを結ぶ中間点に当たる国、イランとトルコ、シリアにある。ロシアは伝統的に南下政策を取ってきたので、基本、これらの国々とは多くの戦争を繰り返し、その都度徐々に土地を奪ってきている。つまりイランやペルシャにとってロシアは、日本の北方領土どころではない、不倶戴天(ふぐたいてん)の敵なのだ。
 
そのトルコやイランがロシアに近ずいているから、驚きなのだ。まずアメリカがイランに厳しい制裁を科している。それでイランは対抗上シリアに近ずかざるを得ない。またイランの傀儡(かいらい)軍であるヒズボラとの関係もある。
トルコについて言えば、クルド人問題で、これを支持するアメリカとの間に乖離(かいり)が生まれつつある。
さらにシリア情勢だ。アサド政権がほぼシリアを平定しつつある現在、シリアの軍事などの最大の後ろ盾はロシアだ。シリア内に軍事基地を持っているほどだ。イスラエルと国境を接する隣国シリアに、なんと親イラン、親ロシアの国が誕生していくのだ。
 
こうしてみると、シリア領内のヒズボラやイランの革命防衛隊をイスラエルが空爆しているが、これが本格的な争いになった時、シリアの救援要請に、ロシアという北の果ての国が、イランなど周辺諸国を巻き込んで、その大軍団をまっすぐ陸路南下させる道が、今こうして完全に開けたことになる。これは歴史上、全くあり得なかった事態なのだ。
 
エゼキエルのこの預言は約2600年前のものである。その間1900年にわたるイスラエルの離散と復活があった。長崎の隠れキリシタンでは禁教が250間年だった。信仰を守るのでも、これは桁が違う数字だ。
奇跡を成し遂げた今日のイスラエルは、核兵器を持ち、スンニ派の国々と手を結び、アメリカを後ろ盾にして、今日では平和を得ている。私たちは平和を謳歌しているが、聖書の断じる世界の終わりが、こうして今、刻々と実現しつつあるのだ。今日、明日ではないが、終末が確実に近づいていることだけは確かだ。
 
 
 
 
ケパ
 
 
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神の言葉である聖書の正しさ

2019年04月03日 | 聖書
今日の水曜礼拝では、ガラテヤ書の終わりにつき、聖書の矛盾点だと思われかねない点ついて語った。(今日の船橋 風が強く寒かったが、桜はそれを待たずに咲く)
ガラテヤ書はローマ書と並んで、パウロ神学の土台である。そこには「人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められる」(ガラテヤ2:16)
これに対して、ヤコブ書には、
「人は行いによって義と認められる😁😁🙄😉のであって、信仰だけによるのではない」(ヤコブ2:24)とある。
 
一方では信仰だけだと言い、もう一方では、信仰だけではない、行いだと言っている。このような言葉のぶつかりを取り上げて、聖書は矛盾に満ちた、取るに足りない書物だと切り捨てる人がいる。
 
初めから神なんていない、粗探しをしてキリスト教をぶっ壊してやると思う人は、当然ながら人間的なレベルの理解力しかない。しかし対する神は宇宙と命の創造者であって、人間の能力の比ではない。
だから信仰者として、聖書で分からない、どうしてもぶつかると言う箇所においては、じぶんの人間としての力では「主よ、人間に過ぎない私にはわかりません。どうかあなたが教えてください」と祈り求めることになる。決して自分の能力で判断し、矛盾しているなどと判定したりはしない。それは傲慢だ。
 
かと言って、ここはキリスト教の根幹に関わる所なので、人間的な努力をして可能な限り矛盾を解きたいと思う。
まず第一に、ガラテヤで言っているパウロの対象は、教会内で、ユダヤ教の律法主義に侵されそうになっているガラテヤの人々を対象としている。対するにヤコブは、異邦人のクリスチャンが教会に行き、たとえクリスチャンても、信じる前と変わらず不品行を行い続けているような、そんな、不品行な人々相手に言っている。対象が違えば、当然言葉が逆になって行く。
 
また、最重要なポイントは順番である。十字架を心から信じるならば、聖霊の内住が行われ、
クリスチャンになって、最初に驚くのは、しようと思った肉欲の行為ができなくなって、返って祈るように導かれることである。だから私としての答えは、順序にある。信じたら(神に反することが)できなくなる、そう言うわけで、ヤコブの手紙もまた正しいのである。
 
 
 
 
ケパ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

測り難い神の知恵と愛

2019年03月22日 | 聖書

本日は聖書の話。

一切のことを愛をもって行いなさい」(1コリント16:14©️2017)

この御言葉をリアルに、自分に当てはめるなら、私はアウト!判定になる。

他人と比べたらまんざらでも・・と思いそうだが、よく澄ましてみると、善意で計らったつもりでも、心の中に、自分がよく思われたかった下心を否定できない。心からの愛、善意が私には、無い! 神からのこのたった一つの戒めすら守れない私は何者なんだろうか?私は自分に希望を失う。

 

ふと考えてみると、この御言葉は新約における唯一の律法と言っていいものだ。すると同時に次の言葉がよみがえってきた。

私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たとき、罪は生き、私は死にました。それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。(ローマ人への手紙7910©2017

そうかぁ。自分がどんなに愛がなく、罪深い存在であるかを、神はこの律法で教えてくださった。だから私は自分に(絶望して)死に、できるのは鏡のようになって神の愛を反射するのみ。つまりはこれが「一切のことを愛をもって」と命じられた神の御心なのだぁ〜、と。

 

神の知恵と計画は、到底人の理解できるものではない。この神を褒め称える。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖職者と独身制を考える

2019年03月08日 | 聖書

キリスト教の聖職者とその独身制度について、ちょうど今、通読で第1コリント7章に差し掛かっており、この機会に読者と認識を深めておきたい。

キリスト教には三つの大きな流れがある。元は一つであったがローマ帝国が東西に分裂したことで、教会もカトリックと東方正教に分かれ、その後1517年にルターが免罪符の欺瞞性を抗議し、信仰のみを訴えてカトリックからの宗教改革=プロテスタントが派生した。「信仰のみ」なので神と人との間に一切の権威も認めない。そのため聖職者という概念もなく、罪を赦す特別な権威も認めていない。(宗教改革者ルターは神学者、聖職者、作家、大学教授だったが率先して結婚した。貴族出身のシスターで、修道院を脱出して結婚。二人は41歳と26歳だった)

  

正教グループは修道院がある。そして主教は修道僧がなるから、一見独身制のように見えるが、ギリシャなどで見た在俗司祭は結婚して、子供づれで信者と食事をしていた。結婚しているのが普通なのである。(ギリシャのメテオラにあるRoussanou[ロウサナオー}修道院)

      

したがって独身制を貫いているのはカトリックだけということになる。しかしそのカトリックの総本山であるバチカンで現在、「聖職者の性的虐待」と題して緊急の大対策会議を開いているのをご存知だろうか。特殊な事例にとどまらず、カトリックを揺るがす多くの事例が次から次へと世界各地で明るみに出て、告発されているのである。独身制の誤りが最高に犯罪的、醜悪な形で明るみに出ている。

カトリックが拠り所としているのがマタイ19章10〜12とパウロが書いた第一コリントの7章である。注意したいことはキリスト教の初期から、独身制はまったく存在しなかったことだ。第1コリント9章5節には「ほかの使徒たち、主の兄弟たちや、ケファのように、信者である妻を連れて歩く」とある通りだ。つまり結婚しないパウロは、例外的存在だったのだ。

それがどうして独身制度が広がり、確定した制度となったのか、は映画「ブラザー・サン シスター・ムーン」に詳しい。要するに権力化したカトリックが世襲によって腐敗したからだ。世襲が問題なのでなく、権力化し腐敗したことが問題だったはずなのだ。

 

イエス・キリストは「それが許されている人だけができるのです。母の胎から独身者として生まれた人・・」などと、特別な事例として結婚しない者をあげているのであって、現にパウロを除く十二弟子や主の兄弟たちは結婚している。

パウロ自身も「淫らな行いを避けるため」結婚しなさいと勧めている。それは罪を犯すことではない、と。私は思う。「いったい、健康な男で、結婚が必要でない男がはたして存在するだろうか」と。私は考えられない。人が男と女に作られたのは、それが必要で欠くべからざるものだからだ。居てもいなくてもどうでも良いものではない。

自分自身のことを考える。私に妻がいなければ、私はいっそう体の攻撃にさらされて罪深く、かつ孤独で感情的にヒステリックな状況に置かれ続けたことだろう。それは霊的には危険な状況だ。また妻がいることで、人類の半分の人々(教会では多数を占める人々)に対し、妻を通して牧会も進んでいく。なによりも様々なケースに対し、男性と女性では違いがあり、その両方を認識することが必要なのだ。

 

私の知り得た個人的な範囲でも、カトリックの司祭、シスターも性的な過ちを犯している。彼らだって生身の体を持った人間なのだ。性的虐待とは次元が違って、これは許されないことと言いながら、人間として当然あることであろう。しかし大きな違いは、それが神への誓いを裏切り、信者を裏切りつまずかせ、教会を汚す罪になることだ。

 

私も若い頃、結婚を願った女性とかなわなくて、愛せない人と結婚するよりは、とイエズス会の修道院に入ろうと決心したことがある。これは神によって直前にストップされたのだが、もしそんな動機で請願をし、修道院に入っていたら、とそら恐ろしくなる。おそらく、どんなに修道生活を熱心に送ろうと肉に攻められ続け、肉欲に魂が取り憑かれて妄想に狂い、恐ろしい結果になっていたことだろう。

      

かつて修道院に入る決心をしたシスターたちの手記を読んだことがあるが、かなりの数で私のような失恋が上げてあった。今ははっきりわかるのだが、そんな理由で修道院に入るのは、全然間違っている。結婚を神に祈り、みこころの人と結婚すべきだ。あきらめずに祈り続ければ、神は必ず祝福してくださる。神は人の弱さを思いやれないような方では決してない。二度も結婚した私はそう思うのだが。

 

 

 

ケパ

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イエス・キリストの七つの“I Am ”

2019年01月12日 | 聖書

ヨハネ伝の特徴の一つに、イエス様はもはやたとえで語らず、ご自分のことを七つのI Am(わたしは○○というものである)で公言された。神さまとはどのようなお方であるのか、理解するのに最高だと思われるので、ヨハネ伝が終わろうとしている今、ここに挙げてみたい。私は全部暗唱したいと思うほどだ。※引用はすべてヨハネ伝で、新改訳2017に拠る。

▼1▼
6:35、6:42、6:52
「いのちのパン 」
35わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

▼2▼
8:12
「世の光」
わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。

▼3▼
10:7、10:9
「羊たちの門 」
9わたしは(羊たちの)門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。

▼ 4 ▼
10:11、10:14
「良い牧者」
11わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。

▼5▼
11:25
「よみがえり、いのち」
わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。

▼6▼
▼14:6
「道、真理、いのち」
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

▼7▼
▼ 15:1、15:5
「ぶどうの木」
5わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。







ケパ






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする