この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。
この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ

本日は聖書の話。
「一切のことを愛をもって行いなさい」(1コリント16:14©️2017)
この御言葉をリアルに、自分に当てはめるなら、私はアウト!判定になる。
他人と比べたらまんざらでも・・と思いそうだが、よく澄ましてみると、善意で計らったつもりでも、心の中に、自分がよく思われたかった下心を否定できない。心からの愛、善意が私には、無い! 神からのこのたった一つの戒めすら守れない私は何者なんだろうか?私は自分に希望を失う。
ふと考えてみると、この御言葉は新約における唯一の律法と言っていいものだ。すると同時に次の言葉がよみがえってきた。
私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たとき、罪は生き、私は死にました。それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。(ローマ人への手紙7章9~10節 ©2017)
そうかぁ。自分がどんなに愛がなく、罪深い存在であるかを、神はこの律法で教えてくださった。だから私は自分に(絶望して)死に、できるのは鏡のようになって神の愛を反射するのみ。つまりはこれが「一切のことを愛をもって」と命じられた神の御心なのだぁ〜、と。
神の知恵と計画は、到底人の理解できるものではない。この神を褒め称える。
キリスト教の聖職者とその独身制度について、ちょうど今、通読で第1コリント7章に差し掛かっており、この機会に読者と認識を深めておきたい。
キリスト教には三つの大きな流れがある。元は一つであったがローマ帝国が東西に分裂したことで、教会もカトリックと東方正教に分かれ、その後1517年にルターが免罪符の欺瞞性を抗議し、信仰のみを訴えてカトリックからの宗教改革=プロテスタントが派生した。「信仰のみ」なので神と人との間に一切の権威も認めない。そのため聖職者という概念もなく、罪を赦す特別な権威も認めていない。(宗教改革者ルターは神学者、聖職者、作家、大学教授だったが率先して結婚した。貴族出身のシスターで、修道院を脱出して結婚。二人は41歳と26歳だった)
正教グループは修道院がある。そして主教は修道僧がなるから、一見独身制のように見えるが、ギリシャなどで見た在俗司祭は結婚して、子供づれで信者と食事をしていた。結婚しているのが普通なのである。(ギリシャのメテオラにあるRoussanou[ロウサナオー}修道院)
したがって独身制を貫いているのはカトリックだけということになる。しかしそのカトリックの総本山であるバチカンで現在、「聖職者の性的虐待」と題して緊急の大対策会議を開いているのをご存知だろうか。特殊な事例にとどまらず、カトリックを揺るがす多くの事例が次から次へと世界各地で明るみに出て、告発されているのである。独身制の誤りが最高に犯罪的、醜悪な形で明るみに出ている。
カトリックが拠り所としているのがマタイ19章10〜12とパウロが書いた第一コリントの7章である。注意したいことはキリスト教の初期から、独身制はまったく存在しなかったことだ。第1コリント9章5節には「ほかの使徒たち、主の兄弟たちや、ケファのように、信者である妻を連れて歩く」とある通りだ。つまり結婚しないパウロは、例外的存在だったのだ。
それがどうして独身制度が広がり、確定した制度となったのか、は映画「ブラザー・サン シスター・ムーン」に詳しい。要するに権力化したカトリックが世襲によって腐敗したからだ。世襲が問題なのでなく、権力化し腐敗したことが問題だったはずなのだ。
イエス・キリストは「それが許されている人だけができるのです。母の胎から独身者として生まれた人・・」などと、特別な事例として結婚しない者をあげているのであって、現にパウロを除く十二弟子や主の兄弟たちは結婚している。
パウロ自身も「淫らな行いを避けるため」結婚しなさいと勧めている。それは罪を犯すことではない、と。私は思う。「いったい、健康な男で、結婚が必要でない男がはたして存在するだろうか」と。私は考えられない。人が男と女に作られたのは、それが必要で欠くべからざるものだからだ。居てもいなくてもどうでも良いものではない。
自分自身のことを考える。私に妻がいなければ、私はいっそう体の攻撃にさらされて罪深く、かつ孤独で感情的にヒステリックな状況に置かれ続けたことだろう。それは霊的には危険な状況だ。また妻がいることで、人類の半分の人々(教会では多数を占める人々)に対し、妻を通して牧会も進んでいく。なによりも様々なケースに対し、男性と女性では違いがあり、その両方を認識することが必要なのだ。
私の知り得た個人的な範囲でも、カトリックの司祭、シスターも性的な過ちを犯している。彼らだって生身の体を持った人間なのだ。性的虐待とは次元が違って、これは許されないことと言いながら、人間として当然あることであろう。しかし大きな違いは、それが神への誓いを裏切り、信者を裏切りつまずかせ、教会を汚す罪になることだ。
私も若い頃、結婚を願った女性とかなわなくて、愛せない人と結婚するよりは、とイエズス会の修道院に入ろうと決心したことがある。これは神によって直前にストップされたのだが、もしそんな動機で請願をし、修道院に入っていたら、とそら恐ろしくなる。おそらく、どんなに修道生活を熱心に送ろうと肉に攻められ続け、肉欲に魂が取り憑かれて妄想に狂い、恐ろしい結果になっていたことだろう。
かつて修道院に入る決心をしたシスターたちの手記を読んだことがあるが、かなりの数で私のような失恋が上げてあった。今ははっきりわかるのだが、そんな理由で修道院に入るのは、全然間違っている。結婚を神に祈り、みこころの人と結婚すべきだ。あきらめずに祈り続ければ、神は必ず祝福してくださる。神は人の弱さを思いやれないような方では決してない。二度も結婚した私はそう思うのだが。
ケパ