心理学オヤジの、アサでもヒルでもヨルダン日誌 (ヒマラヤ日誌、改め)

開発途上国で生きる人々や被災した人々に真に役立つ支援と愉快なエコライフに渾身投入と息抜きとを繰り返す独立開業心理士のメモ

身近な市民レベルの国際協力に思うこと

2010-06-01 19:27:01 | 国際協力・一般
国際的な支援では、現地にプロジェクトを管理運営する日本人駐在員を置くスタイルとは別に、駐在員をおかずに年に1~2回数日間、日本から開発途上国現地のプロジェクトサイトを日本語-現地語の通訳を雇って訪れて、日本から準備していった物品-文房具・村の電化・学校作り・トイレ作り・校舎の補修・野菜の種・薬剤などなど-を提供するという民間レベルの国際協力はじつは少なくない。
経費が少なくて済むやり方であり、支援者が現地に直接、登場することもできる。
実施する中心には現地が大好きな旅好きや定年退職者がいることが多く、交通費や滞在費用を全額自己負担して自腹を切ることにもさして負担意識は大きくはないようだ。
生きがいになっているというか。

日本からの訪問時期には、関心ある人々に呼びかけて、村人との交流+周辺の観光ツアーを企画実施して人の輪を広げていることも多い。
そしてこの人々がドナーとなって自主資金を担っていく。
確かに普通に生活する日本人たちに開発途上国の人々との出会いの場を提供していることはすばらしい。

現地国に日本語ができる現地人の協力者兼通訳を置くことが多い。
活動地に村人からなる委員会を作り、活動を日本へ報告してもらうという努力を行っている場合もある。うまくいっていることはあまり聞かないけど。

しかし彼ら日本側には悩みがあって、
現地が物品寄贈ばかり希望してくるとか、
次の訪問までに実行すると約束してきたことを守らないとか、
現地で応対する人物が一定しないとか、
学校を卒業する若者たちが村を離れてしまうとか、
報告が正確でないとか、
経理が不明朗だとか、
はては土地建物まで私物にされてしまったとか、などと耳にすることがある。
活動の対象者全体用に提供された資材を誰かが私物化したという話なら枚挙に暇がないほどだ。
まあ、いいように、したたかに、現地に利用されていると言うか・・・

また村人との話し合いによって支援内容を決めることはなく、日本側が日本で決めるという特徴もある。
それも、現地での事前調査は行われず、費用対効果の点検も行われず、類似地での類似プロジェクトの報告などを調べて失敗や成功経験を生かすなどの客観的な検討が行われることはない。
日本からの支援内容は日本側が誰かからの情報から直感(!)によって決定し、現地の村人は受身という構造だ。

たとえば、教室が暗いのは窓にガラスが入っていないからとか、冬の食事がジャガイモばかりで貧しいからと言って、現地では高価な窓ガラスを提供したり、その地域にはこれまでなかったサツマイモなどの作物の作り方を教えてきたりする。支援内容が残っていることは珍しい。
また靴下を履いていないのはかわいそうだから、あるいは布製のオムツがいいからと日本で集めて持って行ったのも見たことがある。これは継続されるはずがない。

寒い地方では窓は少なくして保温性を高める構造だし、窓があっても板製にするし、近年では村ではサンダルが普通の履物になってきてはいても、靴を履くのは特別のときだから靴下を持っている人は少ないし、赤ちゃんの時期には腰から下には何も履かせず、粗相があれば洗って済ませるのが習慣だし、布自体が貴重品だし、そういう文化的な差異には無自覚な介入も見る。
支援者が日本文化によって拘束されていて、多文化状況を認識しないアプローチだ。

現地のニードと日本側の善意がかみ合っている時はいいけど、常にそうとは限らない。
村人たちは日本人グループが滞在しているときだけ、それなりの感謝をして相手し、それ以外の長い不在期間には他の支援を待っていたりするのが現実だ。

日本人のかかわりに近寄ってくる村人が「いい人」で、離れていく人などは「悪い人」などいうレッテル張りが支援者の中で行われたりするのは気になる。
一人の人でもいろいろな側面を持っているし、今は関心がないだけかもしれないのに・・・
なかには村人を見下したり、バカなどと罵倒する日本人が出てくることもある!
勝手におせっかいしているだけなのに。

支援者の自己満足に終わってしまう場合も多い。
現地語ができないために村人との人と人との交流は生まれない、歓迎の踊りなどを見せてくれることはあっても。
現地から感謝されていると思っているのに、物品をアテにされているだけだったりする。
好意が生きない場面を見ると残念に思う・・・

関わりが終了したときにその活動が残るかどうかという「持続可能性」という言葉を知っていても、A活動がダメだったら違うBをやればいいなどと永遠のかかわりを夢想していたりする。
調査がない。計画性がない。評価がない。

これでは現地の村人が主体的に動きようがなく、自主性を阻害する。
日本人たちがいる間は清濁の双方に付き合わされる。
平らな関係で共に物事を進めていない。

国際協力のプロ(!)がうごめくODAの多くは費用対効果の視点からきっちり「業務仕分け」の対象にすべきだし、
ODAで行われるボランティア事業に至ってはおよそ現地への支援になっていない場合のほうが多い(!?)のだが。

こうして、地球上では相対的に金満社会に生きる日本の人々が開発途上国と触れ合っていくことは、時代の自然な展開としての庶民レベルのグローバル化が進んでいるんだと思う・・・

もっと富の不均衡を解決に向かわせるトータルな哲学的政治的社会的な視点を掴みながら、そしてその具体策としての方法論の上で国際協力のプロと市民が共有・共闘できればいいと思うのだけど・・・



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