阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

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by小林じゃ

ランダムにサンフレ昔話 その20 カズの51日間(7) Jユースカップ

2014-05-09 19:23:21 | サンフレ昔話

 天皇杯の初戦から一週間後、1999年12月19日(日)はトップチームは天皇杯4回戦で福岡と対戦。岐阜で行われて500人余りしか入らなかったゲームだ。一方ユースはJユースカップ決勝トーナメント1回戦、横浜Fマリノスユース戦(ビッグアーチ)だった。18日の前日練習(広域補助)でカズが遠征メンバーに入っていることを確認したが、当初の予定通りユースを見ることにした。

 トップの天皇杯は13時、ユースは15時キックオフということで、広報氏がメンバー表を配っているタイミングで2-1勝利の報が入って来た。この時は、主税の2ゴールということしかわからなかった。

 そのメンバー表を見ると、この年のキャプテンは今年からJ主審になった権田。カズの代役は1年生宮本卓也、この2人がダブルボランチを組む。コウジはトップ下で駒野は左サイドだった。双子駒野の学年、3年生にはFWとGKがいなくて、全体では2年生3人、1年生2人が入ったスタメンだった。

 一方Fマリノスはこの頃は3年生は夏のクラブユース選手権までしか公式戦に出場せず、2年生以下が出場。しかし、フリューゲルスとの合併に伴ってユースも合併したこともあって見ての通りかなり強力なメンバーだ。もっとも、当時は他チームについては無知だったから、強力メンバーいうのは後からわかったことだけれども。

 小雪が舞って寒風が吹きぬける中始まったゲームは、サンフレが押し気味ながらゴールを奪えずカウンターから失点。ハーフタイムにH記者がトップの主税の決勝点はカズのアシストだったと教えてくれたのでメインの父兄に伝える。カズはプロになって初めてのフル出場だった。

 後半は何本もシュートを打ったけれど、コウジのシュートは枠を捉えず、駒野のミドルはバーを叩き、そのあとFKから追加点を取られて0-2で敗れた。Jユースカップ21回の歴史の中で、サンフレユースがホームで決勝T敗退はこの時だけということになる。マリノスはこの後も勝ち進み2年生メンバーで準優勝の好成績を残した。この年の決勝は長居で天皇杯準決勝の前座であったから、このチームをもう一度見ることになる。それからこの日はとにかく寒くてH記者が岐阜にいる同僚に「こっちは雪ふってんだ」って電話でぶつぶつ言っていて、ビッグアーチで12月に試合を見るのはつらいということを知った。このあと天皇杯を見るため仙台、長居、国立と追いかけたけれど、この日のビッグアーチが一番寒かった。

 後年のゴリさんの時の様子とはこの頃は違っていて、3年生ラストゲームのあとも普段の日帰りゲームのように淡々とバスに荷物を運んでいく選手たち。その中で、3年生の辻秀憲君が明るく挨拶してくれた。辻君はユースに入ったあとに心臓の病気が見つかってプレーを見たことはなく、いつもビデオ係。長い時間話したことはなかったが、ローカルのスポーツ番組で取り上げられた時に、プレーはできないけれど将来はサッカーに関わる仕事をしたいと話しているのを見て、その日が来るのを楽しみにしていた。ところが2年あまり後の4月下旬のユースの試合の時にある父兄から昨日お葬式だったと告げられて、そのゲームは声が出なかった。そのあとカズに聞いたら、ユース時代から何度か倒れることもあって病状は良くなかったとカズも悔しそうに話していた。いつも背筋をピンと伸ばしてビデオを撮っていたから、そんなに深刻な病気だとは思っていなかった。今回カズのことを書くにあたって、同級生の辻君のこともどこかに書いておきたいと思った。私にとっては辻君がビデオを撮影していた姿も、この日笑顔で挨拶してくれたことも、どちらもまぶしい思い出だ。

 

 



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