茶の葉の声に耳を澄まして    Tea-literacy

数千年にわたる茶と人とのかかわりに思いを馳せ、今、目の前にある茶の声に耳を傾ける
お茶にできること、お茶の可能性とは

二人でお点前

2009年09月15日 | Weblog
点前座に二人並んで座って
右に座った人の右手と
左に座った人の左手で
通常のお点前をして
一煎さし上げるという
お稽古をしました

もともとは
手にしびれが出て
お点前が不自由になってしまった年長の方を
そばで介助して
お茶の楽しみを続けていただいたという例が
一つのお点前として確立されたものです

やってみると
とっても面白いです
たくさんの発見があります
点前座は一客のシンプルなもので
手順はしっかり頭に入っているはずなのに
動きが一歩遅れてしまう
これが
まるで一人の人がお点前をしているかのようにできたら
とてもきれいで
とても楽しい座が立ち上がると思います

両手で托子(お茶拓)を移動させるのも
両手でお茶碗をもって三回まわして清めるのも
あなたの左手と私の右手で行うわけです
リズムや
動きの幅や
今まで意識しにくかったものが
じゃーん
しっかりズレとなって現れてきます

「一煎」「さしあげます」
「どうぞ」「お楽に」
「おたいくつ」「さまでした」
言葉も二人で分けてかけます
流れるよう言葉が続くよう
お隣の息づかいに全神経を傾けるのが
とっても楽しい!

これくらい
いつも周りの人の息づかいを意識できるようで
あれたらいいなとおもいました
ふと必要な手が出て
でもそれがぜんぜんなんでもなくて
まるで目が10個くらいついているような
耳が十四あるような

人間には
使い切っていない細胞がたーくさんあるそうですから
もっともっと醒めていたいです
B型射手座の私は
しみじみそう思いました

今年は彼岸花が早いですね


お形(なり)は

2009年09月14日 | Weblog
コンビニでこのお茶を見て
びっくりして買ってしまいました
驚いたのはペットボトルの形です
シャンプーみたい・・・
調べてみれば
もう春には出回っていたようですし
このスリムボトル自体は
二年も前から市場に登場していたらしいのに
今までまったく知らなかったなんて

通常の腰のくびれた500mlのものより
2センチもスリムになって
高さは同じで450ml入り
バックにすっとおさまって
ぼこっとしなくて大いに感激しました
でも
シャンプー飲んでるみたい・・・
頭堅くて困ったものです

みれば
「カバンにスッキリ
 スリムボトル」と
ラベルに書いてあります
コンビニで購入したあと
バックに入れて持ち歩くという
消費者の行動形態を調査して開発されたこの容器
持ちやすいし
お見事です

ペットボトルのお茶でなくて
急須でお茶を
とインストラクションしているそばから
こんなに絶賛していて申し訳ないですが
調査をきっちりとして
たえず研究をしている企業の姿勢は
本当にすごいなと思います

それに
「からだ巡茶」に関してはいいの
絶賛しちゃうの
急須でお茶は淹れられるけれど
烏龍茶、緑茶、どくだみ、熊笹、杜仲茶、
黄茶、はすの葉、プーアル茶、クコ葉、みかんの皮、
高麗人参、霊芝、
それに今回クコの実も入りましたそうですから
すごい、すごい

でも明日は
このペットボトルに
急須でお茶淹れて持って行こうっと
なんか
節操のない私です


ニューヨーク

2009年09月13日 | Weblog
『天地人』のあと
日曜洋画劇場『9.11最後の真実』を観て
景勝の勇断がますますかっこいいと思いました
今攻めれば天下が盗れるけれど
敵を背後から攻める戦に「義」があるか
常に神仏に相対して思索していた謙信公の「義」
一個人ならともかく
一国のリーダーがそれに従うのは大変なことでしょう
大衆の信望を得るには
勝つのが一番なのですから

ワールドトレードセンターが崩れ落ちる時
現場にいた伊藤園さんの女性スタッフさんが感じたことを
聞いたことがあります
ITOEN NYの準備に奔走していた時期だったそうです
ニューヨーク市民の多くがそうであったように
何かをする前向きな力が失せ
とくに
こんな時にお茶を売る仕事なんか
どうでもよいという気持ちになったそうです

ところが数日したときに
こんな時だからこそお茶なのだと
何かがお腹の奥から湧き上がってきたと言います
みんな不安で集まり合いたがっていて
でも
食事を楽しんだりお酒を飲んだりというのではなくて
いま必要なのはお茶だと
そう思ったそうです

そのニューヨークで約100年前に
岡倉天心が『茶の本』を発表しています
物質主義、産業主義に邁進する世界に
「たかが一杯の茶でも
 心を澄まして味わえれば
 そこには調和を重んじる
 東洋の精神が息づいている」
と訴えていました

世界貿易センターの崩壊
その時に今こそお茶だと感じたアメリカ人の彼女の言葉
100年前の天心の警鐘
戦場にはためく上杉の「義」と「愛」
ITOEN NYのHPに見つけた
「relax and rejuvenate with tea」
という言葉

朝茶に離れずに過ごしましょう

酔芙蓉

2009年09月07日 | Weblog
暑さの残る九月のお稽古日
単衣のお着物は帯まで汗がじわっというほどです
そんなうっとうしさを吹き飛ばすように
床には真っ白な酔芙蓉
「秋です」と
清々とした顔ですましています

酔芙蓉というのは
お酒によって頬が紅くなるように
咲いたときは真っ白な花びらが
時間と共に紅く染まっていくので
そう名付けられました
9時から4時まで茶室にいて
八重の花びらがゆっくりと頬を染めていく一部始終を
はじめて見届けることができました
朝、真っ白だった芙蓉は
気が付けば
ほんのり色づいてきていました
お昼前には
やわらかな明るいピンク
3時には
濃い色になっていました
画像の濃い花は前日咲いていた花です

花言葉は「繊細な美」
でも
みんなの頭に浮かんだのは
風の盆恋歌・・・
紅く燃え尽きる一日花は
その日一日だけの逢瀬
誰かが「す~いふよう~♪」なんてこそっと口ずさむから
茶室で
さゆりちゃんの歌がリフレインして・・・
花月のお稽古の時でした

又玄斎一燈さま
ごめんなさい
禅禅だめなわたしたち


風の盆恋歌:なかにし礼

蚊帳の中から 花を見る
咲いてはかない 酔芙蓉
若い日の 美しい
私を抱いて ほしかった
しのび逢う恋 風の盆

風雅オンザビーチ

2009年09月06日 | Weblog
如心齋は表千家7代
又玄齋は裏千家8代
茶の湯が禅の心から離れてしまったことを憂慮して
七事式(しちじしき)という新たなルールを設けたこの兄弟は
茶の湯の中興と呼ばれています

花月をはじめとする七事式には
細かなルールがたくさんあります
それらをきっちり身につけ
5人の一座建立の気が合って
パーフェクトな花月に至ったとして
はたして
遊芸化した茶の湯の女子は
そこで「風雅」に会ったのでしょうか
禅の心とは
誰かが導けるもの?
でも仕掛けなければ
発心の機会もないということでしょうか

今日はお茶のお友達と
葉山の海でまあるい月を見てきました
潮騒と虫の声
星の瞬きと月光の中にいて
お茶を啜ったりしていました

どんなに調子が悪くても
ぜったいに病院に行かない私を
満月の月光浴に誘い出してくれました
一日中立ちっぱなしの仕事を終え
くたくたの体で彼女は砂を掘ってくれました
いつも人のことばかり考えている人です

舅姑に仕え
夫こどもの世話をし
犬や花に手をかけ
パートにも出かけ
毎日4~5時間しか寝ていなくて
土日もアフターファイブもなくて
飲みに行ったり食事に出かける暇などなくて
それが365日続いていても
ふと時間を見つけては
誰かのために針を持ったり
キッチンに立ったりしている・・・
それでもそれが喜びで
まったく普通にこなしている
まったく
お茶事を毎日こなしているような達人です

さういうひとに私はなりたいと努力してきましたが
まだまだ足元にも及びません
私は彼女のお茶の先生ですが
禅的な心を思うならば
彼女は私のずっと上にいます
そのような人に
これ以上茶の湯の何を伝えるのか
いつもそんなことを考えます

『花月風雅集』

2009年09月05日 | Weblog
花月(かげつ)というのは
5人で行うゲームのようなお稽古です
札をひいて役を決めます
お点前さんが茶杓をとったところで
札を回して
「月」をひいた人がお茶をいただき
「花」をひいた人が次のお茶を点てに立つのです
お点前さんと花の人が座を代わるタイミング
茶碗をとりこみまた戻すタイミング
次の札をまわすタイミングなどが
すべてがうまくいくと
それはきっと気持ちが良く
端で見ていても
きれい!ということになるのでしょうが
これぞ花月なんて未体験です

本当はここでこうなのよね~とか
立つべき時に足しびれて立てない~とか
また花だから月だったことにして~とか
おおよそ「風雅」には至りません
たいてい笑いが絶えず
どちらかというと楽しいお稽古になります

でも花月の本来の目的は
その「楽しいお茶」を戒めるものでした
「茶の湯が漸く女子の遊芸と化そうとした徳川中期に、
 それを憂慮して如心齋と又玄齋が
 稽古本位に創設したもので
 厳しい規矩作法の実践を企てた」
と本書の「はしふみ」にあります

江戸中期には女子の遊芸と化していた・・・
女子だけ~?
というのはおいておいて
ということは
江戸中期に
着物を着て女性は正座をして
お茶のお稽古をしていたわけですね
むむ、正座・・・
どんな着物の着方だったのでしょう
遊芸化した茶の湯というのは
どんなだったでしょう

改訂版
『花月風雅集』
監修 千宗室
 編 濱本宗俊
昭和61年7月12日発行
淡交社

青湾茶話(せいわんさわ)

2009年09月04日 | Weblog
『花の時、月の夕
 茗盌を啜り、
 以て清興を助け
 酒杯を把りて
 幽情を開く
 此を舎てて
 又奚(なん)ぞ求めんや』

江戸中期の煎茶家に
大枝流芳(おおえだりゅうほう)という人がいます。
青湾が号です。
中国の煎茶に関する記事をまとめ、
『青湾茶話』という
煎茶仕様集を編集しました。
1756年のことです。
この詩はその序に挙げられているものです。

煎茶家という時の煎茶が指すものは、
茶業でいう煎茶の括りと少し違います。
抹茶という茶道に対して、葉茶を使う喫茶を好む人を
茶道家というほどでないにしても、
煎茶家と呼ぶという感じでしょうか。
扱うお茶は、
茶業でいうところの緑茶いろいろ。
つまり、煎茶も釜炒り茶も番茶も…というところ。

いえいえそれどころか、
『青湾茶話』には、紅茶も記されていますし、
大枝流芳は抹茶の茶道でも大家でしたから、
つまり、お茶に関して多種多様を心得ていたのです。

同じような時代、
佐賀に生まれた売茶翁が
万福寺を訪ねるのは13歳の時です。
隠元さんが入滅されて15年ほど後のこと。
佐賀では
すでに釜炒り茶は飲まれていましたが、
明調の萬福寺で味わうお茶は、
若き菊泉(売茶翁の幼名)に
どのようなメッセージを与えたことでしょう。

釜炒り茶は、隠元さんより以前、
1406年に栄林周瑞が霊厳寺(福岡県八女)に
茶の種と共にその製法を伝授したとも、
1504年に紅令民が佐賀嬉野に南京釜を持ち込んだとも
伝えられていますが、
中国風のお茶を飲む仕様は根付いてはいなかったのです。

喉を潤すだけのものではないお茶。
江戸中期になって、
ようやく青湾や秋成が
きちんと中国の茶書を繰った上で、
日本の茶書を記すようになるのです。
目次の中にある「良友」の文字が、
茶とは何かを伝えているようです。

『隠元』その3

2009年09月03日 | Weblog
20代の隠元さんが出家したいと願ったのは
世と全く違う精緻な空気への憧れとありましたが
本書を読み進めていると
お寺の仕事というのは
お金を集め建物を建て
人を組織することで大忙し
発展すれば誹謗中傷も起こるし
理解の違いで分裂も起こるし
そんな世界でトップに立った隠元さんは
静かな世捨て人というより
強い指導者だったのだと
ちょっと印象が変わりました

万福寺が人を呼んだのは
唐音の念仏や木魚のような鳴り物が
珍しかったことも大きかったようです
読経するときのポクポクは今ではお馴染みですが
日本では隠元さんから始まっているのです
「下根の者に対して念仏させる」
「これは正に病に応じて薬を与うるの意」
「在俗者でも上根者に対しては接化の手段」
「如来は一切衆生の機根に任せて強化
 智者も愚者も余さず漏らさず最上乗の法門へ」

修行中眠くなってしまう人には
ポクポクが功を奏すということです
そんなんでいいのか!と
よろしく思わない僧もまたたくさんいたといいます
でも結局木魚は根付きましたね
多くのお寺さんが採用しています

「魚は昼夜醒む。
 木を刻み、形を象し、これを撃つ。
 以て昏惰を警するところなり」
これが木魚の意味で
宋元の頃までは魚の形をしていたものが
明代になってまあるくなったそうです
眠くなったらエイ!とたたいて眠気を払う工夫は
禅寺で抹茶を喫する習慣がなくなったから!
なんてことは
どこにも書いありませんでしたが
う~む
そんな気がしてきたではありませんか


『隠元』
平久保章 
日本歴史学会編
昭和37年9月25日発行
吉川弘文館

『隠元』その2

2009年09月02日 | Weblog
隠元さんが来た頃の日本は
本寺末寺間の階級制度強化
新義異義禁止
宗門改による強制的檀家制度
新寺院建立禁止
というように
仏教界では
悪いお坊さんは喜び
良いお坊さんは憤るという状況だったようです
鎖国から13年目
4代家綱の時代です

でも長崎ではお奉行様がとても好意的
来日早々興福寺には
数千を超えるファンが押し寄せる勢いで
「隠元は臨済32世的伝の祖師、
 大唐中にも希有の大善知識、
 釈迦・達磨の再来であるとて
 僧俗男女が入れ替わり立ち替わり、
 夜となく昼となく参拝し、
 法名を望む者限りなし・・・」
と記されるほどでした

その後も
摂津の普門寺での説法をはじめ
江戸その他地方への行脚のたびに
寺社奉行から様々な制約が与えられるものの
内情はかなり好意的で
15石という扶持米まで施されるようになります

隠元さんは20人のお弟子さんと渡ってきましたが
彼らはみな詩偈、題讃、法語にすぐれ
黄檗の「道徳の美」と「文章の美」には
お役人さんも含め他宗の僧までが多く傾倒したそうです
とくに
隠元さんと弟子の木庵、即非の墨跡は
「隠木即」とよばれ
庶民から武士、公家、後水尾法皇にいたるまでが
その書を求め
またその求めに従って
彼らもことごとく書き与えたそうです

こうして
3年目には帰国するつもりが
再三日本に留まることを請われ
ついには
幕府から正式に寺院建立の提案があり
いよいよ帰国を断念することになりました
1659年、68歳の時です

『隠元』

2009年09月01日 | Weblog
隠元さんが生まれたのは福建省
そのころからお茶所でした
時代は北方でヌルハチが勢力を増したきた
明の衰亡記にあたります
6歳の時に父親が行方不明になり
21歳になったとき
父を捜す当てのない旅に出るのですが
その途中、普陀山で発心し
茶頭(さじゅう)を務めることになります
茶頭とは仏前に献茶し
大衆に茶を供する役のことです

そこに自分の居場所を見つけたのでしょう
その後、隠元さんは一度家に戻り
きちんと普陀山で出家したいと準備をするのですが
近所の黄檗山の僧に会ったとき
「道を学ぶには必ずしも地を選ぶ必要はない。
 因縁のあるところがとりもなおさず道場である」
と言われ
「おお、そうか!」と
そのまま黄檗山に入ることになりました
29歳の時です
簡単にまとめすぎて申し訳ないですが
人生にはこういう一言というのが、あると思います~

「隠元東渡の理由」は諸説ありますが
本書では
隠元自ら語る「法のため」が正当性が高いとしています
避難帰化でもなく
清の粟をはらむようになることを潔しとしないからでもなく
鄭成功の船に乗ったからといって
日本で明再興の準備をしようとしたわけでもなく
興福寺の逸然性融(いつねんしょうゆう)の熱烈な要請で
ただただ
長崎の唐三カ寺(興福寺、福済寺、崇福寺)の同胞支援のため

黄檗山の住持になっていた隠元さんはその時すでに63歳
1654年3年で帰る約束で厦門(あもい)港を後にしました
この時
隠元豆・西瓜・蓮根・孟宗竹・木魚と
黄檗禅と黄檗趣味を積んできたわけです
この船が長崎に着かなかったら
・・・お茶の歴史も違っていたでしょう