来月は初盆の前に父が亡くなって初めての原爆忌がやってくる。父の名は新たに原爆死没者名簿に書き加えられたはずで、我が家にも祈念式の案内が来ていた。しかし、8月6日の広島はとにかく暑くて、当日の渋滞の中行って帰るだけでも重労働である。それに首相の挨拶など今は聞きたくもないし、式典中にアベヤメロを連呼していた人たちにも遭遇したくない。家で静かに黙とうということにしたい。
今回書きたいのは、父と原爆ということで思い出したこと。それは、私が小学生の頃、タイトルの「原爆を許すまじ」を父が歌ってくれた時のことだ。某協会が来たらいけないから歌詞を全部書くのはやめておくが、その時父は、「二度と許すまじ原爆を」と歌った。 そして、「二度と」のところがうまいと学生時代ほめられたことがある、とも言った。ところが、当時小学校でもらった広島市歌が最初に書いてある歌の冊子では同じ歌の歌詞は、「三度(みたび)許すまじ」になっていた。聡明な?子だった私は、最初は「二度と」だったけど長崎もあるから「みたび」に歌詞が直されたのだろうと理解した。確かに、「二度と」の方が音階はしっくりくるのである。私の小学生時代の担任は組合に入ってなくて、この歌を教室で歌うことは無かったと記憶している。体育館で見たサダコさんの映画の中で聞いたことがあったが、二度とだったか三度だったか覚えてはいない。ともかく、この話はこれでおしまいのはずだった。
ところがである。今朝これを思い出して調べてみたところ、最初から「みたび」しか見つからないのである。昭和8年生まれの父の学生時代というから終戦後すぐに作られた歌かと思ったら、1954年の第五福竜丸事件のあとに原水禁運動が高まり、その中で作られた歌だという。すると、父は中学高校の音楽の時間に歌ったのではなく、この歌ができた時は大学生だったことになる。そして、この歌は翌1955年の第1回原水禁世界大会で作曲の木下氏の指揮により歌われたとある。国会図書館デジタルコレクションで検索したところ1955年出版の楽譜にも「みたび許すまじ」とあって、父が歌った「二度と」が入り込む余地は見つからない。
しかし、父の証言は私が直接聞いたものであるし、「二度と」のところの歌い方を褒めてもらったというのだから、父は私の前だけではなくて「二度と」と昔から歌っていたのだろう。父は腹の足しにならないことはあまりやらない主義で、学生時代も弟や妹のためにアルバイトに明け暮れていたと叔父叔母から聞いているが、学生運動や原水禁運動に関わっていたとは聞いたこともない。広島ローカルで「二度と」と歌われていた局面があったのか、あるいは中央で出版された楽譜はそうなっていても、広島では伝言ゲームで間違って歌っていたということもあったのだろうか。長崎の人と仲が悪かった、という可能性も一応あるかもしれない。
これはもう、広島の図書館等でじっくり探すしかないのだけれど、今はコロナで長時間図書館に滞在する訳にもいかない。チャンスを待ちたいと思う。